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残光のステイシス  作者: 谷口由紀
プロローグ
1/21

亡霊たちのゆらめき



 死が ふたりを 分かつまで





 「この部屋」を言いあらわす言葉があったはずだ。


 数十人が集えるほどの長方形の部屋。片方の短辺には大きな黒板があって、それを背にして演台がひとつ。参加者の全てが無理なく演者に視線を注げるように、一人用のちいさな机と椅子が、室内に整然と並んでいる。


 いま目にうつるすべてのものを、ひとまとまりにして説明する言葉。


 すでに知っているはずなのに。


 出てこないのは自分がいるこの場所のことだけではない。状況、時間。自分の「現在」を語る言葉が、さっきからなにひとつ浮かんでこなかった。個々のモノ、コトは説明できても、それらを統合するひとまとまりの……もっと意味深い言葉が出てこない。


 それだけではない。自分のことを「自分」などという言葉であらわすのも、おかしな話だ。


 私、僕、俺。どれでもいい。


 誰だって自分にいちばんふさわしい一人称をもっているはずだ。だけど、それを選び取ることさえもできないのが「自分」なのだ。


 周囲を見回しても不安感はおさまらない。なにを見つめて、なにを語ればいいのか。


 すこしでも心を落ちつけようと、とりあえず、自分を取り巻く「環境」を意識してみる。


 ――窓からの斜陽が空間を斜めに切り取って、赤く染め上げている。反対に、頭上にわだかまる闇は濃い。


 演台の近くから部屋の後ろ、夕陽と闇のはざまに目をやる。そこに影が揺らめいたような気がして目をこらす。すると、そこにひと組の男女がたたずんでいることに気がついた。


 男女。その姿は、まるで幻のようにぼんやりとしていた。

 しっかりと目をこらしても、輪郭がにじんで、背景にとけこんでしまいそうだ。


 男は、最後列の椅子のうちの一脚にななめに腰掛けていた。机に肘をかけて、手は顎に添えている。口元の表情を隠しながらこちらを眺めていた。

 女は、そんな彼の傍らに立っていた。

 男の服装は、詰め襟の上衣。そして、まっすぐなズボン。どちらも色味は濃い。意匠に乏しく、まるで特徴を内側に封じ込めたような服だ。


 女の服装は、それよりはすこしだけ華やかさがある。明るい上衣に、濃い色の大きな襟。その襟は、首回りだけではなく肩口も大きく覆い、そのまま背中へと垂れている。下衣は、繊細な折り目が並ぶスカート。おそらく、色は上衣の襟と同じだろう。赤と黒のコントラストに占められたこの部屋では、もとより色彩などは把握できない。


 しかし、衣服よりもなお情報に乏しいのが……(かたち)だ。


男も、女も、それなりに整った顔立ちだ。とはいえ、その顔を覚えておくために必要な何かが、なぜか見つからない。

 視線を外してしまったら、もう脳裏に思い描くことのできないような。

 誰の顔にもなりえるが、誰の顔にもなりえない。


 そんな顔をこちらに向けながら、男はこう言った。

「状況把握は、そのぐらいにしておいても構わないんじゃないか。いま君が目にしているもの、それがすべてだ」

 その声にやどる感情はどう説明すればいいのか。幸いにも、それはすぐに思い出せた。


 ――『退屈』だ。


 かれはいつから自分のことを見ていたのだろうか。いや、そもそも、どれほどの時間を自分はここで過ごしている?

 そんな不安を見透かしてか、男は椅子を引いて立ち上がりながら、言った。


「要は、ね。君はさまざまなものを失って、ここまで『落ちて』きたんだ。いまの君は、すぐにでも消えてしまいそうだよ。……僕なんかよりも、よっぽど、ね」


 そう言って、かれは机についていた手を、眼前にかざして揺らしてみせた。


 ゆら、ゆらと数回。たしかな実体を持っているはずのその手は、まるで光の足りない影絵のように、うすぼんやりと見えた。


 いや、手だけではない。

 しっかりと見てみようと目をこらすと、かれの身体のところどころが薄れ、消えかけていることに気づいた。


 男だけではない。かれに寄り添うように立つ女の姿も、同じように薄らいで見える。

 夕闇のなかにゆらめく幻。それが、二人の姿だった。


「この世界において、僕たちは亡霊のようなものだ。……君もおなじ。自分の身体を、よく確かめてごらんよ」

 と、男はこちらを指さす。


 自分が?


 そう指摘されたことで、初めて自分自身の身体を意識する。反射的に、両手を胸の前に持ってくる。


(……たしかに、亡霊だ)


 目の前に見る、自分自身の手。輪郭も、色彩も、ぼんやりとしている。掌のむこうに、机と椅子の列が透けて見えた。


 あらためて、男女の姿を見た。かれらの瞳に宿る色彩に、力のようなものが宿りつつあるのを感じた。だが、幻のような自分たちに、力をやどした瞳は不似合いだった。


「現時点では、この部屋からは誰も出ることはできない。ここは底辺なんだよ」と、男は言う。


「底辺?」オウム返しの問いを、つい発してしまう。


「そう。永遠の夕暮れ、閉ざされたままの部屋。この状況を脱しようと思ったら、次のステップに進まなければならない」


 かれの発した、「永遠」という言葉にぞくりとした。ほんとうに恐怖すべきものだけが放つ、心臓と肺を凍らせるような支配力。


(永遠? なぜ、こんな言葉が怖いんだ?)


