120.病の王
近衛に守られた重厚な観音開きの木の扉。
ここまで歩いて来る中で薄々気づいていた。この場所が、公の空間では無いことに。
陰鬱で、ただひたすらに静謐なこの空間は、まるで主人の現状を現しているかのようだった。
あらかじめ訪いが告げられていたのだろう。扉前の兵士は、王を訪ねるには失礼極まりない格好の私たちをじっと見つめた後、無言で扉を開いた。
扉から漏れ出る爽やかなハーブと柑橘が混じった芳しい香とは対照的に、開かれた扉の向こうには、想定はしていたけれど目にするには衝撃的な姿の部屋の主が待っていた。
「…この様な姿であいすまぬ。よくぞ来てくれた。ベゼルの新しき当主よ……」
力強さこそないが、ゆっくりと言葉を発するその人こそが…
「…タングル王国第64代国王の、ダライアス…ウォルフォードだ」
陛下が名乗られた…。
頬はこけ瞳が落ち窪んではいるが、昔は相当な美丈夫だったであろうその人は、褐色の髪を一つに結わえてサラリと肩口に流し、赤みの強い茶色の瞳で私を見つめる。
虫入りグラスを持っているためスカートが摘めないが、せめてもの礼儀として膝を折ろうとした瞬間、陛下から声が掛かった。
「…私的な場でそなたが傅く必要は無い。両隣の男たちもだ」
右隣のカルロスと、左隣のローさんと一度ずつ目を見合わせて、私は一歩前に出た。
「…このたびベゼル公爵位を継承いたしました、クレアでございます。ご挨拶に伺うのが遅くなり、まことに申し訳ございません」
名乗った後で腰を折る。
「隣は…」
と言いかけたところで陛下が遮った。
「そなたの右がカルロス・ダンヒル、左が…ロードリック・コネリーか…。久しいな」
あ、陛下とローさんはお知り合いなのね。
「…左様ですな。ご無沙汰しております、陛下」
「うむ……」
陛下がローさんをじっと見つめる。
「…まことにベゼルとエドワーズは縁を結んだのだな。…儂は一歩及ばんかったか」
陛下が溜息をつく。
…どういう意味だろう。
陛下が目を瞑りしばらく何事かを考えた後、瞳に強い光を宿してこう述べた。
「クレア・ベゼル女公爵、そなたに頼みがある」
「……何でございましょう、陛下」
今日の本題が始まる…。
全身に僅かに力が入り、陛下の次の言葉を待つ。
「…ルーカス・エドワーズと離縁し、我が息子の妃となって欲しい」
「…え?申し訳ございません、もう一度…」
今…なんと…?
「我が息子の妃となって欲しい、と言った」
わがむすこのきさき……
は……い?
口がパクパク空を噛む。
茫然とし声が出ない私の左から、聞いた事の無いような恐ろしい揺らぎを持った声が響く。
「…陛下……まずは理由を述べられよ。我が主に仇なすほどの理由があれば…の話ではあるが」
「「ーー!!」」
普段は穏やかなローさんの凄みのある声に、カルロスと2人で驚く。
「ローよ…儂を見るがよい。痩せ衰え、立ち上がることもままならず、死に向かうだけの儂の姿を。…理由など決まっておる。…王位の、継承だ」
スッと頭が冷えていく。
私達がウィルキンソンの百貨店で考察した事は、おそらくほとんどが正解だった。
「…陛下、横から失礼いたします。陛下がおっしゃる御子息とは、ヨハン殿下の事ではございませんよね…?」
陛下が頷く。
「…左様。さすがはそこまで理解しておったか。そなたの言う通り、儂には市井で育つ息子がおる。…字面の通り、まさに、街中で育つ…な」
「…!」
すかさずカルロスから言葉が飛ぶ。
「それは…妃以外との子、加えて言うならば、平民の女性との間の子と理解したが、いかがか」
「その理解で間違いない」
…そこまでの想定はしていなかったわ。
平民との間の王子……。
「歳の頃はそなたと同じ19。…あとふた月で…成人だ」
ローさんが怒りを露わにする。
「勝手な事を言いなさるな。エドワーズを敵に回すか!?我が主がクレア様をいかに大切にしておるか、よもや知らぬ訳では無かろう!」
「ローさん……」
「…全て承知の上で願っておる。考えてもみて欲しい。類稀な才覚と、強固な家臣団を持つルーカス・エドワーズ。平民に育ち、何も持たない我が息子。ベゼル女公爵を必要とするのはどちらか、火を見るよりも明らかであろう。…息子には後ろ盾がいる。誰にも何も言わせない、絶大な後ろ盾が…」
「エドワーズは納得しない」
「…エドワーズは、な。だがベゼルはどうだ?我ら三家は、古より互いが混ざらぬよう暗黙の取り決めの中で代を繋いで来た。…その禁を破るのであれば、我が王家にも機会があって然るべきだ。……そうは思わぬか?カルロスよ」
「…ベゼルは……」
カシャーン……
「姫様!お怪我はございませんか!?ああ、グラスが粉々に……」
「…あ、わたくし…ごめんなさい。手に力が……」
「クレア様、気にするでない。どう考えても陛下の横暴が原因………」
全身が冷たい。立っていられない。
…私は禁を侵したのでは無い。
ただ…ルーカス様に…恋を……
「姫様…この虫はいつから動かなくなったのです…?」
「え、虫…?今はそれどころでは…」
「クレア様、まさか、手が痺れているのでは!?」
「…え?…どうかしら、冷たいけれど…」
だんだんと混濁してくる意識の中、カルロスが叫んだ。
「窓を開けるぞ!」
ローさんが叫んだ。
「扉を開け放て!」
私は、驚きに目を見開く陛下を、ただただ見ていた。




