永遠の守り手
あまりにも、あまりにも過剰な破壊のあとで。
俺は、まだ桐香の手をつないでいることに……やっと、気づいた。
……。
…………。
巨大な半球状に、砂漠の地表は深く抉り抜かれた。球面の内側では、硝子化した砂や土が、いまだに冷めやらぬ熱を保っていた。底によどんだ空気は重く、見上げた空は暗雲に包まれていた。
俺は、まるで焼け落ちた朽木のようだった。超高熱によって生まれた椀状の窪地、その底で、身体を丸めたまま立ち上がれないでいる。頬に感じるのは、ざらざらとした砂粒の感触。
(……かろうじて、耐え切れた……のか)
俺たちの周囲の、わずかな範囲だけが、もとの砂漠の面影をのこしていた。
そして俺は、となりに倒れている桐香の姿を見た。
「――桐香!」
呼びかける言葉に、彼女は、ううん、と苦しげな声で反応する。
俺と桐香、ふたりの力を合わせてもなお防ぎきれなかった熱と衝撃が、俺たちの身体を傷つけていた。どれほどの傷を受けたのか。俺は、己の手を目の前にかざす。
「まるで……幻、みたいだ」
防ぎきれなかった破壊力によって、俺たちは、存在そのものを打ち消されつつあった。
もはや確たる姿とその質量を保てず、俺の姿は、その本質が幻であることを露呈しつつあった。しゅう、しゅう、と、滅びゆくものの死の雑音とともに、俺は「消滅」しつつあった。
桐香もまた、消滅する一歩手前だった。その傷だらけの身体は、俺と同じようにノイズを発しながら明滅している。その身体から透けて見えるのは……空虚を示す、あの明灰色の……死の世界。
俺は、桐香の手をそっと離して、かろうじて立ち上がる。
(意識を……保て。まだ、この領域を解いてはいけない)
空からしんしんと降り積もる塵。周囲には、あちこちに燃え残る焔。
ここに立ち尽くしたまま、俺は、しずかに自分の脈動を確かめていた。
それは、俺がまだ、生物機能を模擬することができている、証拠。
――まだ、生きている。
爆轟と、灼熱と、閃光。そのすべてが荒れ狂う地獄のような時間は去り、今は、まるで廃墟のような静けさに包まれていた。
そして、空の暗雲がほどけ始め、月の光が破滅の地を照らし始めたとき。
サキは、俺の前に現れた。
「耐えきって……しまったのね」と、サキ。
彼女の姿もまた、俺たちと同様に、その存在を喪いつつあった。持てる力すべてを注ぎ込まなければこの情景は描けなかった、ということだろう。
「ずいぶんやつれたな。そうだな……あとは、お互いに残ったほんのわずかな力で、滅びるまでの殴り合いでも……始めるかい?」
俺がそう軽口を叩くと、サキは「いやよ、そんなの」と、淡い笑みを浮かべた。
よろめきながら、サキは俺に近づいてくる。
「わたしはもう、この姿を保っているだけで、せいいっぱい」
サキの声音は、消え入るようだった。それが嘘でないことを示すかのように、この世界……サキの描き出した情景『いと高き希望の星々』も、明滅を繰り返していた。
「なら、どうやって『勝ち』を決める? 先に進めるのは……俺たちか、君たちか。どちらか、ひと組だけだ」
「そうね、……そうだったわ」
サキは、その場に腰を下ろした。彼女はなにかを見上げた。俺の貌ではない。サキは、天の星々を、そして月を眺めていた。
俺はそんなサキの傍らで、彼女の表情を見ないまま、言った。
「ひとつ、訊いていいか?」
「……いいわ」
「ここに辿り着いて、さらにその先を目指すための『目的』だ。世界の向こう側を見たい……って、言ってたな」
俺の問いに、サキはちいさくため息をついてから、そうよ、と答えた。
「目的も、いってみれば過去の自分が定めたもの。それを繰り返し口にしているうちに、『今の自分』からは、だんだん離れていってしまう」
