第3話「空気を読むこと」
社内にいても、七海はよく目立った。
大きな声を出すわけでもないし、奇抜な格好をするわけでもない。ただ、自然と目が引かれる。ふとした仕草や受け答えが、まるで意図せず“色”を持ってしまうような、不思議な存在感だった。
昼過ぎ、会議室で企画書の打ち合わせが行われていた。クライアントとのリニューアル案件。七海は入社早々にこの案件に加わることになった。通常なら、慣れるまで別の補助業務に就くはずだったが、「感性を見たい」という部長の方針だった。
「この色使い、少しポップすぎないか? ターゲットは三十代後半だぞ」
ディレクターの岩瀬が、モニターを指さして言った。
七海が出したカラーパターンに、社内の数人が目を向けた。若々しさと遊び心を意識した配色だったが、たしかに少し目を引きすぎる感もあった。
「すみません。意図としては“少し背伸びした自分に期待を持てる色”というイメージだったんですが……外しすぎでしたか?」
七海は素直に認めた上で、自分の意図を淡々と述べた。
その様子に、悠真は内心で驚いた。普通の新人なら、謝ってすべて引っ込めてしまう場面だ。だが彼女は、押しすぎず、引きすぎず、言葉を選びながら自分を表現している。
「いや、悪くはないよ。ただ、まだ方向性が定まってない感じがする。こっちで少し調整してみようか」
岩瀬が口を和らげたのは、七海の態度に誠意を感じたからだろう。
会議後、資料を片付ける七海に、悠真は声をかけた。
「よくやったと思いますよ。あの場で、言い返さなかったのも含めて」
「言い返すっていうか……みんなの意見、ちゃんと聞きたかっただけなんです。自分の引き出し、まだ少ないですし」
「でも、引きすぎると埋もれますよ。あの会議室、空気が読みすぎる人から消えていきますから」
そう言った自分の口調が、思ったより冷たかった。
だが七海は表情を変えずに、ふっと微笑んだ。
「榊さんは、空気を読めるけど、染まってはいない感じがします」
「それ、褒めてます?」
「もちろん。読めるだけの人は多いけど、読んだうえで自分を持ってる人は、意外と少ないです」
この人は本当に、遠慮がない。
だがその言葉は、嫌味でも皮肉でもなく、ただまっすぐだった。
「……あんまり持ち上げると、仕事増やしますよ」
「ぜひ。榊さんの下でたくさん吸収したいですから」
そう言って、七海は笑った。
照明の下で、彼女の瞳がわずかに光を帯びたように見えた。
***
その夜。悠真は珍しく仕事を早めに切り上げ、会社近くの喫茶店に立ち寄った。
窓際の席に座り、スマホを開くでもなく、ぼんやりと通りを眺める。
止まった時計。初心の時間。
七海が言ったそれらの言葉が、頭から離れなかった。
彼女の言動に、どこか懐かしさを感じる。遠い過去に見た誰かと重なるような……。
いや、と首を振る。そうじゃない。ただ、誰かに真っ直ぐな目を向けられたのが久しぶりすぎて、自分の感覚が追いついていないだけだ。
かつて、自分も何かを信じて働いていた。意味のある仕事がしたいと、夢のような言葉を口にしていた時期があった。
でも今は、仕事は仕事だ。正しさより、納期と予算と社内のバランスが優先される。それを理解してから、妙な理想は捨てたつもりだった。
なのに。
七海のような人間が現れると、削ったはずの何かが、ふと疼く。
それは希望か、憧れか、それとも未練か。
答えは出ない。
ただ、彼女と出会ってから、少しずつ時計の針が動き出したような気がしていた。