輜重軍列伝
「まだ納期が遅れてるのか」
「そろそろうちの方から書類処理の一個大隊でも送ったらどうですか」
「現役はやめとけ、せめて退役した人達にしろ」
そんな会話をしながら茶色い服装の三人の軍人が機械音の響く廊下を女性の人に案内されながら歩いていく、
廊下の床は機械の振動によるものなのか踏む度に床板が嫌な音を立てる、
廊下の一番奥まで来ると女性の人は分厚い扉のベルを引っ張った、
「どうぞ、少々お待ちになってください」
そういうと女性の人は書類を胸の前で抱えながらまた廊下の彼方に歩いて消えていった、
気味の悪い社内に新人の軍人が既に滝汗のように額を濡らしていた、
確かに傍から見ればここはヤクザが仕切ってるのではないかというボロボロの工場であるが、
ここはちゃんとした国内の立派な重工であるし軍にもちゃんと納品してるので信用もできる、
しかし雰囲気が雰囲気だ、本当に古い工場なので増築に増築を重ねボロボロなのだ、
三十秒ほど待てば厚そうな扉からカチャリと金属音が響く、
納期催促のためにここへ通い慣れている慣れている古参の軍人もツバを飲み込んで取手を引っ張った、
「遅かったじゃねぇか………」
真っ暗な陰湿な室内に威圧的な雰囲気を放つ見窄らしい男がそこにはしっかり座っていた、
そもそもこの物語は日露戦争の頃から始まる、
この頃はまだ陸軍から独立しては無いが輜重科が徐々に力を伸ばし始めていた、
何しろ武器弾薬その他もろもろを管轄していたからだ、
その時の輜重科が目を付けたのが大村製作所だった、
製作所と聞けば小規模の町工場と思えるかもしれないが、
長崎の大村湾に面する立派な重工のような設備を整えている、
当時としては珍しく多種の外国の高性能な工作機械や製鉄所を備えており、
かの大規模な八幡製鉄所の次いで有数の民間の重工であった、
しかしそれだけ大規模なのになぜそんなに有名にはならなかったのかと言えば大村製作所自体の成り立ちがそもそも『浮浪者』が立ち上げた町工場から始まって江戸から明示にかけての混乱期や文明開化で急成長を遂げてこの姿になっている事だ、
浮浪者が立ち上げて何でかは知らないが急成長を遂げた町工場、
響きからして怪しいものだったのか急成長を遂げても国内からの発注は少なかった、
もっぱら海外への輸出が主力となっており、
大村湾には貨物船が船団をなして順番待ちをしていた、
製作所内にはもちろんこの船団を整備するための造船所もあった、
ここに目をつけたのが輜重科であり、
力を伸ばしていた当時の輜重科をさらに勢い付ける起爆剤ともなった、
「陸の中島、海の三菱、輜重大村」
後にこんな風に言われるような有様である、
当時大村製作所は海外で発展を始めていた自動車の試作車の制作を行っており、
輜重科の「補給品を運べる物が欲しい」やら「補給品を作って欲しい」などの発注も重なり、
「じゃあ自動車なんてどうですか?」といった具合に上手く予算を確保していた、
しかし先に採用されたのは意外にも野戦用に提案した携帯焜炉や缶詰食品だった、
これは元々海外向けの缶詰食品を作っていた大村製作所が輜重科に提案したもので採用されるとは考えていなかった、
しかし実際大村製作所で作られる海外向けの乾パンなどは程よい日本人特有の塩加減や出汁などで意外と人気もあり、
輜重科でも「大村の食品を導入したらどうだ」と意見も上がっており、
缶ごと加熱調理出来る大村の缶詰はある意味魅力的な点もあり、
海外のキャンプ用の携帯焜炉もセットで大村製作所が売り込みに来た際は輜重科でも「断ったら輜重科が終わる」との意見が出たくらいである、
もちろん缶詰の中身が海外向けの海外食品だった事もあり中身だけ変えなければならなかった、
そこで呼ばれたのが海軍の主計科だったり陸軍で飯を作るのが上手いヤツをわざわざ海軍に対抗して引っ張ってきたり、
ここらへん色々とイザコザがあったが気にするほどでも無かった、
