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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Future Lily

作者: muramura

 

 それは全く予想もしない、本当に唐突な知らせだった。知識としてはそれの存在を知っていたがまさか自分の元にくるとは思ってもいなかった。どうして、なぜこれが私の元にくるの?

 驚きのあまり放心している私に、招かれざる訪問者が歩み寄る。

「森宮千代様ですね? この度はおめでとうございます」


 目の前にいる男が表情を変えずにそう言って、私にそれを差し出した。

 一目見れば、読まずともそれが何かはわかる。私は色々な気持ちがこみ上げてくるのを抑える。吐き気がする、頭が痛い。すごく痛い。

 だけど私は努めて平静を装い丁寧にそれを受け取った。


「ありがとうございます。お国のためにがんばります」


私はかすかに震える声で学校で習った通りの返事をした。





 今日も空が綺麗だ。空を眺めながら私は今日も学校へ向かう。

 今が戦争中とは思えないほど空は本当に綺麗に晴れ渡っている。今日はいい朝だ。いつもと変わらない平和、いつもと変わらないこその平和だ。私はそれを噛みしめるように味わう。


「おはよう、美月」


 後ろから声をかけられ、振り向くと私と同じ白い制服を着た背の高い少女が立っている。彼

女の名前は北山さゆり、私の友人だ。学校に入ってから急速に背が伸びたため、彼女の制服は

丈が足りていない。


「おはよう、さゆり。今日も制服が危なそうだけど大丈夫? お腹とか見えそうだよ」


 首をかしげ、さゆりは制服お腹のあたりを調べる。


「うーん、まあ大丈夫でしょう。お腹くらい」


 さゆりは相変わらずだ。だけどそろそろ制服も限界のように見える。


「まだ成長してるなんて羨ましいな、私なんてとっくに止まってるよ」


「私は美月くらいがちょうどいいと思うけどな。私なんてこれ以上成長してもいいことないし……」


「さゆりは運動苦手だものね……」


 さゆりはこれだけ恵まれた身長を持ちながら運動は全くだめないわゆる見掛け倒しなのだ。別の言い方をすれば宝の持ち腐れだ。


「どうせ私はでくの坊さ」


 さゆりが溜息をつき少しいじけたそぶりを見せる。いつもと変わらないやりとりだ。

「別に運動なんかできなくても、私は困らないもん」


「そんなことより、こんなに天気がいいと今日は学校へ行きたくなくなっちゃうなー」


 さゆりが突拍子もなくおかしなことを言い始める。だけどこれは今に始まったことではない。

 そして彼女の恐ろしいところは、その突然の思いつきをためらいなく実行することだ。私は何度それに巻き込まれ、えらい目にあったことか……


「なにを言ってるの?サボってどうするのよ?」


「……公園でお昼寝するのもいいし、喫茶店に行くのもいいな。美月も行こうよ」


 少しだけ甘い誘惑に負けそうになるが、私はそれに抗う。


「行くわけないでしょう。ほらさゆりも学校へ行くよ」


「えーなんでー」


 私は不満そうなさゆりの手を引いて歩きだす。


 いつもと同じ通学路を通り、学校へ続く並木道を抜けると真っ白い木造校舎が見えてくる。

 私たちの通う学校は長い歴史を持っているらしく、校舎も年代物の旧式だ。ようはとてもぼろぼろだ。しかし私はそんな校舎が好きだ。古いものには歴史が宿る。私は歴史が大好きだ。


 人は歴史から学ぶべきなのだ。私はそう思う。かつて世界中で大きな戦争が起こり、たくさんの人が死んだというのに、人は戦争を止めようとしない。

 悲しいことに私の住むこの国も例外ではない。今この瞬間でさえどこかでこの国の兵士が戦っているのだろう。実際この国の戦況は芳しくない。

 物資も人も食料も足りていない。技術は大幅に進歩したとはいえこれだけは前世紀の戦争と変わってはいないようだ。といっても今の食料事情は昔に比べればだいぶ良いのだろうけれど。


 さゆりと連れ立って教室に入る。教室内は多くの生徒で賑わっている。今時木製の机と椅子そして黒板を使っている学校などここの他にはあまりないのではないだろうか。

 いくら伝統を大切にする校風といってもやりすぎな気もする。まるでこの学校だけ過去にタイムスリップしてしまったようにさえ錯覚してしまう。そんな時代錯誤な教室を見回し、私は友人の姿を探す。


