116.訣別
「あー…のんびりした船旅…。こりゃいいバカンスだ。…お前さえいなきゃ」
「そっくりそのまま返そう。仕事じゃなければお前と船になど乗らん」
「へいへい、わーってるよ!」
昨日の早朝クレアの見送りを受け、私とザックが陸路で向かったのは、今回の事件のもう一つの舞台…トラウト王国。
因縁深き隣国…だ。
トラウトの港から今日の夕刻出港するタングル行きの船に乗る前に、トラウトでのいくつかの調査を行い、口を閉じるという事を知らない煩い男とすでに33時間を過ごしている。
いつか役に立つかも知れない訓練だと思って耐えたが、国に帰ったあかつきにはコイツを国外研修に代理申請する事を心に決めた。
「…俺たち二人になるな」
ぼそりとザックがこぼす。
「もっと早くにそうなるべきだった。…遅すぎたぐらいだ」
「…まぁな。俺、今日までは頭の中ではわかってても、今一つ現実感無かったんだよな。…でもアイツはこの船に乗ってる」
「………ああ」
「後ろは任せろ。……訣別の時だ」
ザックに一つ頷いて返す。
気色悪い台詞がポンポン口から出て来る男らしく、今夜に相応しい言葉で己を鼓舞する。
そう、今より先は、ただ仕事をするのみ。
犯罪者を捕らえるのみ。
「…今夜は荒れそうだな」
夜の甲板で風に当たる、見慣れた金色の髪に話しかける。
振り向いた青い瞳が驚愕に見開かれるのを視認する。
「ルー…カス…?」
「船旅が好きか?2年間で31往復…その前から数えると104往復。まるでどちらが自国かわからんな」
気が強そうだがいつも溌剌としていた瞳が昏い色を宿す。
…なるほど、そちらがお前の本当の顔か。大した演技力だった。
「…こんな所で会うなんて奇遇ね。そうよ、船旅が好きなの。ぼんやり風に当たるのが堪らないわ。ルーカスは?」
「こんな冬空で当たる風など碌なものでは無い。私なら船旅は断るな。…例えそれが親の命令だろうと」
「ーーー!」
ソフィア・ブロウズ…私とザックの同期。
彼女は確かにソフィア・ブロウズだった。出会った頃は。
ザックと二人彼女に当たりを付けてからも、どうしても見つからなかった事がある。
彼女が犯罪に手を染める〝理由〟だ。
証拠はいくらでも出て来た。
彼女が捜査官に与えられる特別旅券の権利を使い、出入国審査を受けずに数百回国を出入りしていること、トラウトの薬の売人と繋がりを持っていること、そして最後に、ハワード殿が残した小袋には…彼女の指紋が付いていた。
…捜査官としては完全に失格だ。
「…全部、わかってるのね」
彼女が暗い海を見ながら呟く。
「ああ…。ソフィア・ブロウズ、いや、レイチェル・ケンドール伯爵令嬢と呼ぶべきか?」
彼女がフッと口端を上げるとこう言った。
「やめてよ今さら。…遅すぎるのよ、何もかも」
「…そうか。それは悪かったな」
ケンドール伯爵…いや、レアード公爵の実娘の夫。
オリバー・カーソンがいなければ見逃していたであろう事実。
二人が〝駆け落ち〟しなければならなかった理由。
違う、公爵家の姫と結婚するには、余りにも大きな障害となった理由……。
「…トラウトの売れない舞台俳優だった父が、一体どんな手を使ったのか、私と兄を捨ててパトロンだったタングルの貴族令嬢と結婚したのは私が8歳の時だった」
「……………。」
「残された兄と二人、その日食べる物にも事欠くような、貧しくて苦しい中を何とか必死で生き延びて来た」
抑揚の無い声で、淡々と語られる昔話。
「私の人生から消えたと思った父が、ある日綺麗な服を着て私たちに会いに来た。『ある方が、役に立つならばお前たちを引き取っても良いと言って下さった。…遅くなってすまなかったが、また一緒に暮らすために努力してくれないか。』なんて、よくも白々しい台詞が出て来るものよね。…けれど私は18にしてすでにボロボロだったの。この暮らし以上の地獄は無いと思ってた」
彼女が大きく息を吐き、私をじっと見る。
「努力したわ。地獄から這い上がるために、血を吐くような努力をした。私は命令通り秘密警察の捜査官になり、兄はベゼル公爵夫人を籠絡した。…そして公爵夫妻が亡くなった日、私と兄は約束通り貴族になった」
「……遅すぎる…か」
「そうよ。やっと貴族令嬢になって帰って来たのに、好きになった王子様はお姫様を迎えに行っていた。…本物の、お姫様を」
犯罪者が昔語りを始める時、それには三通りの意図がある。
「話せるのはここまでよ。ねぇルーカス、私は貴族令嬢になったわ。…あなたが落とすべき相手じゃない?」
一つ目、同情を誘う意図。
「…仕事で関わった女の記憶は即時消す。それでも構わないと?」
二つ目、時間を稼ぐ意図。
「…微笑んでくれるなら、それでいいわ」
三つ目……
ソフィアの唇に親指で触れる。
「口を開けろ」
…そう、訣別の時。
永久の別れだ、ソフィア・ブロウズ。




