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明日のさきに  作者: 碧衣
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第5話「傘のいらない場所」

 週の後半、午後からの天気は下り坂だった。

 昼過ぎまではどんよりと曇っていたが、夕方近くにぽつり、ぽつりと音を立てて雨が降り始めた。


 制作部の窓に雨粒が次々にぶつかり、まるでガラスがため息を吐いているような音を立てる。


 定時過ぎ、七海が資料整理をしていると、派手な雷鳴がとどろいた。

 窓の外を見ると、ビルのガラスが雨に濡れ、街の輪郭がぼやけていた。


「うわ……傘、持ってない」


 思わず漏れた声に、隣で悠真が顔を上げる。


「出社したとき、降ってなかったですもんね」


「はい、天気予報見てなかった……。どうしようかなぁ」


「待てば小降りになるかもですよ。急ぐ用事なければ、少し会社で粘ったら?」


 七海は、口をへの字に曲げた。


「実は……友達とごはん行く予定だったんです。でも、連絡したらキャンセルになって。で、ちょっと気が抜けてたというか」


「……なるほど」


 その言い方はどこか寂しげで、でも明るく装っていた。

 悠真は引き出しから自分の折りたたみ傘を取り出すと、軽く振って広げた。


「じゃあ、これ使います? 自分はもう少し残ってますし」


「えっ、でも榊さんが濡れちゃいますよ」


「このあと社内打ち合わせあるんで、帰るの遅くなるんです。帰る頃には止んでるかもしれないし、濡れるなら自己責任です」


「……ほんとにいいんですか?」


「ええ。新人が風邪引いたら教育係の責任ですし」


 七海はしばらく迷ってから、そっと傘を受け取った。

 その仕草が、まるで誰かの大切な贈り物を預かるように慎重で、悠真は思わず目をそらした。


「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……行ってきます」


「はい。気をつけて」


 七海はぺこりと頭を下げて、エントランスに向かった。

 雨音に混じって、小さな足音が消えていく。


 ***


 それから三十分ほどして、悠真がデスクでメールの返信をしていると、ふいに誰かがドアをノックする音がした。


 顔を上げると、そこには――濡れた髪をタオルで拭きながら、戻ってきた七海が立っていた。


「……戻ってきた?」


「傘、お返しに来ました。近かったんで。すみません、濡れてるけど、ちゃんと畳みました」


 悠真は少し呆れて、それから笑った。


「別に、明日でもよかったのに。わざわざ戻ってきたのか」


「なんとなく……借りっぱなしって落ち着かなくて。すぐ返したほうが、気持ちも楽だから」


「そういうとこ、几帳面なんですね」


「えへへ、面倒くさいですよね。自分でもちょっと思います」


 七海の頬に、まだ雨粒が少し残っていた。なのに彼女は、どこか誇らしげだった。まるで、“ちゃんと返せた”ことが、世界のバランスを取り戻すような何かだったかのように。


 「じゃあ、おやすみなさい」と言って、七海がもう一度軽く会釈したとき、悠真はふと声をかけた。


「朝倉さん」


「はい?」


「……傘、いらないくらいの場所、どこかにあると思います?」


 七海は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。


「うーん……屋根のある駅の改札とか、アーケードの商店街とか、かな?」


「いや、そういう物理的な意味じゃなくて。……たとえば、気持ちが濡れない場所とか」


 沈黙が一秒、二秒と伸びる。


 七海は答えなかった。けれど、静かにうなずいた。


「……そうですね、探してるのかも。そういう場所」


 その言葉に、悠真は何も返さなかった。ただ、微かに笑っただけだった。


 止まっていた心の奥に、何かが少しずつ染みこんでくるような、そんな雨の夜だった。

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