 言いしれぬ恐怖。ただ黙ってかみしめていたら、それだけで心が潰れてしまいそうだ。なにか言葉を繋ぎたい、とさえ思った。どんな話でもいい。


「教えてくれ。『次のステップ』とは、何だ」


「この状況で、次に起こしうる……というより、起こすしかない『行動』だよ」と、まるで決まりきった約束を再確認するかのように、かれは言った。


「何を……すればいい?」


 その問いに、かれは答える。


「僕たちと、『君たち』とで、戦うんだ」


 目の前の、姿さえ薄れかけた一組の男女が発するにしては、あまりにも唐突な言葉。


 だが、それよりも。『君たち』とは、どういうことだ。


 たて続けに生じた疑問を持て余していると、かれはそのまま言葉を続けた。


「勝てば、記憶や身体を、より確かなものにできる。負けたらそれらを失う。単純なルールだ。そして、僕たちも『君たち』も、ここでの戦いに敗れたら、きっとこの『世界』から消えてしまうことになるだろう。それだけはお互いに納得しておかないと、ね」


 男がそう言い終えると、その背後で女が小さく頷く。

 そうやって、ふたりで納得しあっている様子に、奇妙な疎外感を覚えた。


「状況も、ルールも、納得しがたいことばかりだ。そもそも、『君たち』ってのはどういうことだ。自分のほかには誰も――」


 そう言いかけたとき、男はそっと一点を指さした。示すその先は、自分の左斜め後ろ。

 指先に誘導されるかのように、振り向いた。


 そこには、もうひとりの女がいた。


 この部屋の入り口近く、黒板の横のあたりの壁に身体をあずけて、無言のままこちらをじっと見つめていた。何に対してかは分からないが、すこし不満そうな表情。


 彼女の外見もまた、敵対するはずの男女や自分と同様に、ひどく薄れていた。


 だが、それらの損失を差し引いても、彼女の貌にはなにか心を動かすものがあった。


 その面差しのなかの特徴を探る。……すこし色の淡いざっくりとした髪、ややつり目がちの眼差し。すっきりと通った鼻梁。それらの要素が、自分のなかで言葉にならない信号を発する。



 ――彼女はけっして忘れてはいけなかった人だ、と。



 この状況だ。彼女がこちらに向ける視線が、観察するようなものであったり値踏みするようなものであったとしても、それは妥当なものだろう。しかし、いまの彼女の瞳にはそのような冷淡な印象は感じられなかった。それだけでも、自分にはありがたかった。


 それは懐かしむような目でもなく、親愛を示す目でもない。


 それは――。


「いつまでぼんやりしているの! あなたがここで消えちゃったら、わたしが困るでしょう!」


 身勝手で唐突な言葉に、おもわず言葉を失ってしまう。


 だけど、彼女は、さきほどまでの仏頂面をかなぐり捨てるかのように、笑った。

 口を引き結んで、口角だけが跳ね上がる。細められたつり目のせいで、まるで猫が笑ったような、不思議な笑顔ができあがった。


「記憶を失いすぎるのも困りものね。まあ、わたしも辛うじてあなたのことを覚えているだけで、他のことはさっぱり忘れちゃったから、同じようなものだけど」


 そう言いながら、彼女はつかつかと傍にやってきた。幻のような外見にも関わらず、足音が聞こえてきそうなほどに堂々とした足取りだ。


 その様子を見ていた対面の男は、小さくため息をつくしぐさをした。


「つまり、だ。ここで『戦わない』という選択肢を選ぶとすれば、君たちを含めたこの4人は、記憶も、肉体も不確かな、亡霊のような状態でしかここで存在できない。精神と肉体の活力を欠いたままでは、何をすることもできない」


 まるで自嘲するような響きで、その男は言った。


 たしかにそうだ。いまの自分に備わっている能力で、いったい何ができるのか。

 それだけに、「戦い」などというおおげさな言葉だけが無様に上滑りしている。


 だから、かれに訊いた。


「この幽霊みたいな身体で、どうやって『戦う』というんだ」


「戦いに必要なのは、拳でも、言葉でもないさ」と、男。かれは女のほうをちらりと見ると、女は小さく頷いて、そっと男の手を握った。やさしそうな手つきだ。きっとこの男女にも、「ここに『落ちて』来る前」の挿話エピソードがあったはずだ。だけど、それをいま問うことはできない。


 男と手をつないだ女は、薄く目を閉じ、何かを思い描くように俯いた。


 そのとき、彼らの背後に、大きく広げた薄膜のような、不自然な揺らぎが生じるのを感じた。


「……『戦い』のいいところはね、それが行われる間だけ、この閉じられた空間から逃れられた気分になれることだ。……錯覚に、すぎないんだけどね」


 男は、そう言って寂しそうに笑った。その笑みが顔から消え失せるまでのごく短い時間のうちに、背後の『揺らぎ』は、ある光景を描き出していた。




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