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ナイン・テイルズ

シーソーを傾けて

作者: 穹向 水透

七作目の短編です。よろしくお願いいたします。



 団地の中庭は、都会では稀有な緑だ。灰色、銀色に食傷気味の大人が、緑に心の安寧を求めてやって来る。まるでゾンビのようだ。

 今日の昼下がりも、団地の親子たちが中庭を跋扈している。どちらかというと、子供は緑になど興味はなく、遊具ばかりに眼を向けている。緑と同じように、遊具のあるスペースも都会では稀有な存在となりつつあるのだ。親は木陰で、他の親との情報交換に勤しんでいる。話すネタが尽きないのか、それとも惰性なのか、木陰とともに移動する様は日時計のようだった。

 グローブジャングルには何人もの子供が張り付いている。親からしたら、この勢いよく回転する遊具は危険そのものでしかないのだが、需要が供給よりもあるという現状から、撤去するのが躊躇われている。

 それの近くの砂場には、誰かのスコップやバケツが放置されている。子供という生き物は無慈悲で、所有しているという自覚を完全に欠損している。時折、絵本が埋まっていることさえあるのだ。

 ブランコは常に取り合いだ。座れる席はふたつのみで、子供だてらに血で血を洗う戦いがピストルを鳴らすことも多々ある。

 開けた空間に寂しくあるのはシーソーだ。親たちの連合レルムから遠く離れた辺境の地にあるシーソーには、誰も寄り付かないのだ。親たちの洗脳紛いの所為で、シーソーは行ってはいけない場所、居場所は城下町宛らのグローブジャングル、となっている。

 しかし、私は迷わない。迷わずシーソーへ向かう。グローブジャングルも砂場もブランコも横目に、昨日も今日もお気に入りのスケッチブックを抱えて歩くのだ。

「ご機嫌よう、柚早(ゆさ)。今日はどんな絵を描くの?」

「どんな絵か当ててみなよ、マリー」

「そうね……、あなたはブランコが好きだった筈。そう、ブランコの絵を描くんでしょう?」

「マリー、私のこと、全然理解してくれてないのね? 私はブランコは嫌い。だって、酔うもの」

「ご機嫌を損ねてないで、座ったらどう?」

「先客はいないの?」

「生憎、いつでも空席なの」

 彼女はマリー。作られたみたいなブロンドの髪が、緑には相応しくないほどに綺麗だ。まるでガラス玉のような青い眼は、フランス人形を彷彿とさせ、見る度に溺れる感覚を与えてくる。

「今日は一段とおめかししてるのね? それは何処の国のお姫様?」

「お姫様じゃないのよ、柚早。これはアリス。知ってるでしょう? 時計を持ったウサギが忙しなく走り回る絵を、トランプなんかの兵隊が足を合わせてる絵を。あとは、そうね、真っ赤な女王様もいたわね」

