起きちゃいけない
「おーつかれー」
「ういー、お疲れさーん」
籍を置いている大学院の卒業条件の一つに『年間2件以上の発表実績があること』という謎の条件があり、彼女は面倒だなぁと思いながらも、それが条件ならば仕方ない、と溜息を吐いて学会に学生会員として登録した。
そして資料を作成し、発表まで済ませた。後は寝るだけの状態になり、その女子生徒はビジネスホテルの部屋に戻って、ベッドに腰かけてひと息ついた。
「ふいー……学会発表って疲れる……! でも、あとは寝るだけだもんね!」
メイクを先に落としてシャワーを浴びてこようと立ち上がり、さっさと寝る準備に取り掛かる。
そして、彼女は諸々を済ませてベッドに横になり、疲れもあってかすぐに瞼が重くなってきたのだった。
「(明日の朝ごはん……何だろ……。昨日の和定食もおいしかったな……)」
そんな平和なことを考えながら眠りについた。
あんなことが、起こってしまうだなんて思いもせずに。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さすがに今回の発表の会場は大きいよなぁ……全国大会マジすっげぇとか、この会場までどうやって移動しようか、とか。
考えることは色々とあったし、何せ同期が怠け者。
女子生徒は既に飛行機もホテルも予約を完了させている。果たして同期は、と考えていれば呑気な声が彼から零れる。
「俺も発表するから行くんだけど、飛行機って結構前に到着してないといけないんだっけ?」
「そだよ」
「どんくらい前?」
「えー? 確か一時間前とかだと安心的な」
「起きれるかな……」
「飛行機待ってくれないからね?」
「ですよね!?」
そんな会話をしていると、二人の所属しているゼミの教授がいきなりゼミ室に入ってきた。
「あ、先生お疲れ様です」
「お前ら学会の準備はちゃんとしたか?」
「私は出来てるんですけど……そうそう。先生、いっこ質問良いです?」
「おう」
人のいい教授は、生徒ともとても仲が良かった。
はいはーい、と手を挙げている女子生徒の言葉にも嫌な顔をせずに微笑んでくれている。
「空港までどうやって行くんです? 空港バス使うとか?」
「それなんだけど」
「はい」
「こいつの遅刻怖いから、I駅に集合しろ。俺が車出すわ」
「えー!」
「先生の車ー!」
やったぜ! とはしゃぐ生徒二人を微笑まし気げに見ていたが、ふと我に返った教授は遅刻魔である男子生徒をジト目で見ている。
「お前が遅刻の前科ありすぎなんだっての! まったく……向こうでも基本は団体行動だからな!」
「うげ」
「あーい」
ちくちくとお小言を発している教授ではあるが、信頼があるからこそ互いに軽口を言ったところで何も問題がない、というのは良き関係性である。
他愛もない会話を繰り返し、飛行機の予約も完了していることを全員が確認し、学会への出発当日は決して遅れないように!という一言に男子生徒は『うげ』と呟いていたが、女子生徒は『はーい!』と返事をしてその場は解散となった。
そして、学会当日。
遅刻魔の同期もさすがにこの日ばかりは遅刻せず、飛行機の搭乗にも無事に間に合い、全員が目的地まで到着した。
その日は発表日ではなかったため、会場の見学と時間があれば見たい、と言っていたお目当ての発表も見れた。
翌日の発表会場も確認し、入り口からこの会場までのルートだって確認しておいた。
「じゃあ、明日は朝一で会場に向かう。寝坊するなよー」
「はーい」
「ういっす」
夕食も皆で済ませ、各々の部屋に戻って体を休めよう、とホテルのロビーで解散した。
教授は『俺呑み足りねぇからもう一回出かけてくるわ』と言って、ふらふらしつつホテルから出ていった。
「……あの人が一番やばいんじゃね?」
「でも先生基本遅れたことないよ、誰かさんと違ってさ」
「ねーさん、一言多い」
「やかましい。ありゃ、あんた隣の部屋?」
「そうみたいだわ」
「何かあったら壁ノックするね」
「俺も」
「そこんとこはお互い様ね!」
「おう!」
エレベーターに乗り込んで、二人で会話をしつつ部屋に歩いていけば、どういう偶然か部屋は隣同士。あらまぁ、と二人で笑い合って、それぞれの部屋へと入っていった。
「何もなけりゃいいんだけど……」
呟きつつ、女子生徒は荷物の中から愛用の部屋着を取り出し、時間も遅いことだからとささっとシャワーを浴びて翌日の発表に備えるために眠りについた。
基本的に目が覚めることなく、朝までぐっすりの女子生徒だったのだが、その日様子が異なっていた。
