殿下から婚約破棄宣言の代筆を頼まれました。依頼人の婚約者は私です
『婚約者を断罪する宣言文を書いてほしい。報酬は金貨五十枚。多少盛ってもかまわない』
依頼状の差出人欄には、《L》とだけ書かれていた。
けれど、筆跡を見間違えるはずがない。右に大きく傾いて、最後の払いがいつも跳ねる字。
三年間、婚約者として何度も見てきた、レオポルド殿下の字だ。
そして殿下の婚約者は――この私、シャルロッテ・ミュラーである。
*
王都の裏通りにある、小さな文具店。その奥の帳場で、私は依頼状を握ったまま、しばらく動けなかった。
私には、誰にも言えない副業がある。
匿名の代筆屋《月影》。
恋文、詫び状、弔辞、祝辞。字の書けない人や、言葉に詰まった人の代わりに、文章を書く仕事だ。
始めたのは五年前、領地の不作で実家が傾いたときだった。令嬢が働くなど、社交界に知れたら笑い者になる。だから名を伏せ、この文具店の主人に頼んで、依頼の受け渡しをしてもらっている。
おかげで今では、王都でいちばん予約の取れない代筆屋、などと呼ばれているらしい。
まさか、婚約者本人から依頼が来るとは思わなかったけれど。
「お嬢さん、どうしなさる。断ってもいいんだよ」
文具店の主人が、心配そうに覗き込んできた。この人だけは、《月影》の正体を知っている。
「いいえ、お受けします」
「本気かい。自分を断罪する文を、自分で書くってのかい」
「ええ。断ったら、殿下はきっと別の代筆屋に頼みます。そうしたら、本当に嘘だらけの断罪文が出来上がってしまうでしょう」
「そりゃあ、そうだろうが……」
「それに、おじさま。《月影》は、依頼人を選ばない代筆屋です。相手が王子殿下でも、婚約者でも」
主人は、やれやれと頭をかいた。
「お嬢さんは、昔から頑固だねえ」
私は、依頼状を丁寧に畳んだ。
「ただし、いつもの決まりどおりに。お客様には、先に質問状をお送りしてください」
《月影》には、決まりが二つある。
一つ。書く前に、依頼人へ質問状を送ること。依頼人の本当の気持ちが分からなければ、本当の言葉は書けない。
二つ。嘘は、一行も書かないこと。
*
三日後、殿下からの返事が届いた。
質問状への回答は、どれも走り書きだった。私は一つずつ、ゆっくり読んだ。
『問一。婚約者の方の、最も許せない点は何ですか』
『何でも私より上手くこなすこと。私がいなくても、まったく困らない顔をしていること』
『問二。婚約破棄のあと、どうなりたいですか』
『エミリアと共にいたい。それから、父上に一度でいいから認められたい』
『問三。婚約者の方が、あなたにしてくれたことで、覚えていることは』
『書類の整理。大使への詫び状。式典の挨拶文。……その他いろいろ。多すぎて覚えていない』
『問四。婚約者の方に、最後に伝えたいことは』
その欄は、空白だった。
私は、紙をそっと机に置いた。
怒りは、不思議と湧いてこなかった。ただ、少しだけ寂しかった。三年間、隣にいて、殿下は一度も、私を見ていなかったのだと分かったから。
そして同時に、分かってしまった。
この人は、私を憎んでいるわけではない。自分を、嫌いなだけなのだ。
私は、羽根ペンをインク壺に浸した。
依頼どおりに書こう。婚約者を断罪する宣言文を。
ただし、嘘は一行も入れずに。
書き上げた原稿に、私は短い添え状をつけた。
『本番の前に、必ず一度、声に出してお読みください。――月影』
*
建国記念の夜会は、大勢の貴族で賑わっていた。
私が広間に入ると、殿下はエミリア様を連れて、わざわざこちらへ歩いてきた。
「来たか、シャルロッテ。今夜は覚悟しておくことだ」
「何の覚悟でしょう、殿下」
「とぼけるな。お前の数々の非道を、皆の前で明らかにしてやる。原稿は、あの《月影》に書かせた。王都一の代筆屋だ。逃げ場はないぞ」
殿下は、勝ち誇ったように封筒を掲げてみせた。
私は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「まあ、《月影》に。それは、さぞ素晴らしい文でしょうね」
「ああ、楽しみにしているがいい」
「ええ。とても、楽しみです」
エミリア様が、くすりと笑って殿下の腕にしがみついた。
「シャルロッテ様、今夜でお別れですわね」
「ええ、エミリア様。どうぞ、最後まで殿下のお言葉をよく聞いて差し上げてくださいね」
やがて楽団の演奏が止み、殿下は壇上へ上がった。玉座には国王陛下。その少し下に立つ殿下の隣には、エミリア様が頬を染めて寄り添っている。
殿下の手には、私の書いた原稿があった。
封は、昨夜のまま切られていなかった。
――やっぱり、読んでいない。
殿下は昔から、渡された原稿を下読みしない方だった。私が書いた挨拶文も、いつもその場で初めて目を通していた。
「皆、聞いてほしい!」
殿下が声を張り上げ、封を切った。
「今宵、私は大切な決断を伝える。シャルロッテ・ミュラー、前へ!」
人垣が割れ、私は静かに進み出た。