「知ってる。熱の時に見るぼやけた夢とそっくりだもんね。去年のインフルエンザで延々と見せられたから」

 私がシーソーに乗ると、マリーが浮き上がる。

「そういえば、ご存知?」

「何を?」

「今夜は流星群だそうよ。なんでも、百年か千年に一度らしいのよ。ロマンチックだと思わない?」

「確かにロマンチックだけど、私には似合わないからどうだろうね。星を見ることが似合うのは、この国の血では不十分」

「それよりも、流星群のひとつが、この星に落ちてきたらどうしましょうか? 世界が終わるとしたら? 何をしましょうか、何を食べましょうか?」

「それは杞憂ってやつよ」

「空が落ちてこないなんて、誰が保証したの? 少なくとも、私はしてないわ」

 私が浮き上がる。

「残念だけど、私も保証できない。だって、見てよ、空は今にも落ちそうでしょう?」

「そう、ぐらぐらしてるのよね。焦らさないで落ちてきて欲しいよね」

「いざ落ちてきたら、何を残せばいいのかな?」

「大丈夫、誰も何も残せずに平等に死んでしまうんですから。世界が滅んだ後に我が身を案じるなんて滑稽でしょう?」

「空って柔らかいのかな?」

 マリーが浮き上がる。

「柔らかかったら、死ねないじゃない?」

「いいじゃない?」

「最悪よ、そんなの」

「『最悪』ってのは、もう少し使うべき時があると思うな。今のは、勿体ない感じがする」

「あら、人間ってのは、生まれた時から死ぬ時までが『最悪』なの。永遠から見たら刹那のような、圧縮された人生だから」

「マリーは、生まれた時、どう思った?」

「寒いと思ったわ」

 私が浮き上がる。

「ところで、柚早。あなた、リュウタ君があなたに好意を抱いてることはご存知?」

「リュウタ君? 聞き憶えがないよ?」

「罪な女ね。いつか刺されたりして」

「刺されたら、もう一度、自分で刺すわ」

「立派よ、柚早。人生の幕は、自分で引かなくちゃ。誰かに引かれる幕なんて、どうやったらエンディングまで望めるかしら?」

 マリーが浮き上がる。

「『最悪』にエンディングなんか期待しない方が、心にも脳にも優しいよ。次回予告なんてされたらどう? 引けなくなるでしょう?」

「あなたはもう少しだけ、夢を見て生きたらいいのに」

「夢なんてさ、見ても何にもならないんだから、見なくてもいいんだよ。だってさ、夢が変な希望なんか見せてみなよ。それにずっと囚われちゃうんだよ?」

「現実が好きなのね?」

「うん、とっても」

 私が浮き上がる。

「そういえば、ベテルギウスが爆発したみたいね」

「ベテルギウス? 私にはどっちでもいいかな。太陽や月が壊れたわけじゃないんだからさ。自分さえ良ければいいの」

「夜も昼みたいになるそうよ」

「ノープロブレムだね。私は寝るのが好きじゃないから」

「だから、夢を見ないの?」

「そうかもしれないね。寝ることって、死ぬことでしょ? 怖くないの? 苦しくないの?」

「あなたは死が怖いのね?」

「勿論。いくら幕を引くと決意して、それを引いたとしても、その裏で誰が何をしてるかなんてわからないでしょう? 潔く死んでも、その後に後悔するの」

「死なんて全然怖くないのだけれどね」

「どうして?」

「永遠の平穏でしょう? 柚早、永遠の平穏よ? どう? 少しは楽に思えないかしら?」

「永遠ってさ、飽きそうじゃない? 飽きて、やることもなくなったらどうするの? 黴や苔が生えるまでじっとしてる? 細胞が溶け出すまで転がってみる? どうやっても、また死にたくなるんだよ」

「そうしたら、死ねばいいのよ」

「マトリョーシカみたいね。残念だけど、私はマトリョーシカが苦手だから、死は怖いの」

 マリーが浮き上がる。

「この話はやめにしましょうか」

「どうして?」

「あなたが苦しそう」

「前言撤回するよ。マリーは私を理解してくれてるのね」

「やっとわかってくれたのね? 嬉しいわ」

 私が浮き上がる。

「ねぇ、柚早? 生まれた意味って何か考えたことある?」

「それはあるよ。考えることがない時って、みんな大体、それを考えてるんだよ。生まれた意味を考えるって、誰にも迷惑を掛けない暇潰しだからね。私は好きだよ」

「どんな意味だと考えてる?」

「私は親の自己満足だと思うなぁ。生まれる前がお宝なんだよ。羊水の中でちゃぷちゃぷして、時々、蹴りつけたりしてさ。それだけで、親は満足するんだよ。生きてるだけで喜ばれるなんて、その時くらいだよね」

「今はどう?」

「愛されてたら、ここにいないかもしれないね」

「あら、それは寂しい」

「私は愛されていないから、マリーに逢えたんだと思うな。だったら、少しは感謝しないといけないのかも」

「柚早は他人の為には生きられなそうね」

「こっちから願い下げだよ」

 マリーが浮き上がる。

「何のために生きるか、そんなの決まってるよ。自分のためでしかない。自分が生きてればどうでもいいよ」

「優しくないのね」

「じゃあさ、マリーはさ、例えば、リュウタ君だっけ? 彼がトラックに轢かれて死んじゃいました。それでマリーはどう思う?」

「可哀想に、って」

「でも、自分じゃなくてよかった、って思うでしょ? 少なくとも私はそう思っちゃうな。リュウタ君の人生は彼の人生。私の人生は私の人生。時々、稀に交差する程度の線と線なんだよ? その交わった一瞬だけ、彼のことを考えて、可哀想だけれど自分じゃなくてよかった、って安心するんだよ」