「あれ? 千代まだ来てないのかな?」


 私同様に友人を探していたらしいさゆりが声を上げる。千代は私たちの友人で本名を森宮千代という。さゆりとはこの学校に入ってからの付き合いだが、私と千代は幼い頃からの友人だ。

 そんな千代の姿が見当たらない。いつもであれば既に席に着いているはずなのだけど……。


「珍しく遅刻でもしたのかしら?」


 千代がまだ来ていないことに私は気を落とすが、しかたなく自分の席に座り授業の準備

を始める。


「千代が来てないからってそんなに落ち込むことないでしょ。きっと寝坊とかなんかだって」


「うん、そうよね」


 確かに私と千代は付き合いも長く、仲もとても良いけれど私たちは親友でしかない。私がその先の関係を……いわゆる恋愛関係を密かに望んでいることは誰にも伝えてはいない。

 これからも誰にも伝えるつもりはない。もし私の気持ちを千代が知ってしまったら、私たちが友達でいることも難しくなってしまうだろうから。

 千代に避けられり、嫌われたりしたくないから。



 しばらくして担任が教室に入って来るなり教室は一変して水を打ったように静かに

なる。


 担任が淡々とした口調で事務的な連絡事項を伝える。どうやら千代は家庭の事情で今日は欠席らしい。家庭の事情とは便利な言葉だと思う。他人に対して事情に踏み込むな、と言っているようなものだ。

 私が担任に千代の欠席理由を聞いたとしても、決して答えは得られないだろう。


「以上で今日の朝礼を終えます」


 最後にいつも通りの結びをして、担任は教室を出て行った。

 朝礼が終わり1時限目の授業が始まる。千代が休んでいることを除けば、いつもと変わらない普通の授業だった。






「美月、帰らないの?」


 さゆりに声をかけられ、周りを見ると生徒たちは皆帰宅の準備をしている。


「ごめん、少し考え事してた」


 私は慌てて答える。なんとなく考え事をしていただけだったのだが、もう終礼が終わっていたようだ。

 考え事をしていると周りが見えなくなるのは自分でもわかってはいるが、直すことは難しい。


「それじゃあ、帰ろうか?」


 このまま帰ってもいいけれど、私には千代のことが少し気がかりだった。

 たいしたことではないのかもしれないけれど、何故だか心配になってしまったのだ。


「ごめんなさい、でも私今日は千代のとこに寄っていこうかと思ってるの。お休みしてて心配

だし……それにノートも届けてあげたいし」


 それを聞いて何故だかさゆりは少し難しそうな顔をするが、すぐにいつもの優しい笑顔を浮かべる。


「そっか、じゃあ私は先に帰っているね。千代によろしく、それじゃ」


 さゆりそう言うと軽く手を振ると小走りで教室を出て行った。


「また明日ね」


 友人の背中に声をかける。

 あんなに急いで何か用事でもあるのだろうか?




 私は千代の家に向かうために裏門へと向かう。彼女の家には幼いころから何度となく訪れているので道に迷う心配はない。しかし私の家とは学校を挟んで正反対にあるため少し時間がかかってしまう。

 森宮家は古くからある立派な屋敷で少し坂を上ったところにある。私は市街地を抜けて彼女の家の坂の前に立つ。長い急な坂道を見上げ少し気が滅入るが、覚悟を決めて登り始める。

 真夏は過ぎたとはいえまだ残暑の厳しいこの時期に坂道を上るのは中々に辛い。大量の紫外線が私の肌を突き刺す。

 最近の運動不足のせいか、息が乱れ背中にじんわりと汗がにじむ。千代は毎日この坂を上っているのかと思うと、彼女を尊敬せざるを得ない。私も少しは運動しないとだめだな……。