サキは、相変わらず星空を見上げたままで、そう呟いた。
星々の海。かつて人間は、星をたよりに海を、そして空を旅したという。ひとに導きを与えてくれる不変なるものが、頭上に輝いていること。そのことが、どれほどの安らぎを与えてくれたのだろう。
だが、この世界にあるものは、うつろいゆく幻だけだ。
サキの描き出したこの世界、『いと高き希望の星々』は、消滅のときを迎えつつあった。
気流の乱れは止み、夜空を覆っていた暗雲も晴れていた。いつしか空は、はじまりの時と同じく、月と星々が清冽な光を地上に投げかける。だが、世界はその姿を保てない。方々で幻は崩れ去り、世界の素地であるあの明灰色の世界が現れつつあった。
俺は、近くに腰を下ろしているサキに向き直った。彼女もまた、俺のことをまっすぐに見つめ返している。
サキは、真摯な面持ちで、訊いてきた。
「イツキ。あなたはきっと、過去に『この世界の向こう側』に、辿り着いているはず。だから、あなたはあの言葉を『引き継ぐ』ことができたんだわ」
あの言葉。忘れるものか。サキは、透き通るような声で、それを諳んじる。
「――『この世界は、硝子の巨人。砕けてしまえば、もう、戻れない』。……ねぇ、過去のあなたは、この先になにを見て、なにを思い、その言葉に託したのでしょうね」
だが、今なら分かる。
その言葉は、あくまでも『過去の俺』が、遺したものだ。
今の俺が、それを踏まえ、何を思うか。それは、そのときになってみなければ分からない。
このとき、サキはおだやかな笑顔を浮かべていた。
成すべきことにすべてを賭けて挑み、勝敗を決した者の、笑みだった。
「イツキ、あなたたちの勝ちよ。私の望みは、これで潰えたわ」
その言葉とともに、サキの身体が光の粒子となり、すこしずつ解けて、空へと舞っていく。
「サキ。この世界の向こうにあるものは、俺が必ず……確かめてくる」
だがサキは、俺のそんな言葉にくすくすと笑った。
「ばかね。そんな使命感は、ここに置いていきなさい。……あなたが過去何に敗れて、この幻の世界の底に落ちてきたのかは、わたしには分からない。でも二度目なら……きっと……うまくやれる……でしょう……」
サキの消滅に歩調を合わせるかのように、世界の崩落もまた進んでいく。
「――幸運を、祈る……わ」
その言葉と、星が瞬くような笑顔を遺して、サキ・ハリードは、消えた。
彼女の描き出した情景『いと高き希望の星々』も、ともに消失した。
+ + +
俺と桐香は、ふたたび夕暮れの校庭へと戻っていた。
桐香は、まだ気を失ったままだ。彼女が地べたに倒れ込まないように、俺はその肩を支える。
「――痛ぇ……」
だが、肉体は限界だった。軋む骨、撃ち据えられた身体。もはや、肉体は消滅を目前に控えていた。
しかし、「痛み」を感じているということは、俺が……間違いなく「存在」している、ということだ。
「……まだだ。まだ、俺は「世界の向こう」を、見ていない」
知らず、俺はそう呟いていた。
誰にも届かないはずの、自分だけの決意。
だが、その言葉に反応する、もうひとつの声があった。
「――そうだな。お前にそいつを見て貰わなければ、俺たちが浮かばれない」
その声の主に、俺は向き直る。
「アースか」
「そうだ」
アースィム・クスァーン。白色の制服に身を包んだ、精悍な兵士のような姿。だが、その姿もまた消滅の時を迎えつつあり、陽炎のように薄らいでいた。
俺は桐香の肩を抱えたまま、アースの目を睨んだ。どこまで戦えるか。それは、俺もアースも同じ事だ。やれるだけは、やってやるさ。
だが、そんな俺の敵愾心をいなすかのように、アースは穏やかな笑みをうかべた。
