世界の「他者」
ついに、戻ってきた。
やっと、この場所へとたどり着いた。
大きな過ちを犯した、
その瞬間に。
+ + +
俺は、桐香の目覚めを待っていた。先の戦いで精神力を使い果たした彼女は、まだ気を失ったままだ。俺は地べたに座り込んで、いつか彼女がそうしてくれたように、桐香の頭を膝に乗せている。
話したいことは、たくさんあった。
サキのこと。アースのこと。そして、これからのこと。
勝利を得たことで、俺は、かつての記憶のほとんどを取り戻しつつある……と、自覚していた。肉体の確かさ、街並みの質感。もはや、不足は感じない。だから、俺がここでなすべきことは、あとひとつ。
「……『世界の、向こう側』を、確かめること……」
誰もがそれを望んでいた。手に入れるために、俺たちはみな、全ての存在をかけて戦った。
だが、そこにあるものが幸福をもたらすものでないことは、うすうす分かっていた。
そうでなければ、あんな警句じみた言葉は遺さない。
俺は、その言葉をもういちど諳んじる。
『この世界は、硝子の巨人。砕けてしまえば、もう、戻れない。』
砕けてしまった世界。そしてその破片。それは、俺たちのことだ。
俺たちの「戦い」とは、いってみれば破片と破片をつなぎ合わせるようなものだった。互いの「領域」を賭けて戦い、勝ったほうが、その領域をわがものにできる。
――そして、今。
俺たちは、戦うべき「他者」を、失ってしまった。
誰もいない夕暮れの校庭。俺が意識を取り戻したときのような、世界に対する違和感、不自然さは、もうない。この世界は、たしかな密度を備えている。
だけど、ここには、もうだれもいない。
(――桐香)
途方にくれながら、俺は桐香の額に手をやった。
その時。
「……ん、うんっ……」
すこし苦しげな吐息とともに、桐香が薄く目を開いた。
「……桐香! 目が覚めたか!」
俺は、はやる心をおさえて、彼女の肩をそっと抱いた。やがて、桐香の息づかいは徐々に穏やかなものになっていく。
「なんだか、私……『戦い』の終わりぎわになると、いつも、のびてる気がするんだけど……」
起き抜けに、桐香はそう呟いた。言われてみればたしかにその通りだが、はたしてそれは、いま言うべきことだろうか。ひとりで勝手に盛り上がっていた気分に水をかけられたような気分にはなったが……それでも俺は、嬉しかった。
「いや、それはいいんだ。身体はどうだ? 苦しくはないか?」
つい気が急いて、たてつづけに質問してしまう。
桐香は、苦笑いをしながら答えた。
「樹、大丈夫だよ。私は、なんともない。……ってことは、サキとアースに勝ったんだね」
「……ああ、勝ったよ」
しかし桐香の顔には、勝利を喜ぶような表情は宿らない。彼女はただ、夕焼けに染まる校庭を、ぼんやりと眺めていた。サキ・ハリードと、アースィム・クスァーン。ふたりと出会い、戦った場所。
「桐香、立てるか」
俺は、彼女の上体を支えながら訊いた。桐香は、いかにもな空元気の声で、うん、と答えながら、俺の膝からはずみをつけて立ち上がる。
「なあ桐香。ここが、サキたちが目指していた『世界の向こう側』なのかな」
そう言いながら、俺は桐香のとなりに並び立った。
緻密で、たしかな質感をそなえた風景。もはや、これを「幻」とはいいがたい。
きっと、俺たちはどこまでも行けるだろう。
だが、どこまで行っても、そこに「俺たち以外の誰か」がいるという可能性を、信じられずにいる。
「――樹。もう、この世界がどうなってるのか、確かめた? 他には……だれも、いなかった?」
