表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

夢幻の森に抱かれて 第二話(完結)


 次の朝、私の記憶が間違っていなければ出発後六日目ということになる。私は誰よりも早く目を覚ました。森は完全なる静寂に包まれていた。私の足は自然と湖の方に向けられた。残酷な運命は手招きしている。この時、何を考えていただろう? そうだ、おそらく、祖国の旗を湖の淵に立てて行こうと思ったはずだ。この辺りから、記憶は次第に曖昧になる……。そう、この記録もぼやけているが、できれば、この文章の多くをそのまま信じて欲しい。その湖畔にまで歩みを進めたとき、私は見たのだ。そうだ、その地には我が国の国旗がすでに立てられていたのだ。ああ、こんなことが信じられようか? その旗はこの数日の降雨によって、すっかり濡れて萎びていた。私は震える手で土で汚れたそれを拾い上げた。誰か他の人間が先に来て、ここに立てたものではない。国旗の下部には、この私の手によるサインが書かれていたのだ。我々がこの冒険の記念として、ここに置いていったものに違いなかった。私はしばらくの間、霧の中に呆然と立ちすくんでいた。


 信用ならない私の目は、次に湖の中央付近に金髪少女の美しい裸身を見た。それはまるでルネサンスの名画の中に登場する、天使の化身のようであった。周囲を見ると、いつの間にか私の背中に追いついた他の隊員たちも、湖の蒼と少女の白が入り混じるその見事な光景に見とれていた。だが、こんなことはあなた方には到底信じられないだろう。この続きはもっとも残酷である。湖に棲むその少女は、自分の髪を洗いながら、こちらを見て静かに笑っていた。その輝く瞳には未知の魔力があった。我々は否応なくその魅惑に引き寄せられることになる。誰もが湖の中央付近を目指して歩を進めた。


『時間は無限のものだが、この森においては有限であり、それが逆行する。お前たちは自分の目で自らの破滅を見るだろう』


 どこからか、よく通るそのような声が響いてきた。我々は意に介さなかった。正常な意識はすでに飛ばされていた。何とかしてあの少女を我が手に入れようと、誰もが躍起になっていた。しかし、湖面の水を掻いても掻いても、微笑む少女との距離はなかなか縮まらなかった。他の誰にもあの可憐な妖精を渡すつもりはなかった。私は必死で泳いだ。他の隊員が寄ってくると、握り拳で殴りつけた。少女との距離はようやく縮まってきたように思えた。私は利き腕を必死に伸ばして、彼女の細い身体を抱き寄せようとした。


 その次の瞬間、冷たく硬い、まるで違う何者かを抱きしめることになった。私は恐ろしい漆黒の骸骨に我が身を任せていたのだ。そこにいたのは天使や妖精ではなかった。ぼろ布のローブを羽織り両手鎌を振りかざす死神であった。湖の中央付近に集まっていた全員の姿が、その冷徹な視線に映されていた。我々はそのとき残酷な運命を授けられたのだ。慌てて湖畔にまで戻ると、皆が自分の荷物まで置き捨てて、その恐ろしい地点から逃げ出した。この惨めな体験が、かつては正常であったはずの我々の神経をずたずたにしてしまった。


 辛うじて私に付いてきた隊員はわずか四名であった。不思議なことだが、あの湖から距離的に離れることによって正常な思考力を取り戻すことになった(少なくとも、そう思えた)。七日目の朝(天気はぐずついていた)、その頃には我々は命が助かったと、つまり、死神の鎌から逃れ切ったと思い込んでいた。しかし、食糧と水を失っていたため、行進は思うに任せぬものとなった。激しい空腹に悩まされることになった。


 再び意識は朦朧とし始めた。ちょうど昼頃、曇天模様の空から黒く粘り気のある雨が降り注いできた。水分の補給ができるのならば、どんな汚れた水でも構わなかった。我々は天に向けて大きく口を開き、その黒い水をたらふく飲んだ。この時、すでに脳は狂わされていたのだ。それから二時間も経たぬうちに手足は黒く染まっていった。命が助かるかどうかの瀬戸際である。誰もそんなことを気にも留めなかった。やがて空腹は極限にまで進んでいた。これは断言させてもらうが、飢餓とは人間の死に様の中で、もっとも苦しいものであろう。誰もが地面に生えた毒草や毒キノコに手を出して余計に苦しむ羽目になった。その頃には我々は四足で歩行するようになっていた。人間らしい思考は消え去ろうとしていた。小鳥やウサギや小鹿を捕えて、その頭から噛り付いた。そして、血液を吸い尽くした。これも奇妙なことだが、誰もが自然のうちにそういった行為を受け入れていた。


 その夜、我々四名は数日前に訪れている監視所にまで戻ることに成功していた。そこには中年の森番が生活をしていたのだ。このおかしな現実がお分かりだろうか? そう、森番が生きていたのだ。我々が行きに凄惨な死体と対面したはずの、あの森番である。彼は夕食の手配をしていたようだが、四つ足歩行で近づいてきた我々の姿をその瞳に見つけると、驚いてこのように叫んだ。


「何ということだ! ま、まさか、あの湖に行ってしまったのか? あそこには忌まわしき運命神モルタが棲んでいる……。まさか、モルタの呪いを、すでにその身に受けてしまったのか?」


 その言葉の真意も我々の狂った神経にはまったく届かなかった。人語を知らぬ猛獣の狂った叫びのようにしか聴こえないのだ。その声は強風のように聞き苦しくざわざわとしていた。森番は我々をその片手斧で追い払おうとした。だが、我々の飢えはすでに極限である。四人がかりで森番の親父の身体に噛り付いた。ああ、その鍛えられた肉体が、なんと美味に感じられたことか……。私は自分が怪物に生まれ変わったことを失望することさえも、すでにできなくなっていた。この記録書の読者の方にも、すでにお分かりいただけたように、テュグ族などという人種はそもそも存在しない。八日前にこの忌まわしい森林に踏み込んだ我々の変わり果てた姿こそが、その化け物なのだ。そして、あの妖精が訴えたように、この森にあっては時間は逆行している……。


 この先のことは詳しく説明する必要はないと思う。そう、我々は不用意に森林に踏み込んで来た『過去の』自分たちに襲いかかった。そして、そのうち四人を喰い殺した。その四人は、私が出発直前に直々に選抜した、最も優秀で若い隊員たちであった……。このような怪物となっても、ほんの少しの罪悪感は残っていた。せめてもの償いとして、森の入り口の切り株の上に、この告白書を残しておく。幸いにも私の意識は朦朧としながらも、ほんの少しの理性が残されている。これ以上の犠牲者を出す前に、我が手に残された唯一の短銃で、自分の頭を打ち抜くつもりである。最後に、この告白書を手に取った貴方に告ぐ……、どうか、この恐ろしい森林には、決して踏み込まぬように……。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。短編作品は他にもあります。ぜひ、そちらもご覧ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