 私が浮き上がる。

「やっぱり、柚早は現実が好きなのね」

「想像を愛しても、お腹は空いたままだからね。満たされるほどの愛なんて知らないし」

「それは、あなただからよ」

「マリーはどうなの?」

「勿論、愛されてるわ」

「誰に?」

「柚早に」

 マリーが浮き上がる。

「面白いこと言うね、マリー。私、そういう見方は結構好きだよ。その見方をするなら、私はマリーに愛されてるよね」

「勿論よ。私は柚早が大好き」

「どのくらい?」

「この星くらい」

「それはちっちゃいなぁ。もっとさ、太陽くらいとかってさ、言ったらどうかな?」

「じゃあ、ベテルギウスくらい大好きだよ」

「意地悪」

 私が浮き上がる。

「ごめんごめん。じゃあ、おおいぬ座のVY星くらいなら満足? これ以上って言われると、私の知らない世界にあるの」

「いいよ、それなら満足。でも、本当はね、もっともっと、ちっちゃくていいんだ。私が昨日、食べられなかったグリーンピースくらいの大きさでいいよ」

「グリーンピースが苦手なの?」

「ううん。食べることが苦手なの」

「どうして?」

「愛されてなかったからかなぁ。喉がね、まるで心みたいに狭くなっちゃってるんだ。食べ物なんて詰まっちゃうくらいに」

「それは大変。私の心みたいだったらいいのにね」

「本当にそう。時々、マリーの足りてる部分と私の足りてる部分を足せば、完璧な人ができるのに、って思うよ」

「お互いの足りない部分はどうするの?」

「いいよ。私がマリーに、私に出来て、マリーに出来ないことをあげるからさ。要らない部分は全部もらってあげる」

「じゃあ、先に死んだ方があげることにしましょう? 火を点けられる前に、煙になる前に、お互いのパーツを交換しましょう」

「約束だよ。守ってくれないと、私は何処にも行けなくなっちゃうからね。約束したからね」

 マリーが浮き上がる。

「マリーのお母さんは元気?」

「そうね、いつもと変わらないって意味で言うなら元気よ。ずっと、テーブルに突っ伏してるの。抗鬱薬だって飲み過ぎたら毒になることくらい、私たちでも分かるわ」

「お父さんはどう?」

「相変わらずよ。ずっと、部屋の隅」

「引っ込み思案だよね」

「だから、私はインドアって嫌いなのよね。やっぱり、生きるなら外よ。柚早の両親は?」

「相変わらず、相変わらずよ。あの人たち、手の形をグーにしか出来ないんだ。じゃんけんだったら、絶対に勝てるのに。いつも、いつも、力を使うから。卑怯だよね」

「あら、柚早、頬が赤いわ」

「態とらしいなぁ。ずっと、気付いたでしょ?」

「ごめんなさいね、気付いてたわ。でも、てっきり真っ赤な絵の具だと思ってたの」

「意地悪だなぁ、マリーは。もしも絵の具を使うなら、両頬が真っ赤になってる筈だよ」

 私が浮き上がる。

「そういえば、三号棟の屋上から、誰かが飛び降りたみたいね?」

「そうなの。四階のマチダさんだって。まぁ、誰が死んだって、どうでもいいんだけど、今回はダメ」

「どうして?」

「だってね、不運だと思わない? その人、私の部屋の前に落ちたんだよ。扉や地面が真っ赤だった。死ぬんならさ、もっと綺麗な場所があると思うんだよね」

「一号棟の屋上とか?」

「変わんないよ。灰色の角度が違うだけ」

「じゃあ、中世のお城とか?」

「勿体ないからダメ」

 私が浮き上がる。

「死ぬんならさ、どんな方法がいい?」

「うーん。悩むけれど、やっぱり首吊りかな? あ、でも睡眠薬も捨て難いかな?」

「焼身自殺なんてどう?」

「勘弁してよ。熱いのは嫌」

「じゃ、冷凍庫もダメね」

「勿論よ。出来れば、自分の部屋で死にたいな。さらに言えば、ベッドの上がいい」

「眠るように、って?」

「マリー。それは皮肉?」

「違うから気にしないでね」

「過激さが欲しいかな?」

「だったら、際限なんてないわね」

「マリーだったら?」

「私だったら、部屋の中で暴れ回るわ。お皿を全部全部、砕き割って、カレンダーを引き裂いて、ベッドシーツに火を点けて、お父さんを窓から捨てて、お母さんの心を見て、仕上げに自分の胸を刺すの」