「いや、俺はここで桐香が目を覚ますのを待っていただけだ。すべては、これからだ。この広い世界に、きっと何か手がかりはあるだろうし、俺たちと同じような立場の者もいるかもしれない。それに、ようやく一段落がついたんだ。周りには、戦いを挑んできそうな相手もいないし。でもこれで、ようやく桐香とゆっくり喋れるな!」
それは……本心ではあったが、気休めの言葉でしかないこともまた、自覚していた。
俺自身が信じられないものを、どうやって桐香に信じてもらえばいいのだろう。
ほんとうのことを言えば、俺は、途方に暮れていたのだ。
だが、桐香がいつものように「うん」と言ってくれることだけを、俺は待っていた。空元気でもなんでもいい。俺がこの世界に意識を生じさせてから、俺は心のどこかで、桐香の希望と期待を行動の指針としていたのだから。
しかし、桐香の言葉は、俺の期待していたような前向きなものではなかった。
「ここにいる人間は、……きっと、私たち以外には、いないと思うの……」
彼女は、まるで諦めのため息のように、もう一度「きっと」と言葉を吐き出した。
俺は、隣に立つ彼女の貌を、窺い見る。
そこには、これから起こることをすべて知り尽くしているような、確かな覚悟の表情が浮かんでいた。
「誰もいなかったとしたら、俺たちは……どうすればいいんだろう」
そう呟いてから、俺はそれが弱音でしかないことに気づいた。
世界は広がり、より確かなものになった。
だけど、そこに住まう俺たちの目的は、戦うごとに選択肢が狭まっていった。
どうすればいい?
どうすれば、俺たちはほんものになれる?
俺の困惑をよそに、隣の桐香はふいに歩き出した。
「ここにいるのは、『私たち』だけ。でも、それはけっして、ふたつに分かつことのできない『ひとつ』の単位ではないわ」
ずっと傍らにいた桐香との距離。彼女は前に進む。少しずつ、離れていく。
遠ざかる桐香の背中。
そして、彼女はくるりと振り向いて、俺に真正面から向き直る。
「樹。いまこの世界にいるのは、あなたにとっての『他者』。つまり――私だけなんだと、思うよ」
そう言って、彼女は寂しげに微笑んだ。
「……桐香」
彼女の姿を、俺は見つめる。
夕陽を受けてきらきらと輝く、色の淡い髪。
つり目がちで、笑うと線のように細くなってしまう瞳。
すっきりと通った鼻梁は、まるで彼女の心を表すかのように、まっすぐだ。
りりしい口元は、冗談を言うときにはやさしい形を描くのを知っている。
線の細い、しなやかな身体。まさしく、決して切れぬ鞭のように。
忘れるものか。
俺は、桐香を失いたくなかったからこそ、ずっと戦ってこられたのだから。
「ここでは他者、になるのか。……俺と桐香が」
俺は、今の気持ちを言葉にできる能力を、持っていない。
そこは、けっして覆してはいけない前提の筈だ。
だが俺の言葉に、桐香は小さく、だがはっきりと頷いた。
「――この世界に存在する、ただひとりの、そして最後の『他者』。それが、私」
俺の目の前で、彼女……桐香・ベイドリックは、そう告げた。
他者。己ならぬ存在。それは、どうしようもない事実だ。
「もし……もしそれが事実だとしても、思い出すのが遅すぎないか」
苛立ちをぶつけるような俺の声に、桐香は視線を落とす。
「最初から、こうなるのが分かっていたわけじゃない。私だって記憶を喪っていたし、この世界のルールを把握しきれなかった。――それに」
「…………」
「それに私が『あなたのことを忘れなかった』のは、前の私がそれを強く願ったから。樹、あなたは私のことをすっかり忘れていたみたいだから、そこに関しては、私、怒ってもいいのよね!?」
「確かに……それは、悪かったよ」
まるで口喧嘩だ。桐香の存在を忘れてまでも引き継ぎたかったのは、ほんとうにあの言葉だけなのか。それがあることで、今の俺が『過たずに』済むような――。
(過った?)