 やっとの思いで私は森宮家の戸口にたどり着く。乱れた息を整えてから戸を叩く。


「ごめんください、千代さんの同級生の小桜美月です。千代さんいらっしゃいますでしょうか?」


 しばらく戸の前で待っていると、中から着物を着た女性が出てきた。千代の母親だ。


「どうもお久ぶりです。小桜です。今日千代さんが欠席されていたので、千代さんに今日の授業のノートを持って参りました。ってあの、どうかされましたか?」


 千代の母親の目元は泣きはらしたことをしめすように腫れており、今も目じりに涙をためている。よく見るとだいぶやつれた様子だ。何か悪いことがあったようで胸騒ぎがする。

 千代の母は細い体を震わせながら、嗚咽混じりの声で私に事情を伝えようとする。その様子は本当に

痛々しいものだ。


「実は昨日の夜……千代に召集令状が届いたの……あの娘は普通の娘で大丈夫だと思っていた

のに……」


「招集令状って、つまり……」


 その言葉を聞いて唖然とした。話がすぐに理解できなかった。いや私の頭が理解を拒んでいるんだ。しかし嫌でも私は理解してしまう……つまり千代は、私の親友は兵隊として戦場に行かなくてはならないのだ。

 そんなことは嫌だ、しかし私や千代本人が嫌だとしても国がそれを許さない。召集令状は断るなんてことはできない。それは幼いころから学校で教えられてきた。

 召集令状によって集められた兵隊さんがいるから、私たちは平和に暮らせるのだ。だからもし召集令状が自分に来たときは国を守る名誉ある仕事に就けることに感謝して従いなさい、と。

 兵役から逃れることは出来ない。唯一の方法死ぬことぐらいだろう。そして召集を受けて戦地

に行くということもほとんど死と同義なのだ。


 千代の母はまたしてもその場で泣き始めてしまった。私もどうしていいかわからず、目からは涙がこぼれ始める。

 千代が戦争に行くのは嫌だ。しかしそれを止める術がないことも十分過ぎるほどに知っている。


「2人して玄関で泣くなんてみっともないからやめてよ」


 声のする方を向くと階段のところに浅葱色の浴衣を着た千代が立っていた。


「もうお母さんたら、泣いたらだめでしょ?娘の門出なんだから。私はお国のためにこれから頑張れるんだからさ」


 そう言って千代は誇らしげに胸を張る。千代の母親はそれを見てまたも泣き始める。


「あの、召集って本当なの? じょ、冗談とかじゃないよね?」


 本当はただの私を驚かせるための嘘であってほしい。そんなことはないとわかっていながら、千代に確認せずにはいられない。


「うん本当、この間学校で適性検査があったでしょう?そのときに適性が見つかったみたい。今日、話を聞いてきたの。私も驚いたけどさ……美月もそんな悲しい顔しないでよ」


 本当に、どうしようもなく悲しい。こんな現実、私には受け入れられない。

 私はこんなに悲しいのに、どうして千代はそんなに平気そうなの? 千代は悲しくないの? どうして他の誰かではなく、千代が選ばれたの?

 たくさんの考えが頭の中を渦巻く。頭が熱っぽくてまるで夢の中のようだ。これが夢なら悪夢だろう、そして早く醒めてほしい。


「千代っ!私……その……」


 混乱のあまり言葉が上手く出てこない。


「こんなところで話すのもなんだし、別のところで話さない?」


 私や彼女の母のことを気遣っての提案なのだろう。私はそれに無言でうなずく。





私たちは家を出て坂道をさらに上って行く。この先によく2人で遊んだ場所があるのだ。

お互いに無言のまま坂道を歩く。太陽が少し傾いてきてさっきよりもだいぶ涼しくなってきた。

風が吹き、私の少し前を歩く千代の束ねた後ろ髪が揺れる。


坂道を上りきったところにその場所はある。と言ってもただの小さな広場に小さなベンチがあるだけだけど。ここからは私たちの住む町が一望できる。

私たちはそのベンチに並んで腰かける。どうやら他に人はいないみたいだ。今日は天気がいいのでここからの景色も素晴らしい。

眼下には小さな建物が立ち並びその間を更に小さな車や人が行き交うのが見える。もっと遠くを見ると光を反射して輝く海がみえる。この景色をもう2人で見ることは出来ないのかと思うと、またしても涙が込み上げてくる。

