第2話「午前八時十七分」
初対面の印象は、どこか「違和感」だった。
朝倉七海という新入社員は、空気を読んでいるようでいて、読んでいない。周囲の空気に溶け込みながらも、どこか自分だけ別の温度を持っているような、そんな存在だった。
「ここ、ファイルの置き場所なんですけど、使いにくかったら移動しても大丈夫です。結構みんな、自分のやりやすいように変えてるんで」
「あっ、ありがとうございます。榊さん、優しいですね」
言葉の返しが素直すぎて、少しだけ戸惑う。
この職場は、無難が好まれる。波風を立てず、個性を主張しすぎず、空気を読むことが何よりのスキルとされる場所だ。
だから、七海のような人間は――目立つ。
「これ、前任の人が使ってたテンプレなんですけど、参考にしてみてください。慣れるまでは、無理に崩さないほうが楽だと思いますよ」
「はい。ありがたいです。でも……少し、自分でもアレンジしてみてもいいですか?」
「……え?」
悠真は反射的に言葉を止めた。
普通、こういうときは「はい、わかりました」と返すのが新人の定型だ。だが七海は、無邪気に笑いながら続ける。
「もちろん、崩しすぎないようには気をつけます。でも、ちょっとだけ自分の色も出せたらなって……ダメ、ですか?」
その目はまっすぐで、押しつけがましさも計算もない。
ただ、率直に、目の前の仕事に真剣なのだとわかる。
「……好きにしていいですよ。結果さえ出せれば、誰も怒らないですから」
そう言いながら、内心では「器用に立ち回れよ」と呟いた。正しさだけでは、社会はうまく渡れない。だがそれは、本人がいずれ学ぶことだ。
昼休み。社内の休憩スペースで、七海とふたり並んでカップ麺を食べることになった。
気まずくはないが、かといって気楽でもない。だが、彼女は沈黙に気を使う様子もなく、自然体でこう言った。
「さっきの話、変なふうに聞こえました?」
「え?」
「腕時計のことです。止まってるのに支えになるって。人によっては、重たく感じるかなって」
悠真は、少しだけ考えてから首を振った。
「いや、重たいっていうより……不思議だった。どうして、それほど大事にしてるのか、って」
七海はカップの中を見つめたまま、ふっと笑った。
「高校のときに、母がくれたんです。就職祝いというか、旅立ちの記念っていうか……。そのときの時間が、八時十七分だったんですよ」
「それ、母親が亡くなった時間とか?」
「ううん、全然。むしろ逆です。普通に駅まで送ってくれた朝の時間」
拍子抜けしたような答えに、思わず吹き出しそうになった。
「なんだそれ。てっきり、もっと深刻な話かと」
「みんなそう思います。でも違うんです。ただの“始まりの時間”」
七海の目が、真剣だった。
「それが壊れて止まっちゃったとき、直すかどうか迷って。でもね、止まったままでも、見てると初心に戻れるんですよ。“あのときの自分”に」
その言葉に、胸の奥がまたざわめいた。
始まりの時間。止まった時計に、そんな意味を重ねる人がいるとは思ってもみなかった。
悠真は、かつて「終わりの時間」しか見ていなかった。あの日、自分の世界が止まった瞬間から、時計の針を前に進めることを諦めていたのかもしれない。
「朝倉さん」
「はい?」
「……大事にしてるんですね、その時計」
「ええ。止まったまま、ずっと一緒にいます」
時計が止まった時間は、彼女にとって未来への合図。
自分にとっての止まった時間は、ただの過去の残骸。
けれど、ほんの少しだけ――
“時計を見直してみようか”という気持ちが、生まれた。