己の心のなかに、『その言葉』があまりにも自然に現れたことに、俺は驚いた。
俺もまた、もっとも大事なことを思い出しつつあるのかもしれない。
過去の自分は、なにか大きな過ちを犯した。
取り返しのつかない、大きすぎる過ちを。
その過ちを繰り返さぬために、あの言葉を遺した。
そして、今。
俺は、最後の他者である桐香に対して何ができるか、だ。
桐香は、俺をじっと見つめていた。
それはそうだろう。「悪かった」と言ったきり、一言も口を開いていないのだから。
「ねえ樹、ほんとうに悪いと思ってるの?」
じろりと睨め付けてくる桐香。俺はその視線をかろうじて受け止めていたが、やがて桐香は、くすりと笑った。
「まあいいわ。過ぎた事だもの、それはもう許してあげる。でも、これから私とあなたがどうするか……これだけは、まじめに決めさせてもらうわ」
そう言って、桐香は唇を引き締めた。
これからのこと。
俺の答えは、ひとつしかない。
「桐香。最後の他者がお前なのだとしても、俺は絶対にお前と戦いたくはない。かけがえのない、大切なパートナーだと思っているよ。お前も同じ気持ちだと言ってくれたなら……こんなに嬉しいことはない」
「誠実さ」というものが、言葉の上だけの存在でないのならば、俺はありったけのそれを桐香に捧げたいと思った。
桐香はその言葉を聞いたときに、わずかに笑みを浮かべたようにも見えた。
それは見慣れた……そして、俺にとっては絶対に失いたくない笑顔だった。
だが、桐香が笑みをうかべたのは、ほんの一瞬。
新たに現れたのは、悲しみをたたえつつも――決然とした、覚悟の貌。
「樹。あなたが私にそう言ってくれて、私がどれくらい嬉しくて、温かくて、幸せを感じたのか。こればっかりは、あなたにもけっして分からないでしょう。……でも」
そして、桐香は俯き、呟く。
「私は、あなたと……戦う。そう選択したの。どうか、この『戦い』に同意して欲しいの」
「本気か。せめて、目を見て言ってくれよ」
「本気よ!」
桐香は鋭く言い放つ。だが……その顔は、俯いたままだ。細い肩が、小刻みに震える。
泣いているのか、と、訊きたい。そして、もしそうならば思いきり抱きしめたい。
しかし、そうしようとしても、桐香はきっと俺の意のままにはならない。
だから俺は、これだけを告げる。
「桐香。これまでも、俺たちは戦う前に決めごとをしてきたよな。『せめて、納得づくで戦おう』って。俺は……俺とお前が、ここにきて『他者』になったとしても、それだけで納得はできない。……戦いたくは、ないんだ」
桐香は、ふたたび顔を上げた。まなじりに浮かぶのは、涙。いろいろな気持ちが混ざり合うと、ひとはどうして、こんな表情をするのだろう。
「樹。私たちは、勝ち上がるたびに知識と力を手に入れてきた。もう、この世界の『領域』を分かつ者は、あなたと私だけ。――そして『この世界』は、どちらかがすべてを領有することだけを望んでいる」
「この世界そのものが、望んでいる……?」
「そうよ」
すべては、理不尽な話だった。けっきょくは、「戦うこと」以外には見つけられなかった選択肢。
破綻しきったルールを押しつけて、俺たちに不毛な戦いを強いてきた、この世界。
その世界が、最後の戦いを、望んでいるという。
「そんなばかげた考え、誰に吹き込まれたんだ? ……俺は、もう戦いたくない。この世界に二人だけしかいないのなら、俺はお前とずっとこのままでいるほうがいい。それがただの停滞だと言われたとしても……それでもいい」
「やっぱり、そういう優しい結論が好きなんだね。――変わらないね」
そう言って、桐香は寂しげな微笑みを浮かべた。
「変わらない、か。桐香は、以前の俺のことを覚えているのか?」