しかし私はそれを懸命にこらえる。


「いつこの町を離れることになるの?」


「明日の朝には訓練基地に移動しなくてはならないようなの……だから今日あなたに会えて本当に嬉しい」


千代が悲しそうな目をして笑う。きっと彼女は自分の死も覚悟しているのだろう。召集された兵隊は強化兵として最前線で戦うことになるのだから……。

そしてその多くは生きて帰ってくることはほとんどない。

彼女がそれを知らないはずがない。


「千代は……怖くないの? 町を離れて戦争に行かなきゃならないのに……死んじゃうかもしれないんだよ。どうして笑えるの?」


私の質問に対し彼女は困ったように頭をかく。


「正直、私だって戦争には行きたくない……名誉だとかも別に欲しくはない。やっぱり戦争は怖いよ……でも誰かが行かないといけないの。そして私にはその能力がある……だから私は行くよ……この国やこの町のために」


遠くを眺めながらそう語る千代の声はところどころ震えている。しかし彼女の黒目がちな眼には決意の色が見える気がした。

かつてこの国には国や家族を守るために自らの命を犠牲にして戦った兵隊たちがいたという。彼らの姿が今の千代の姿に重なった。


千代には戦争に行って欲しくない。だけど彼女を引き留めるだけの言葉を私は持っていない。それにこんなのは私の子供っぽいわがままだ。

誰かが行かなくてはならないんだ、そして行きたくない人だって大勢いるんだ。千代は私よりもずっと大人でそれを理解している。


私が何も言えずうつむいていると、不意に千代が立ち上がり、両手を上げその小さな身体で大きく伸びをする。私は座ったまま彼女の整った横顔を見上げる。

気づくと陽は遠くの山に沈もうとしており、視界一面が夕日色に染まっている。何度となくここから見た夕暮れの景色、いつもと変わらないありふれた景色だ。


千代が私のほうに向きなおる。お互いの目と目が合う。大好きな私の友人が少し頬を染めてはにかむ。


「安心して……私は国の役に立って、ちゃんと帰ってくるから。あなたは心配しなくてもいいよ。きっと無事にまた会えるよ」


これから先のことは誰にもわからない、けれどそれを悲観することに価値はない。だから私たちはたとえ叶わないとしても願いを口にする。それが叶うと信じて。


千代に合わせて私も立ち上がる。私のほうが少し背が高いので目線の高さが逆転する。


「私待ってるからね、千代が帰って来るのを……毎日千代の無事を祈って待ってるよ」


千代は瞳を潤ませ何か言いたげに口を動かすがすぐに私に抱き着いてくる。いつも大人っぽいくせに、何かあると私に抱き着いてくる癖は変わらない。

私は彼女の身体を強く抱きしめる。鼻先に彼女の柔らかい黒髪が触って少しくすぐったい。


「……戦争なんて……無くなればいいのに」


千代が私の耳元で小さくつぶやく。それは多くの人間の願いだろう、しかし人が他人と暮らす限り争いは絶えない。これまでと同様にきっとこの先も戦争がなくなることはないだろう。


「そうね……本当にその通り……」


そんなことは不可能だとお互いにわかっていながら言葉を交わす。


「私手紙書くから、前線に行ったとしてもきっと」


千代が明るい声で言う。


今時、手紙なんて書く人はほとんどいない。時間もかかるし面倒だからだ。しかし電子的な情報だけでは伝えられないものが手紙にはあると思う。

千代は私が手紙が好きなことを知っている。だからこう言ってくれるのだ。


「ありがとう、私もたくさん手紙書くね。千代が返信しきれないくらい書くからね」


千代をこれ以上悲しませないようにと涙をこらえてきたけれど、我慢の限界だった。

私は情けなく声を上げて泣くのを止められなかった。


泣きじゃくる私の頭を千代は何も言わずに撫でる。何度も何度も子供をあやすかのように。彼女の手が優しく私の髪をかきわける感覚が心地よい。


「大丈夫……大丈夫だから」


しばらくして私が落ち着いてくると、千代は密着していた身体を少しだけ離す。

私の顔の横にあった彼女の顔が自然と目の前に来る。互いの鼻先が触れそうな距離。

照れくさいような、嬉しいような、悲しいような、千代はそんななんとも言えない表情で私を見る。そしておそらく私も彼女と同じような顔をしているだろう。しばらくお互いに何も言わずに見つめ合う。


