流れ出す、停滞
ようやくここにたどり着いた。
「……桐香」
巨大な城壁が、俺の視界のほとんど全てを埋め尽くす。
俺は、もはや意のままにはならぬほどに傷ついた身体を、そこに向けて進ませる。
砕けかけた両手剣をずるずると引きずって。
桐香の手勢たちは、なぜかもう襲いかかってはこなかった。
城壁の前で、よろめくように進む俺の姿を、遠巻きに見ているようだった。
――静か、だった。
城壁の上でくべられる炬火の、ぱちぱちと木が爆ぜる音。
俺を取り巻く『不滅の軍勢』たちが身じろぎをするときに鳴る、甲冑や武器が擦れる音。
上を見れば、城塞の灯りが天を煌々と照らしている。
だが、地上の光が届かぬはるかな高みにおいて輝くもの。
それは星々。
(サキ、アースィム。俺が、見てくるよ……)
俺は、剣にその力を思い描き、注ぎ込む。
俺が持ちうる力の、その全てを。
ひとを「この世界の向こう側」へと導く『いと高き希望の星々』の、力を。
剣を高く掲げる。
刀身から天へと力は通じ、星々のもとへと消えていく。
届け。はるか過去より、人の願いを受け止めてきたところへと――。
ふと、桐香があのとき呟いた言葉を、思い出した。
『かみさま』
祈り。それは無私の願い。
だからこそ、みずからの手の届かぬところに、その願いを託すのだろう――。
空の星々は滲むかのように輪郭を崩していき、大気は震え始める。
上天のかそけき光は、やがて一瞬ごとに輝きを増していく。
音も、熱も、光すらも背後にうち棄てて加速する、天の欠片。
それは、すべての人の業を越えて――地表を、叩き、穿つ。
刹那、俺たちが立つこの世界は、光に満たされる。
蒼い光が、すべてのものを貫く。
桐香の描いた『城塞』は、まるで内部から膨れるように拡がり、瓦礫が地に落ちることもないままに、塵へと還っていった。
爆轟、熱。それらはまるで世界をぬぐい去るかのように、地表を嘗めていった。
俺は、破壊の進行を、まるで細切れの映像のなかを漂うように眺めていた。
それは、すべてを終わらせる力だった。
――いつからか、俺は見覚えのある破壊の爪痕のなかで、ひとり立っていた。
もはや、桐香の『不滅の軍勢』は一人たりとも残っていなかった。
城跡は、わずかにその痕跡を残すのみ。草深かった平原は、白く焼け焦げた姿を晒していた。
なにもかも無くなってしまったところに、俺はただ立ち尽くしている。
「――桐香」
その声は届くだろうか? それとも、彼女は消えてしまったのか?
もう、俺に残された力は少ない。
お互いに死力を尽くしての戦いは、これで終わってしまったのだろうか。
そして、俺の身体は、滅びの光に包まれはじめる。
(――ああ、これまでに、何度も見た光景だ)
敗れた者は、光の粒子となって、消え去っていく。
この世界から消え去ったものは、どこに行くのだろうか。
いや、どこへも行けないのかもしれない。宇宙の塵がひとたび重力に捕らえられたのなら、もはやそこから抜け出すことができなくなるように……。
(このまま消えてしまうとしても、誰が俺のことを気にとめるというのだろう。もはや「他者」など、どこにもいないかもしれないのに――)
そのことに思い至ったとき、俺はしずかに目を閉じた。
だが、瞼をとじて、世界の……自分の消滅を祈り始めたそのときに、どこまでも聞き慣れた言葉が耳に届く。それは棘のように、俺の思考にちいさな傷跡を残す。
「……樹」
――どうして、いまさら?
「……樹」
ここで消えてしまっても、じきに巡り会えるというのに。
「樹」
いま、君の言葉を聞かなければ、いけないのかい?