殿下は私を一瞥し、原稿に目を落として、朗々と読み始めた。
「誰よりも長く私の隣に立ち、私の至らなさを支え続けた者を、今日ここで手放す」
広間が、ざわりと揺れた。
断罪、という空気ではなかった。殿下も一瞬だけ眉を寄せたが、そのまま次の行へ進んだ。
「いかなる公務にも遅れず、私が投げ出した書類にも、彼女は黙って目を通してくれた」
「ひとつの不満も口にせず、私の失言を、各国の大使に詫びて回ってくれた」
ざわめきが、だんだん大きくなる。
殿下の声が、わずかに上ずった。それでも原稿から目を離さない。離せないのだ。殿下は、自分の言葉で話したことが、ほとんどないから。
「常に正しく、常に賢く――私はそれが、ただ、妬ましかった」
エミリア様が、ぱっと殿下の顔を見上げた。
殿下の顔から、血の気が引いていく。
けれど、陛下が玉座から身を乗り出してご覧になっている。ここで読むのをやめれば、何かを隠していると白状するようなものだ。
殿下は、震える声で続けた。
「恥ずべきは、彼女ではない」
「私のほうだと、本当は分かっている」
「確かに私は、エミリア嬢を想っている。だが、婚約者を貶める理由を、私は一つも持たない」
「しかし、それでも私は、彼女を手放す。――彼女の隣に立つ資格が、私にはないからだ」
最後の一行を読み終えると、殿下は原稿を握りしめたまま、立ち尽くした。
広間は、しんと静まり返っていた。
*
最初に口を開いたのは、国王陛下だった。
「……よくぞ言った、レオポルド」
殿下が、びくりと肩を震わせた。
「初めて、お前の本心を聞いた気がする。己の弱さを、満座の前で認めるとはな」
陛下の目は、どこか寂しげで、そして少しだけ安堵しているように見えた。
殿下は口を開きかけて、閉じた。
違う、と言えば、どうなるか。
これは代筆屋に書かせたもので、本当は婚約者を断罪するつもりだった――そう白状すれば、それはそれで、満座の前での恥になる。
認めれば、自分の弱さを認めたことになる。
否定すれば、婚約者を陥れようとしたことを認めたことになる。
殿下は、どちらも選べないまま、ただ立っていた。
「……レオ様」
エミリア様が、そっと殿下の腕から手を離した。
「私を理由に、なさるおつもりだったのですね。ご自分の、その……妬ましさを」
「ち、違う、エミリア、これは――」
「失礼いたします」
エミリア様は小さく一礼して、人垣の向こうへ下がっていった。
私は、一歩前に出た。
「殿下。お言葉、確かに承りました」
ドレスの裾をつまみ、深く頭を下げる。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。三年間、お世話になりました」
顔を上げたとき、殿下と目が合った。
殿下の目には、困惑と、羞恥と、それからほんの少しの――何か別のものが浮かんでいた。もしかしたら、殿下は今、初めて私の顔をまともに見たのかもしれない。
けれど、もう遅かった。
殿下が、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「……お前、まさか」
「何のことでしょう、殿下」
「あの原稿は、《月影》が……」
「ええ。王都一の代筆屋が書いた、素晴らしい文でしたわ」
私は、にっこりと微笑んだ。
「嘘が一行もない、という点で」
*
広間の喧騒を逃れて、私はひとりバルコニーへ出た。
夜風が、火照った頬に心地よい。
やり過ぎただろうか、と少しだけ思った。けれど、嘘は一行も書いていない。殿下の回答に書かれていたことを、ただ、殿下の口から言ってもらっただけだ。
「――だいひつはわたし」
背後から、低い声がした。
心臓が、止まるかと思った。
振り返ると、銀の髪を後ろで束ねた長身の男性が立っていた。外務卿のご子息、アルベルト・クラウゼ様。若くして隣国との交渉を任されている、切れ者の外交官だ。
「各行の頭の一文字を、上から読むと。……見事な縦読みでした」
「な、何のことでしょう」
「とぼけなくて結構です、《月影》殿」
アルベルト様は、懐から一通の手紙を取り出した。見覚えのある、私の字だった。
「二年前から、あなたに仕事を頼んでいる者です。依頼人名は《A》」
息が止まった。
《A》様。隣国との交渉で使う挨拶状や、亡くなった部下のご家族への弔問状を、何度も依頼してくださった方だ。
そして、仕事が終わるたびに必ず、書き手宛ての短い礼状を添えてくださった、唯一の依頼人。
『今回の文も、相手の心に届きました。ありがとう』
『あなたの文には、嘘がない。だから信じられる』
『いつか、書き手の方に直接お礼を申し上げたい』
その礼状を、私は一通残らず、引き出しの奥にしまっている。
「どうして、私だと」
「あなたの文は、いつも一番重い真実から書き始める。今夜の一行目を聞いた瞬間に、分かりました」
アルベルト様は、少しだけ照れたように目を逸らした。