「玩具箱みたいで綺麗かも」

「あら、同じ事を思ってたわ。やっぱり、柚早は私と同じなのよ。脳死したら、臓器は全部あげちゃうわ」

「要らないよ、どうせ売っちゃうんだしさ」

「せめて、何処か一部は残してね?」

「だったら、その眼かな? 青いガラス玉で、柔らかいんだよね?」

「そうね」

「不思議だよ、不思議。そんなに綺麗なのにね」

 マリーが浮き上がる。

「ねぇ、知ってる? 私は知ってるんだけれどね、あの木陰で話してる親がいるでしょう? あれがリュウタ君のお母さんなのよ」

「へぇ、でもね、マリー。私はリュウタ君が誰かわからないんだ」

「それでね、噂なんだけれど、リュウタ君、虐待されてるらしいの」

「ふぅん。それで?」

「それだけ」

「何を期待してたのかな、マリーさん?」

「見方が変わったりするかな、と思って」

「変わんないよ、変わんない。だって、本当にリュウタ君が虐待されてるとして、私に関係がある? 彼の支えになってあげる? どうにもならないでしょ? 私にまで危害が及ぶなら色々と考えなくちゃならないけど、リュウタ君の身体ひとつで大丈夫なら問題ないよね」

「さっき、柚早のこと『罪な女』って言ったけれど、違うのね。罪は罪でも、相当よ。無期懲役か死刑かしら?」

「ダメダメ。無期懲役や死刑クラスの『罪な女』は私なんかより格上なんだから。こんな子供と同格に並んでちゃダメだもの」

「柚早は法廷で、自分で自分をスケッチしてそうね」

「裁かれる前提はやめてね」

「大丈夫、大丈夫。人はみんな裁かれなきゃいけないことをしてるけれど、本当に裁かれるのは一部だけなんだから。そう考えると楽でしょう?」

「赤信号はみんなで渡ると大丈夫、って考え? 生憎だけど、私はひとりでも大丈夫よ」

 私が浮き上がる。

「ちょっと、足が疲れたなぁ」

「大丈夫?」

「マリーこそ大丈夫?」

「私は慣れてるもの。どんなに傾いても、浮き上がっても大丈夫」

「ちょっと、シーソーを止めてね」

 マリーが浮き上がり、そこで止まった。

「少し絵を描かせて、マリー」

「あら、いいわよ。でも、描くのなら、女神様が吃驚するくらいに綺麗にね。贅沢は言わないけれど、レオナルドのモナリザくらいに」

「それを贅沢って言うんだよ」

「どう? 筆は進む? モデルが悪いと、何もかもがダメになるらしいじゃない? 私は大丈夫?」

「お人形さんだから大丈夫よ。その辺に転がってる水溜まりよりよっぽど綺麗。本当に、その青い眼、羨ましいなぁ」

「しちゃえばいいじゃない」

「バカ言わないでよ。マリーは黒に変えたいと思う?」

「技術的に危なそうだから遠慮するわ」

「こっちも同意見」

 スケッチブックの十三頁目。漠然と広がる白に、熱線のように侵略的な黒を引いていく。この筆が滑るような感覚が、愛しく、消え難きものであることは言うまでもない。

「ねぇ、柚早? 私って、あなたから見たらどんな感じなの?」

「そうだね、ずっと言ってるけれど、やっぱりお人形さんだよね。陶器かな? 触ったら冷たそうで、壊れちゃいそう。その端正な顔にはね、まるで深海の表層のように青いガラス玉がふたつ。髪の毛は本物の金みたい。薔薇色の唇。間から見えるのは、砂糖菓子みたいに丁寧に象られた歯。人とは少し距離が遠いよ、マリー」