「そういきり立つな、イツキ。もう、勝敗は決している。お前達の、勝ちだ」
勝ち。はっきりと、アースはそう言った。
「この俺の姿は、もはや残滓にすぎない。そう間を置かずに、お前たちの目の前から消えるさ」
そう言われては、返す言葉もない。俺は、黙ってアースに続きを促した。
「サキは、お前の幸運を……未来を思って、消えた」
「ああ、そのとおりだ。俺もまた、サキと同じ願いを持っている。『世界の向こう』。そいつを見にいく。そして……いつかは、そこで見たものを誰かに伝えたい。もとより、この姿は幻だ。滅びのときはかならず訪れる。だけど……俺は、ひとかけらでもいい、必ず知識を持ち帰ってやる。きっと、以前の俺も、いまの俺と同じ事を考えていたんだと思う」
そう、アースに告げた。
いまの俺は、どんな表情をしているのだろうか。
かなうならば、サキが浮かべていたような笑みをたたえていたい。
「……なるほど、な」と、アース。「去り際に、つまらん話をするが、聞いてくれるか」
「いくらでも聞くさ」
「俺はな、サキこそが、この世界の秘密を解き明かすのだと信じていた」
「…………」
「まっすぐに「世界の向こう」を目指す、強い眼差しと揺るがぬ心。この世界が、一編の物語であるとしたら、サキこそがその物語の主人公なのだと、俺は思っていた」
「アース、君自身はどうなんだ」
「俺か……俺は、そんな大きな理想を抱く者と供にあり、守りたい、と思った。サキと初めて出会ったときに、そう思ったんだよ。ゆえに、俺は『アースィム』という言葉を、我が名に選んだ」
「……そうか」
「だが、守られて在ったのは、むしろ俺のほうだろう。サキの描き出す、あの『いと高き希望の星々』に同化し、持てる力の全てを捧げてはいたが、それはサキを『守る』ことにはならない」
「…………」
厳密に言えば、敵を倒す力も、敵からの侵襲を防ぐ力も、その本質はどちらも同じ「力」だ。だが、アースの言葉をあげつらうつもりはない。気持ちの問題だ。
「だが、イツキ。こうやってお前達に敗れた今、俺の存在意義は、どこにあると思う?」
アースは、そう訊いてきた。
だが、それに対する答えは、俺の胸のうちに、もう、あった。
俺は、答える。
「存在意義、か。確かに、俺たちは、戦うことしかできない『幻』だ。……だが、勝った負けたの勝負事で、俺たちの存在意義が、決められてたまるか!」
いつしか、俺の語気は強まっていた。アースは、黙って俺を見つめている。
「勝てば力を手に入れる。そして負ければ消されるか、それまで得たものを喪わせられる。どこかに、そんな不毛な仕組みを読み解き、改めるための『鍵』があるのなら、俺は……それを、探しに行く。きっとサキも、同じ事を考えていたはずだ」
俺がそう言い終えるまで、アースはじっと俺の言葉に耳を傾けていた。そして、口の端だけでちいさな笑みを作ると、強く頷いた。
「――ああ、そうか。そうだな、いま、分かったことがある。お前もまた、『この世界を読み解く者の物語』の、主役なのだな。それはおそらく、お前やサキに備わった、勝ち負けを越えた、固有の価値なのだろう。……俺は、主役を張るだけの大望は抱けないが、そういった志を持つ者を『守りたい』と思う」
「守るべき相手は、もう、替えるつもりはないんだろう?」
俺がそう言うと、アースはすこし照れたように笑った。
「もちろんだ。おれはもう、共に進む者を違えるつもりはない。サキ・ハリード。『永遠』を二つ名とする、我が……星の、烈姫……」
その言葉とともに、アースの身体はひときわ強い光に包まれ、そして夕暮れの空へと、舞い散っていった。
アースィム・クスァーン。彼は、つねにサキとともに在り続けるだろう。
俺は、そう信じる。