29.波乱
「こうして再び会えて良かった。もうすぐここを出る予定だったからね」
「…そうでしたの」
私の目の前で優雅に足を組み、琥珀色の液体を喉に流すこの人物は…私の記憶が正しければ、ヴィンセント・アンダーソンだ。
「それにしても…今日のその格好は…何かの変装かい?危うく君を亡き者にするところだった」
凄まじい散らかり具合だった1021号室から、なぜか移動させられた1022号室は、まるで別世界のような豪華さだった。ホテルの一室の中に部屋がいくつもあり、その全てに最高級の家具が備えられた…いわゆるスイートルーム。
その中に掃除婦の格好の私は…浮いている。
「…変装なんてとんでもないですわ。見ての通り、掃除をしに来たのです」
それ以外にここに来る理由など無い。
「掃除…?ああ、そう言えばそんな事を聞いた気もする。なにか?君は掃除婦でもしているのか?」
「その通りですわ。ですから…」
仕事に戻らせていただきたい…の言葉を紡ぐより早く、彼から次々と質問が降ってくる。
「なぜ?」
「え?」
「そう言えば出会った時も給仕をしていたね」
「それは、」
「生活に困っている?」
「ええ、まあ…」
「ここ以外にも仕事を?」
「ええ、ですから…この後も…」
「それは良かった。やはり私たちは出会うべくして出会ったようだ」
「は…い?」
この人は…何を言っているのかしら。
チリンチリーン…
アンダーソン氏が、美しい透かし彫りが施された手元の呼び鈴を振る。
「…お呼びでしょうか」
音もなく静かに黒服の男が現れる。
「カール、私は彼女を連れて帰る。向こうでの受け入れ準備を」
「…は」
…ちょっと待って、連れて帰る…?
「君は何も心配する必要は無い。私の国では女性は守られて然るべき存在だ。君は美しく着飾り、私の目を楽しませてくれればいい」
「お、お待ち下さい!おっしゃっている意味がわかりません!」
「ああ、説明が足らなかったね。簡単な話だ。君を私の第三夫人に迎える」
…なんですって?
第三夫人……?
「失礼しますが、あなたには奥様がいらっしゃる…?」
目の前で優雅にソファに腰掛ける男を改めて眺める。
しっかりした眉毛に彫りの深い顔。特徴的なのは下まつげね。長いわ。これまた長めの黒髪を左サイドでまとめて胸元へ流している。
「そうだね。15の時に正妻を得て、25で二番目の妻を。私の国では普通のことだ」
「じゅうご…それはまた…」
「そして35である今、君を迎える」
という事は、45でもう一人奥様が増えるのかしら…。
「何も心配しなくてもいい。君には専用の家も用意する。働く必要も家事をする必要もない。私は多忙だからたまにしか会えないが……」
…なんてこと。聞けば聞くほど理想的な結婚生活に限りなく近いわ。
「それに子どもを産む必要も特には無い」
……はい?
「私にはすでに11人の子どもがいる。後継は決まっている。もちろん産んでくれて構わないよ?ただ、子どもが出来なくても追い出したりはしないという事だ」
「…11人、ですか。ちなみに…奥さまとの間に…?」
「5人はそうだ」
「…左様でございますか」
悪びれることなく語る姿からして、恐らく文化の違いだという事は理解できる。
ただ…受け入れられるかは別のこと。
「アンダーソン様?…ありがたい申し出ですが、私、まだ学生なのです。この国を出ることはできませんわ」
アンダーソン氏の目が見開かれる。
「…学生?」
「ええ。…大学生ですの」
「大学…!?」
「え?ええ…。それが何か…?」
「大学に通う女性…なんという事だ…!」
…様子が、おかしい、わね。
「…これはますます君を逃すわけにはいかない」
「…はいっ?」
「私のハレムにはあらゆる職業の女たちがいる」
「ハ…ハレム?」
「だが学問を修めた女はいない。我が国にそのような文化は無い」
「は、はぁ…」
アンダーソン氏の体が前のめりになって来る。
「前言撤回だ。君には私の子を産んでもらう」
「え…」
「優秀な子どもが欲しい。世界を渡り歩ける優秀な子どもが」
「あ、アンダーソン様…?わたくし、子どもを産むつもりは…」
「わかっている。卒業するまでは待とう」
「わ、わたし、そんなに優秀では…」
「カール!」
また呼ばれたカールという人が、静かに話し出す。
「…クレア・ベゼル。タングル王国国立マーリン大学の2年生……」
「まさか…マーリン?あのマーリン大学か?」
「…は。タングル…いえ、この大陸で最も権威のある、あのマーリン大学でございます」
この人…いつの間に調べたの…!?どうやって!?
アンダーソン氏の瞳が妖しく光る。
「…決まりだ。必ず君を妻にする」
「…お考え直しください。私はハレム…には参加いたしません」
「まさか!ハレムに置いておくなど勿体無い。君には愛でる以上の価値がある」
「……あなたのために私が働くとでも?」
「ははは!なるほど、それが君の本来の姿か!ますます気に入った」
アンダーソンの指が私の顎にかかる。
「…働くしかなくなるさ。君はもう私の手の中だ」
耳元で囁く声がする。
「君にも…大切な人間の一人や二人…いるだろう?」
バッと彼の顔を見る。
「君を大切にしよう。何でも望むと良い」
彼の妖しい瞳が近づいて来る。
唇が重なるまであとわずか…
「…なるほど。大切な人間の中には男もいたか」
気がつけば、腕を力いっぱい伸ばし、この男の体を押しのけていた。
「そうでなくては面白くない。が、そろそろ時間か。また夜にでも顔を見に来よう」
伸ばした右腕を掴まれて、指に口付けが落ちる。
「クレア…美しい人」
一人残された1022号室で、私はただ立ち尽くしていた。
口付けられた右手が、抜け落ちてしまえばいいいのに。
そんな事を思いながら。