「もちろんよ。私は、あなたのことだけを『引き継いだ』。そして、前のあなたも、今のあなたと同じように、ふたりっきりの停滞を望んだ」
「その結果は……」
それは、訊くまでもないことだった。
桐香は、首を横に振った。
「ふたりっきりで過ごすって、難しいことね。ましてや、私たちみたいな『幻』にとっては。私たちがたしかな肉体を持っていれば、増えていく子孫を見守りながら、老いて消えていく……なんていう贅沢も、できたかもしれないのに。私たちは幻ではあっても、死んだ魂ではない。だから、停滞することだけは、選べない」
夕暮れの空。俺と桐香、ふたりだけの世界となってもなお、上天に貼り付けられた茜色の模様は周期的に流れゆく雲を映しつづけるのみだ。
ここでこうしているかぎり、きっとなにひとつ変わらぬまま、俺たちは存在しつづけるのだろう。そして、魂が倦み、疲れ、滅びを望んだときに――世界はまた、振り出しへと戻る。
それを、どのくらい繰り返してきたのだろう。
世界の終わり。それは、俺たちの「領域」がひとつになったとき。
ばらばらになった硝子の巨人の、すべての欠片がもとどおりになったとき。
(だが)
最後の最後まで、残った疑問が、ひとつ。
――戦いに勝ち抜き、すべての領域の統合を果たした者は、過去にもかならずいる。
――なのに、どうしてこの戦いは、ずっと続いているんだ?
この戦い。俺たちがその最初の参加者であることは……まず、ありえない。
俺たちは、いつ生じて、どれくらい戦ったのだろう。
俺は、目の前に立つ桐香に言った。
「戦って、勝って、すべての『領域』が統合されれば、それでおしまいになるはずだ。それはたしかに困難なことかもしれないが、この世界にいる者たちを戦わせ続ければ、かならずひと組が勝ち残り、さらにそのうちのひとりだけが残る。――確実に、だ」
個々人の戦いは、たしかに死闘の連続かもしれない。だが、「世界」全体で見れば、それはかならず成立する、ただの「ふるい分け」でしかない。
「それに」と、俺は言葉を続ける。「過去に、そういった戦いがどのくらい行われて、何回の『勝者』が生まれたのかは知らない。だがどの勝者も、桐香……お前のいう『世界』の要求を満たすことができなかった。過去に存在した誰にも成しえなかったことを、俺たちができると思うか?」
俺がそう問うと、桐香は「いいえ」と答えた。「そこまでは、ここに訪れた誰もが考えたことでしょう。……そして私みたいに、以前のパートナーから離れたくない、その人のことを忘れたくないって、強く強く願った人だっていたことでしょう。……でもね」
桐香は、そのとき不意に、俺に背を向けた。
まるで、この校庭に落ちかかる夕陽を、一身に受け止めるかのように。
「だからこそ、分かることがあったの。なんで、これまでに存在した『私みたいな人たち』も、みんな戦うことを選んだのか、って」
そして、桐香はゆっくりと振り向いた。
ふわりと揺れる色の淡い髪は、まるで彼方で燃える焔のようだ。
「ここで停滞することで、大好きな人に……倦み、飽きてしまいたくないから。大切な心が朽ちてしまう前に……あなたのことを大好きなまま、尊敬できる状態のままで戦いたいから」
そう言って、桐香は笑みをうかべた。
「桐香、俺は、俺は……」
「今のうちに言っておくね。――ありがと。最後の最後まで、私と戦うのを嫌がってくれて。二人でいたいって言ってくれて。もう、それだけで充分だわ。……だから」
と、桐香は俺に歩み寄り、相対する。
「戦いを、始めましょう。――大好きな、樹」
俺は、このとき大きな後悔をした。
これまでの時間のなかで、どうして彼女ともっと話さなかったのだろう。
彼女は、俺のことを「大好きだ」と言ってくれた。
その言葉に応えるだけの何事をも、俺はまだ、していなかった。
何も。