「(あれ)」
目が覚めたのだ。
具体的には、『目が覚めたけれど、目は開いていない状態』として。
「(目、開けちゃいけない気がする)」
何となく、本能で……というか、恐怖を感じていた。
――怖い、目を開けてはいけない、絶対に。
「(開けるな!)」
必死に自分に言い聞かせながら、耐える。
そして、何故だろうか。
普段は上を向いて、仰向けで眠っているけれどたまには寝返りだって打つ。しかし、それをしたくない、とも同時に思った。
夜中であろうと目が覚めれば枕元に置いてある携帯をとって時間を確認するのに、それすらしたくないと思ってしまうほどには、本能的に『目を開けるな』と体全体が叫んでいるような感覚だったのだ。
「――っ」
不意に、顔の近くに他の誰かの気配を感じた。
顔の前に手を持ってこられ、何だか嫌な気配があるような、不快感を覚えるような、奇妙なもの。
「(顔だ)」
目を開けて確認したわけではないのに、顔があるから起きてはいけない。目が合うぞ、と感じた。
本能なのか何なのか、目を合わせてしまってはいけない、よくないことが起るとも感じてしまい、内心パニック状態。
「(嫌だ! やめてよマジで無理!)」
じわりじわりと顔が近付いてくるような感覚に、恐怖しかなかった。
気持ち悪いような、圧を感じるような、得体のしれない空気感。何なんだろう、これは、と考える心の余裕なんてないほどに、『何か』が迫ってきている。
顔同士の距離だって、さっきより詰められてきている感じだってしてしまう。
体がのしかかっている感じはないけれど、囲い込まれているような、そんな雰囲気。
四つん這いになって、しかし顔だけをじわじわとゆっくりした速度で近づけてきているだろうから、何度でも言える。
圧がとんでもない。
どうしよう。
助けて。
嫌だ。
正面から、横から、とにかくどうにかして、視線を合わせたいという向こうの迫力というか、執念というか、そんなものすら感じたからこそ、なのだろうか。
女子生徒は耐え続けた。
絶対に、見てなんかやるもんか。その思いだけで、地獄のような永遠につづくかもしれない時間を、一人で耐え続けた。
同期に助けを求めることすら忘れ、声も出せないままに、必死に耐えていると、女子生徒はいつの間にか気を失っていたらしい。
気が付けば、辺りはうっすら明るくなってしまっていた。
もう目を開けても大丈夫だと思った女子生徒は、ゆっくりと目を開ける。
「朝……?」
ようやく出た声は、びっくりするほどに枯れていて、かさついていた。
けほ、と一度咳払いをしてテーブルに置いてあったペットボトルに入っているお茶を飲めば、少しだけ喉が潤った。
「……なに、あれ……」
寝ていただけなのに、どっと疲れが押し寄せてきた女子生徒だったが、ぼんやりしている時間はあまりなかった。
いくら恐怖体験をしたとはいえ、学会発表が中止になってくれるわけではないし、リスケされるわけでもない。
時間を確認し、準備をしてからホテルの朝食を食べて、同期や教授と揃って会場に向かっている最中、教授がふと呟いた。
「そういやお前ら、夜大丈夫だったか?」
「へ?」
「俺大丈夫だったですけど」
「そうかそうか。いやなぁ、あのホテルで本当に良かったのか、って聞こうとは思ったんだけどさ」
教授曰く、所謂『出る』と地元では有名だったらしい。
あれこれと色々な種類が出るそうなのだが、一番やばいのは『女の霊』だそうで。
「…………おんなの、って、え?」
「何かな、目が合うとまずいらしいぞ」
「目が、合うと」
それを聞いた女子生徒は、さっと顔色を悪くしてしまった。
気付いていない教授は、更にしれっと続けていく。
「そうそう。何て言ってたかなー…………思い出した!」
バスで、女子生徒と男子生徒の前の席に座っていた教授は、振り返っていつもの柔和な笑顔で、こう続けた。
「『入られる』んだそうだ」
「こっわ。……あれ、ねーさん大丈夫? 顔真っ青だけど」
「…………おう、大丈夫」
引きつった笑顔で女子生徒は答えた。
もし、あの時うっかり目を開けていたら、どうなってしまったんだろう。
「(考えるの、やめとこ)」
それだけ心の中で呟いて、目的地に到着したバスから降りて、学会の発表会場へと歩いて行った。
なお、そのホテルは諸々の事情があって、今はもうない。
しかし、もし仮に今もまだあれば…『彼女』は『入れる先』を探してさまよい続けていたのだろうか。
もう、誰にも分からない。