「それに、あなたの文は、毎回三度読むことにしているので」
「三度も、ですか」
「一度目は内容を。二度目は言葉の選び方を。三度目は、書き手のことを考えながら」
アルベルト様は、手紙を大事そうに懐へ戻した。
「どんな人が書いているのだろうと、ずっと思っていました。もっと年配の学者か、引退した書記官だろうと。まさか、殿下の婚約者だったとは」
「がっかりなさいましたか」
「いいえ」
即答だった。
「納得しました。あなたの文には、いつも、誰かを支える人の優しさがあったから」
私は、手すりを握る指に力を込めた。
「……どうして、匿名で代筆などしているのか、お聞きにならないのですか」
「聞いてほしいのなら、聞きます」
「実家が、貧しいのです。領地の不作が続いて。令嬢が働いているなどと知られたら、家の恥になります。だから」
「恥ではありません」
アルベルト様は、静かに、けれどきっぱりと言った。
「あなたの文に救われた人間が、ここに一人います。それを恥と呼ぶ者がいたら、私が許しません」
*
しばらく、二人で黙って夜の庭を眺めていた。
やがて、アルベルト様が口を開いた。
「《月影》殿。新しい依頼を、お願いしてもよろしいですか」
「……どのようなご依頼でしょう」
「恋文です」
私は、思わず彼を見上げた。
「宛先は、《月影》殿に」
頬が、一気に熱くなった。
けれど私は、代筆屋の顔で、ゆっくりと首を振った。
「申し訳ありません。それは、お受けできません」
「……そうですか」
「《月影》には、決まりがあるのです。本当に伝えたい言葉は、ご本人の字でなければ届きません。ですから――」
私は、ほんの少しだけ笑った。
「ご自身で、お書きください」
アルベルト様は、目を瞬かせた。
それから、困ったように笑って、懐からもう一通、手紙を取り出した。
封筒の角が擦り切れて、くたびれている。
「実は、もう書いてあります。半年前から、ずっと持ち歩いていました。渡す勇気が出なかった」
差し出された手紙を、私は震える指で開いた。
癖の強い、少し右上がりの字。お世辞にも上手とは言えない。
『少し前から、あなたの文を読むのが、一日の支えになっています。
きっと書き手は、言葉を何より大切にする方なのだろうと思っていました。
できることなら、いつか直接お会いして、この気持ちを伝えたいと願っていました。
すべて、本当です。』
四行だけの、短い手紙だった。
読み終えて、もう一度、頭の文字だけを上から追った。
す、き、で、す。
「……縦読み、下手ですね」
声が、震えてしまった。
「初めて書きましたので」
アルベルト様は、耳まで赤くして言った。
「添削、していただけますか」
私は手紙を胸に抱いて、首を横に振った。
「いいえ。これは、このままがいいです。一文字も直しません」
それは、私が今までに受け取った中で、いちばん下手で、いちばん嘘のない手紙だった。
*
それから、少しだけ後のこと。
あの夜の宣言文は、誰かが書き写したらしく、《王子の懺悔》という題で王都中に出回った。
レオポルド殿下は、陛下の命で一年間、隣国へ留学することになった。表向きは見聞を広めるため。実際は、自分の言葉で話す訓練のためだという。
出発の前日、殿下から一通の手紙が届いた。自分の字で、たどたどしく、こう書いてあった。
『あの原稿を書いたのが誰か、もう聞かない。ただ、一つだけ。問四の答えを、今さら書いた。すまなかった』
私は、短い返事を書いた。
『お気をつけて。ご自分の言葉で話す殿下を、楽しみにしております』
《月影》の正体は、今も世間には秘密のままだ。ただ、陛下だけは何かお気づきのようで、時折、文具店に匿名の依頼が届く。国の大切な式典の、祝辞の依頼だ。
「お嬢さん、また《王冠》様からだよ」
文具店の主人が、にやにやしながら封筒を差し出してくる。王家の紋章を、わざわざ蝋で隠した封筒。
「質問状、送ってくださいね」
「陛下にかい?」
「ええ。決まりは決まりですから」
*
あの夜から、一年。
私は今、クラウゼ家の書斎で、《月影》の仕事を続けている。
夫は相変わらず、外交の挨拶状を私に頼んでくる。きちんと報酬まで払うのだから、律儀な人だ。
けれど、ひとつだけ、決して代筆を頼まないものがある。
毎朝、私の机の上に置かれている、短い手紙。
癖の強い、右上がりの字で、四行だけ。
今朝のは、こうだった。
『あなたの淹れるお茶が、世界で一番おいしい。
いつも、仕事の邪魔をしてすまない。
してほしいことがあれば、何でも言ってほしい。
てがみ、今日も読んでくれてありがとう』
頭の文字を、上から読む。
あ、い、し、て。
「……最後の一文字が足りません」
書斎の扉の陰で、様子を窺っていた夫に声をかけると、彼は真面目な顔で言った。
「続きは、口で言おうと思って」
それから、耳まで真っ赤にして、私の前に立った。
縦読みは、あいかわらず下手なままだ。
けれど、この人の言葉は、一行残らず本当なのだ。
(了)