もちろん重工が食品を作る設備にも限界があったため国内の缶詰工場とも連帯をとっていた、
日露戦争で日本とは遠い場所で戦っていてもいつでも日本の味がする缶詰が兵の間では人気となっていた、
海軍は艦内に調理場があるため採用しなかったがうまい飯を食いたいという欲求はあり、
主計科が主に大村製作所と掛け合ったりしていた、
輜重科が日露戦争において最も力を伸ばせたのは日本海での輸送などである、
造船所がある大村製作所から船を徴用したり購入したりして兵員の輸送にあたるが、
陸軍が貨物船の改装したのを使うのに対し輜重科は客船からの改装である、
内装や居住性など段違いの差があり木の板に直に寝る陸軍よりもハンモックやベッドなどが完備された輜重科の船団に乗りたいという意見が多く、
これを受け陸軍は「仕事を取らないで欲しい」と輜重科へ圧力を強めることになる、
もちろん利点ばかりではない、
日露戦争で輜重科はウラジオストクなどの艦隊による度重なる通商破壊を受けており、
海軍も一生懸命にやっているがどうしても少ない艦隊では隙間が生まれてしまう、
これにより日露戦争において輜重科はそれなりに船を失う事になる、
一方で大村製作所も缶詰食品ばかり納品してる訳ではなくちゃんと自動車の試作も行っていた、
輸入したメルセデス35hpを参考に自動車を作るもエンジンが完璧とは言えず、
このエンジンをどうするのか大村製作所と輜重科は頭を悩ませていた、
案としては外国のエンジンを輸入してこれを載せるなどが上がったが、
浮浪者出身の頑固な社長は「やだ、国産がいい」と駄々をこねる有様で大村製作所と輜重科共に頭痛になった、
結局の所国産でも可能だった「焼玉エンジン」を載せることで何とか社長を説得し無事に納車された、
さらにこの国産車を改造して作ったのが「ポンポン厨房」こと三八式炊事車などである、
原型の車も「ポンポン車」として親しまれていた、
トラックが無かったためこのような小さな車にトレーラーを付けて物資の輸送をしたためいささか効率的ではなかったが無いよりはマシだった、
中には助手席に機関銃を装備した車両もあり、
この車を元に輜重科と大村の仲は始まっていくのだ、
しかし日露戦争の最中、
輜重科が採用した携帯焜炉に思わぬ出来事が頻発するようになる、
それは携帯するために小型化したためいつの間にか気付かないうちに無くしているのだ、
日露戦争当時は各分隊に1つの割合で配られた、
後に太平洋戦争までに個人に配られるのとは違いこの頃はまだそんなに数が揃っていなかった上そもそも分隊単位で配られたこと自体に相当な無理をしていた記録も残っている、
しかし軍隊の中には手先の器用なやつが必ず居る、
そしてそいつが器用な事を始めたのもちょうどこの頃だ、
なんと食べ終わった空き缶を使ってアルコールストーブを作り始める部隊がちょくちょくと出てきたのだ、
冬場の寒さを凌ぐために作られたこのアルコールストーブだが意外にも携帯焜炉としても使えるという事が分かると無くした分隊のためにコツコツ作り始めたり、
個人で暖を取るために使ったりと、
むしろ携帯焜炉の数よりもこちらの方が多いのでは?と言われた程である、
このアルコールストーブの登場により携帯焜炉の無理な急ピッチな生産も少しずつ落ち着き、
後の太平洋戦争へ向けて充実化などを図るのだ、
そして輜重科にとって運命とも言える第一次世界大戦、
ある意味では欧州への派兵を支えたのも輜重科だったしなおかつこの第一次世界大戦により輜重科は陸軍より独立、
輜重軍として歩みを始めるのだ、
この陸軍からの独立は様々なゴタゴタがあったり、
様々な要因が重なった事によるもので陸軍自体も薄々は感じていたがまさか本当にこうなるとは思っていなかった、
輜重軍の言い分としては「海軍が潜水艦から守ってくれない」「陸軍からの圧力」等々、
しかし海軍は当時潜水艦への対抗手段がほぼなく、
ただの独立するための口実ではという者もいた、