「どのくらい嘘を混ぜたの?」

「疑い深いね。全部、私の思ったままよ。思ったこともいえない人なんて、どうやっても救われないじゃない」

「それより、どう? 絵の方は?」

「輪郭が難しいよ。どうやっても、マリーにならない」

「輪郭なんて気にしなければいいの。そんな形なんかに囚われないで、柚早の思う私を、自由に描いてくれればいいわ」

「そうは言うけれどね、私は現実が好きなの。輪郭がないと落ち着かないの」

「モナリザとかダメ?」

「あんまりね」

「私は好きなんだけれど」

「見たことある? 本物を」

「沢山ね。夢の中で」

「なぁんだ夢か」

 少しだけ私が浮き上がる。

「ちょっと、マリー。揺らさないで」

「ごめんなさいね、少し座り心地が良くなくて」

「降りたらどう?」

「そうしたら、柚早が浮き上がっちゃうわ」

「優しいのね」

「そうよ、優しいの。昨日だって、お母さんが作ったカレーを残さず食べてあげたのよ。お父さんは部屋の隅に蹲って動かないの」

「美味しかった?」

「味は憶えてないわ。ごちそうさま、って言った後にトイレで吐いてしまったもの」

「マリー、そういうの良くないな」

「大丈夫。私、腹持ちだけはいいの」

「そういう意味じゃないんだけどなぁ」

 走らせた黒が、少し不自然なマリーの輪郭を作り出し、私がディテールを追加する。柔らかそうな金の髪は、優しく、黒くならないように描き、ガラス玉の眼は、光があるように描いた。

「柚早、頬が赤いわよ」

「知ってる。というか、さっきも言ってたでしょ?」

 マリーは笑う。

「ごめんなさいね。頬よりも、スカートの端の赤が気になっちゃって」

 私は咄嗟にスカートを見る。確かに赤い染みがあった。

「何処で培ったのかなぁ、その性格は」

「親譲りよ。それよりも、その染み、落とさないと黒くなっちゃうんじゃない?」

「やめてよ、気付いてたならさ。うーん。本当に良い性格してるよね。普通だったら、頬に眼が行くと思うんだけれど」

「そろそろ、シーソーを傾けても?」

「あ、ちょっと待ってね」

 私はマリーの口を描いた。唇が一番上手に描けたと思う。

「いいよ」

 私が浮き上がる。

「絵はまた今度見せてね」

「いつがいい?」

「私たちが大人になったら、がいいわ。タイムカプセルか何かに入れておきましょう?」

「タイムカプセルなんてダメだよ。みんな忘れちゃうんだから」

「いいえ、私と柚早は憶えられる筈よ」

「ダメダメ。私は、マリーが思ってるよりもシンプルな機能しか搭載されてないの。言い換えれば低機能なんだ」

「そうかしらね」

 マリーが浮き上がる。

「マリーは死ぬ前に何を食べたい?」

「私なら、チーズケーキかしら?」

「チーズケーキか。私も好きだよ」

「あらま、奇遇。でも、一番じゃないでしょう?」

「うん。一番はチョコレートケーキ。確か、家の冷蔵庫にふたつともあったと思うな。消費期限が過ぎてなければいいけど」

「過ぎてても大丈夫よ」

「なかなか、危険なことを言うじゃない? 私は嫌だよ。生きる苦しみに更に苦しみを加えるなんて」

「隠し味よ」

「全体的に味をマイナスにしてるよ」

「一滴の毒が、柚早を殺しちゃうの」

「そんなことをするなら、毒だけをくれたらいいのに。すぐに服用してあげるのに」

 私が浮き上がる。

「あ、見て、あれがリュウタ君よ」

 マリーが指差す方を見ると、ブランコ前で争っている数人の子供がいた。きっと、席の奪い合いだろう。ひとりの子が四人の子に集中的に攻撃をされている。

「どれがリュウタ君?」

「あれよ、あの今、頭を蹴飛ばされた子」

「惨いね」

「子供って加減を知らないものね」

「今の言葉は、少しだけズキッと来るものがあるなぁ」

「あら、ごめんなさい。柚早の心を傷付ける意図はなかったのよ。時々あるじゃない? 一言の優しさが傷を付けてしまうこと、逆もまた然りってことよね」

「当然よ。普通なら、優しさの方が後に出ると思うけれど」

 見ると、リュウタ君は一番体格のいい子供に押し潰されて身動きが取れない状態で、そこを他の三人に攻撃されている。集団リンチというやつだ。木陰の親は涼しいもので、リュウタ君の悲鳴も聞こえているだろうに、まったくと言って言いほど、自分たちの話を止めず、動くこともない。マリーが言うには、リュウタ君の親もいるそうなのだが。