俺は、ゆっくりと目を開いた。
焼き尽くされた平原を背にして、俺の前にたたずむ彼女。
桐香・ベイドリック。
その身体は、俺と同じように薄らぎ、消えかかっていた。
まるで草花の綿毛が空に舞っていくように、光の粒子がこぼれていく。ほんのわずかなきっかけで、流れて消えてしまいそうだ。
だが、桐香の顔には、消滅をおそれるような怯えは宿っていなかった。
彼女は、満足そうな笑みを浮かべていた。
「――どう? 私、強かったでしょう?」
桐香の『不滅の軍勢』は、すでにない。
だが、それを惜しむような様子さえ見せず、彼女はそう言った。
「そうだな。だから、共倒れ……というわけだ」
と、俺は自分の左手を彼女に向けて見せた。揺らぎ薄れていく、俺の「存在」。
どれほどの時間が残っているのかは分からない。だが、終わりの時は、すぐそこまで近づいている。
だが、桐香は俺のもとに近づいてくると、俺の左手を取って、言った。
「だめ。……あなたは、ここで消えちゃ、だめ」
俺の手に触れる、桐香の指。しなやかでみずみずしかったその指も、光の粒子となって、まばらに欠け落ちていた。
その痛々しい様子を、俺は正視できなかった。
「――だめって、どういうことだ! 俺は、桐香がこんな目に遭うところを見るために、ここまで辿り着いたっていうことか!」
「そうよ。あなたは――ここまで辿り着かなければならなかった」
「…………」
「戦いを重ねて、この地にふたりだけで立ち、そして戦う。そして……あなたは、勝つ」
「それは、以前の俺の話か」
「そう。以前のあなたは、ここで勝った。だから、敗れた私が覚えていられたのは、ここまで」
俺が、勝った。桐香はたしかにそう言った。
(過去の俺は、桐香を倒し、意味ありげな言葉を残したあげく――滅びている)
かつての自分がたどった道を、今の俺も、同じように辿っている。
ここまでは。
「桐香。以前の俺は、どんなふうに君を倒した?」
俺がそう訊くと、彼女は迷うことなく答えた。
「今の私たちと、まったく同じよ。以前のあなたも、私と戦い……そして、私は競り負けた。以前の私も、いまと同じように戦いに満足していた。こうやって、なにもかもが壊れた大地で、私は『世界の向こう側』へと赴くあなたを見送って……消えていっ……えっ!?」
「そこを繰り返したくは……ないんだ!」
俺は、手にしていた剣を棄て、有無を言わせず桐香を抱き寄せた。
「……え、えっ!?」
もう、この身体に感覚はない。
薄らいで消えかかった、この幻のような身体で、俺は桐香を強く抱きしめる。
「以前の俺は……桐香を失って、ひとりで『世界の向こう側』へ行ったっていうのか。それは……負けるに決まっているだろう!」
「え……でも、『世界』は、そこに向かう『ひとり』を選ぶために、戦えって……」
「必ず正しいって決まったわけでもないだろう」
「だって! それを信じないなら、そもそも私たちなんのために……」
「頑固なやつだな!」
「仕方ないでしょ!」
このとき、俺はただただ嬉しかった。
桐香を抱きしめていられることが。
前の俺がそうしたように「桐香に見送られる」などというのは、ごめんだ。
ましてや、「消え去るその瞬間まで、お互いを愛おしみあう」などという真似に、なんの意味がある。だいいち、ここには観客はいない。
「桐香、俺が描くべき『情景』、それがやっと分かったよ」
俺は、腕の力を緩めて桐香を離した。
「樹……?」
よろめきながら遠ざかる桐香。俺は、足もとに落ちていた『処刑人の剣』を拾い上げる。
ぼろぼろに痛んだ刀身。幾たびもの戦いを切り抜けてきた、俺の剣。
切先のない、丸められた先端を、俺は大地にあてがう。
「俺の心の中には、桐香たちみたいな『心象風景』なんてものは、ないんだ。だから、俺は『見たい風景』を描くことにしよう――」
地面に立てた剣の柄頭に両手をかさねて、俺は、その風景を思い浮かべる。
焼けて荒れ果てた平野には、穏やかに吹き抜ける風と、優しい緑が広がっていてほしい。
朽ちた城跡は、時を経ることでゆっくりと自然へと還っていくはずだ。
この草原で倒れたすべての者たちに墓標を作ることはできないが、きっとこれから繰り返し芽吹く草花が、かれらの心を安らげるだろう。
そして、空だ。
ずっと夕暮れの空っていうのは、気が滅入っていけない。
日が暮れて、夜になったなら、その次にはまた陽が昇っていてほしい。
巡り来る、時の流れ。それは、とどまることのない波間のように。
(そうだ。俺は、「停滞」が終わるところを、見たかったんだ――)
思い描いた風景は、俺のわずかに残った活力を糧として、地面に突き立てた剣を中心にして広がっていく。
核熱によって灼き滅ぼされた大地は、緑に。
あちこちに白茶けた骸を晒す『不滅の軍勢』たちも、ゆっくりと草葉のなかに埋もれて、しずかに朽ちていく。
そして、永遠の軍勢に護られてあった城塞、その跡地をおだやかに包む、みずみずしい苔の褥。
桐香の世界と、俺の世界が、穏やかに融合していく。
草花の生い茂る平原に、夜明けの光が差す。
長かった夜は、おだやかな朝の光のなかに憩いの時を迎え、草花がたたえる朝露が、きらきらと輝き出す。
「――綺麗」
隣に立つ桐香は、目を細めて笑った。猫のような吊り目が、一筆の弧になってしまう、見慣れた笑顔だ。それをここで見られて、俺は心から「嬉しい」と思った。
長かった夜の終わり。そして、朝靄のなかで、世界は目覚める。
+ + +
そして俺たちは、再び「学校」へと戻った。
変わることのない茜色の空に包まれていた世界にも、ようやく、穏やかな夜明けの時が訪れていた。
「――さて、これから、どうしようか?」
ぱん、と掌を打ち合わせて、桐香は言った。
「どうするべきかって問題には、ずっと前から考えていた答えを試してみたいんだ。この広い世界、おれたち二人だけでは広すぎる。ましてや……ひとりでは、とても過ごしていけない」
世界と、そこに住まうもの。それは天秤のうえでつりあう錘のように、ある種の調和がとれていなければいけない。
「じゃあ、どうするってのよ」
「ま、見ててくれよ」
「何するのか知らないけど、頼むわよ……」
すこし困ったような顔をしていた桐香だったが、その貌は、早朝のさわやかな風が吹き抜けたときには、もう笑顔になっていた。
桐香には、朝の涼風がよく似合う。