心臓破りの坂
夏空の下、寅之烝は自転車を漕いでいた。
どこまでも広がる青空の下にどこまでも広がる田圃道。
その真ん中を自転車に乗って揺ら揺らと家へと帰っていた。
いつもなら部活が終わり、夕暮れ過ぎの薄暗い田圃道を帰るのだがこの日は誰もが嫌がる定期テストが控えていて部活動をすることは禁じられていた。
何故、まっすぐ自転車を漕いで帰ればいいところを右に左に蛇行運転をしながらほとんど車も通らない田圃道で無駄な動きを続けているのかというと理由は15分前に遡る。
寅之烝が通う中学校は少子化が進み廃校になった2つの中学校の生徒たちを三年前に引き受けた為、一気に本来よりも大きな中学へと姿を変え、廃校になった二校に通う筈だった生徒たちは家からの距離が離れすぎているという理由で自転車での通学が許されていた。
校舎が丘の上に聳え立つ故に寅之烝は毎朝部活の朝練へ向かい、遅刻ギリギリで心臓破りの坂を駆け上ろうと自転車を必死に漕いだが決まって途中で足をつけてしまい自転車を手で押して登っていた。
だが寅之烝を苦しめるこの坂道も帰りには1日が終わりくたびれた寅之烝を自転車に座るだけでかなりの距離を進めてくれる有難い坂道だった。
ホームルームが終わり放課後の自転車置き場へ向かっていた寅之烝は校庭のフェンス越しに見える心臓破りの坂を見ながら「この坂道、角度急過ぎるだろ!」と思いながらボーッと見つめていた。
するとその坂道を涼しい顔で下って行く、寅之烝を瞳の中に吸い込もうとした女子出席番号1番【浅倉優香】の姿を見つけた。
寅之烝は慌てて小走りで自分の自転車に向かい急いで浅倉を追いかけた。
心臓破りの下り坂道で寅之烝は脇目も振らずペダルを全力で漕いだ。
只の空回りにしかなってないことなんてどうでもよかった。ただ、浅倉優香に追いつく事だけを考えて自転車を漕いだ。
なんで追いかけてたのかもわからない。
ただ、「追いついてくれ!」そう願いながら自転車を漕ぐとしばらくして踏切が開くのを待つ浅倉に追いついた。
「あぁ、浅倉さん。家、こっち、なんだ。」
息切れをしながら寅之烝は浅倉に尋ねた。
「うん、そうだよ。山崎くんもこっち?」
涼しい顔で浅倉は寅之烝の方を見ながら言った。
「そ、そう。」寅之烝は息が切れてまともに話せてない。
心臓破りの坂を下って息を切らしたのは後にも先にも寅之烝ひとりだけだろう。
「なんでそんなに息切れるの?」と笑いながら浅倉は寅之烝に問いかけた。
寅之烝の口から出た言葉はこうだ。
「部活ないから、急いで、帰ったら、何時に、帰れるか知りたくて、とにかく、急いで帰ってみようと、思って」
理由付けは完璧だと思った。これなら浅倉を追いかけて来たことがバレることはない。
「へぇ、なんか山崎くんって面白いね」
自転車のハンドルを握ったまま浅倉は目を細めて笑って言った。
「この会話がずっと続けばいいな」と寅之烝は心の中で思った。
やっとの思いで浅倉に追いついた喜びを隠しながら会話をしていると浅倉が放った言葉をものすごい轟音で目の前を特急電車が掻き消して通り過ぎて行った。
「なんて言った?」と寅之烝が聞き返すと
「なんでもない。どうでもいいこと」と言って笑った。
踏切がゆっくりと上がり始めた。
それを確認した浅倉は「じゃあね!」と寅之烝に言った。
完全なる誤算だった。
寅之烝はとにかく急いで帰ってると嘘をついたばかりだった。
「いや、なんか、もういいや。ゆっくり帰る事にした」
と寅之烝はまた嘘をついた。
「えっ?急いで帰ってたんじゃないの?」
と浅倉は不思議そうな顔をしていた。
その目に寅之烝はまた吸い込まれそうになった。
「いや、なんか踏切で結構長い時間引っかかったし、ペース配分ミスって疲れちゃったし、もういいや」と寅之烝が言うと
「やっぱり山崎くんって面白いね」と浅倉は笑った。
2人は自然な流れでこの日一緒に帰ることになった。
帰り道で2人はお互いの事を話した。
寅之烝が卓球部に入った理由。浅倉がバスケ部に入った理由。なんで英語の筆記体が書けるのか?
なんで寅之烝って名前なのか?
そして2人は浅倉の家の前に着いた。
寅之烝が思ってたのとはちょっと違って朝倉の家は古びた一軒家だった。
家に近付くと大きな犬が一度だけ吠えた。
「ごめんね。うちの犬、他所の人が来ると吠えるの。ここが家。じゃあ、明日また学校で。気をつけて帰ってね。」浅倉がそう言って寅之烝に手を振った。
「うん!家すぐそこだから!ありがとう。」寅之烝はそう言って自転車を漕ぎ始めた。
浅倉と別れたのが7分前の話。
「ゲホッ、ゲホ、カーッ、ペッ!」寅之烝は咳き込んで唾を吐いた。
気分上々で大声で歌いながら誰もいない田圃道を蛇行運転する寅之烝は浮遊する小さな虫の大群に突っ込み何匹か口の中に吸い込んでしまったのだ。
いつもなら気持ち悪くてずっと気にしていたかもしれないが、今日だけはそんなことはどうでもよくなるほどに浮かれていた。
「ただいまー!」
誰もいない家に寅之烝の声が響いた。