「可哀想ねぇ」

「あんな競争率の激しい場所にいるからいけないんじゃないかな? シーソーなら独占できるってのに」

「そうね、私と柚早しかいないものね」

「何でみんなこっちへ来ないのかな?」

「遠いからじゃない?」

「でもさ、他の遊具が使えないのなら、こっちに来るのは自然じゃない? 何で来ないの?」

「そんなことより、足が疲れたんじゃない?」

「まぁまぁね。でも、まだ大丈夫」

 マリーが浮き上がる。

「あら、見て見て。リュウタ君から子供たちが離れてくわ。可哀想にね。凄い凄い。真っ赤よ」

「好きだね、マリーは」

「本当に真っ赤なの」

「私の頬より」

「それには負けるわ」

「キスしてよ」

「大人になったら、でお願い」

「じゃあ、タイムカプセルにしまう?」

 私が浮き上がる。

「しまっておきましょう」

「私たちは大人になれるのかな?」

「なれるわよ」

「そろそろ、帰らないと、かなぁ」

 マリーが浮き上がる。

「もうそんな時間? もっと遊べると思ったのに」

「大丈夫、また明日もあるよ」

 私はシーソーから降りる。地面の感覚が久しい。

「ねぇ、柚早。明日っていつ来るの?」

「眠ったら来る筈だよ、マリー」

「大人にはいつなれるの?」

「何回か眠ったら、かな」

「じゃあ、また明日ね」

 マリーが手を振る。

「ばいばい」

 私もそれに応える。

 私はシーソーを振り返らずに歩く。ブランコ前ではリュウタ君が蹲って泣いている。誰もいない砂場には、忘れられたように靴が片方だけ残されている。グローブジャングルは幽かな風に回され、キィキィと錆びた音を鳴らしている。

 シーソーが傾くみたいに、太陽が傾いて、子供たちも、木陰の親も消えた。風の音だけが、中庭に寂しく吹いた。

 三号棟の入り口で、シーソーを振り返った。そこにはもう、誰もいなくなっていた。



 私は部屋に戻った。部屋は一階の一○四号室。

 部屋に入るとすぐに、母親がやって来て、私に小言を言い始めた。でも、何を言っているか、私にはわからなかった。

 父親もやって来て、手の形をグーにした。私は部屋の壁へ飛んだ。理由なんかないのだろう。

 ふたりは、今から夕飯を食べてくる、と言って出て行ってしまった。部屋に残されたのは、頬から感じる熱く鋭い痛みと、漂う煙草やアルコールの残り香だけだった。

 スケッチブックをシーソーに置き忘れてきてしまった。けれど、もうどうでもよかった。

 私はシャワーを浴びた。シャンプーやボディーソープは使うなと言われているが、沢山使ってやった。頬に沁みるけれど、平気だった。

 着替えてから、絵本を読んだ。文字は、滲んだり、破れたりしていて読めなかった。『青い空、眠る子猫』という絵本を読んだら、どうしてか、涙が出てきた。文字は読めなかったけれど、最後の子猫が青空の下で死んでしまう絵が苦しくさせたのだ。

 私は『青い空、眠る子猫』をゆっくり丁寧に棚に片付けた後、父親のアルコールを全部叩き割って、母親の服を火に焼べた。

 母親の服が燃え盛るのを横目に、私は冷蔵庫からチーズケーキを取り出して、食べた。柔らかくて甘くて美味しかったけれど、途中から何故かしょっぱくなってしまった。

 チーズケーキの包み紙をテーブルに置いたままにして、少し眠って、私は外へ出た。すでに真っ暗になっていて、中庭にぽつりぽつりと灯りが見えた。誰かの自転車を漕ぐ音がやけに大きく聞こえて、夜の深さを改めて感じた。

 コンクリートのタイルを鳴らして、私は二階へ上った。少し地面が遠くなって、落ちたら痛いんだろうな、という想像が湧き出した。

 三階、四階へと上る。中庭が一望できる高さになり、遊具は昼間のシーソーのように寂しそうに佇んでいる。

 そして、屋上へ上る。杜撰な管理の為に鍵が掛かっていないということは知っていたが、飛び降り自殺があったにも関わらず開いているのは、流石としか言いようがない。私は多少軋むドアをゆっくりと押した。

 視界は黒い黒いカーテンで囲んだようだった。そして、カーテンには白い宝石が鏤められている。一瞬、白い光が通り過ぎたような気がした。

 ああ、そうか。マリーが言っていた「百年か千年に一度の流星群」というのは、これなのだろう。次第に白い光が増え、私には雨のように見えた。或いは魂。

 私は歩いて、全方位を見渡して、宝石の雨の中心で踊ってみた。

 私は、私に明日があるのなら、まずはマリーに謝らないといけないな、と思ったのだった。

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