夕日は沈み、あたりは小さな1つの街頭と欠けた月が照らしている。町のほうを眺めれば家々の明かりに彩られた夜景が見られるだろう。しかし私は彼女から目を逸らすことができない。

彼女もじっと私を見る。

今しかない。今しか彼女に想いを伝えられない。たとえ拒絶されたとしても何も伝えずに後悔するよりは良いだろう。

そう思って口を開く。


「あのっ……私……」


「言わなくていいよ。美月はきっと私と同じこと考えてる」


千代はそう言ってほほ笑む。


「えっ?……」


それってつまり……

しばらくの後どちらからともなく、私たちは顔を寄せ合う。互いに目を閉じて、唇がわずかに触れ合う。しかし触れた瞬間にすぐさま離れる。

まるで電流が流れたかのような衝撃が全身に走る。そして恐る恐るもう一度互いに唇を合わせる。今度はさっきよりも長く。さらにもう一度、二度、三度、何度もキスを交わす。回を重ねるほどに、より長く、深く。互いを求めあう。

今だけは、私たちを取り巻く全てのことを忘れて、ただお互いのことだけを考えていたい。

初めてのキスだった。千代もきっと初めてだろう。不慣れな私たちは互いの歯がカチカチとぶつかり合うのも気にせずにキスをする。

相手は幼い頃からの友人で大好きな人。そして同じ女性。だけど今の私たちにはそんなことはささいなことだ。

お互いが本気で愛し合っている、そのことが重要だ。

私たちは残された時間を惜しむかのように、互いを求めて接吻する。嬉しさのあまり涙が止まらない。言葉はもう必要ない。唇や肌を通して彼女の気持ちが伝わってくるのかもしれない。

優しく抱きしめあい、唇を重ねる。何度も、何度も。彼女が遠く

に行っても忘れないように、唇の感触も、抱きしめたときの柔らかさも、少し苦し気な息遣いも、全て覚えていられるように。

この時間が引き延ばされて永遠になればいいのに……だけど人の時間は有限だ。幸せの時間にも終わりは来る。その時間が迫っていることに気づき、私たちは名残惜しいが身体を離す。

時間を忘れるあまり、すっかり夜になってしまった。もっと千代といっしょに居たかったがもう限界だろう。彼女は明日の朝にはこの町を出なくてはならないのだから……


「遅くなってしまったし、もう帰らないとだめね」


 私の提案に彼女は寂しげにうなずく。

 私は彼女の手をとって歩き出す。彼女の繊細そうな手はひんやりと冷たくなっている。昼間はあんなに暑かったが、今は半袖の制服では少し肌寒い。

 浴衣もやっぱり寒いのだろう。子供の頃の思い出話をしながら、互いに温め合うかのように寄り添って歩く。


「ねぇ一つ聞いてもいい?」


 歩きながら私は疑問に思っていたことを口にする。


「いいけど、なに?」


「いつから、その……私のこと好きだった?」


 私の質問に対し、彼女はお得意の意味ありげな笑みを見せる。


「あなたが私を好きだと気付く前からよ」






 行きは長く感じられた坂道がとても短くなったみたいだ。すぐに森宮家の門の前に着いてし

まった。

 握った手を放すのが辛い。もう二度と会えないのではと思うと吐きそうになる。さんざん泣いてもう涙も枯れたと思っていたのに、また泣きそうになる。

 今から2人で逃げようかと妄想するが、そんなことはできないのは自分でもわかりきっている。

 考えこむ私の頬を千代の手のひらが触れる。そして彼女のほうからキスをしてくる。本当に軽く触れるだけのキス……。


「私たち……また会えるよね?私待ってるからね」


「大丈夫、たぶんまた会えるよ」

 最後にそう言って彼女は家の中へ入っていった。


 残された私は1人で坂道を下って行く。

 夜道を歩いていると、今日の出来事が次々と思い出される。今日は本当にいろいろなことがあった。そして明日からはこれまでとは違う日常が始まるだろう。これからのことを考えると寂しくなる。だけれど私たちはきっとまた会える……私はそう信じている。

 根拠は無くても、悲観するよりも希望を持つほうが幸せだと思うから。

 私はこれから彼女の帰りを待ち続ける。千代にまた会える日を夢見ながら……

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