第1話「止まった時計」
榊悠真の朝は、決まってスマートフォンのバイブレーションで始まる。目覚まし音は数年前から消した。音が鳴ると、どうしても夢の続きを思い出してしまうから。
震える端末を止めると、布団から無言で身体を起こし、カーテン越しに薄曇りの空を眺める。東京の空はいつも、どこか乾いていて色が薄い。晴れている日ですら、心に差し込む光は鈍いままだ。
それでも悠真は、インスタントのコーヒーをマグに注ぎ、シャツに袖を通して出勤する。特別な期待もなく、誰かを待つこともなく。ただ、目の前の一日をこなすように。
東京・五反田にある中堅広告会社「インライト」に勤めて三年。制作部に所属し、デザイナーとクライアントの間で日々調整に追われる地味な役割。企画書に夢を語るような輝かしい仕事ではない。だが、誰かがやらなければ案件は動かない。
午前九時半。少し早めにオフィスへ入ると、アシスタントの吉岡が挨拶してきた。
「おはようございます、榊さん。今日も曇りですね」
「ああ。最近、ずっとこんな天気だな」
そんな言葉を交わしながら席に向かい、PCを立ち上げた。受信ボックスにはすでに十数件のメール。今日も一日、沈黙と折衝の繰り返しだ。
「そういえば、今日から新しい人が入るって聞きましたよ」
何気なく吉岡がつぶやいた。
「新人のデザイナーさんらしいです。女性だって」
へえ、と軽く相槌を打っただけで、悠真は特に興味を示さなかった。新人は来ては辞め、また来ては辞める。自分に関係ないと割り切るのが一番楽だ。深入りしたって、疲れるだけだ。
だが、その無関心は長く続かなかった。
午前十時少し前。部長に連れられて、ひとりの女性が事務所に現れた。ベージュのスカートに白いブラウス、肩までの髪をふわりと巻いて、どこか春の風のような柔らかさを纏っている。
彼女は人前で緊張しながらも、真っすぐな声で言った。
「本日よりこちらでお世話になります、朝倉七海です。まだまだ未熟ですが、一生懸命がんばりますので、よろしくお願いします」
一瞬、空気がやわらぎ、小さな拍手が起きた。その中で、悠真はひとつ息を吐いた。彼女がこの先、どれくらい持つだろうか――そんなことを、無意識に考えていた。
「榊。悪いけど、朝倉さんの指導、頼めるか」
不意に部長がこちらを振り返った。
「……え?」
一瞬、返事に詰まった。なぜ自分なのかと疑問が湧く。だが反論しても、意味はない。周囲もそれを当然のように受け止めている。
「わかりました」
そう答えて立ち上がると、七海がまっすぐにこちらを見て、笑った。
「初めまして。いろいろ教えていただけたら嬉しいです」
「……よろしく」
無難に返す。それ以上の感情は見せない。そうしてきたし、それが楽だった。
だが、彼女はふと、自分の手首にある腕時計を見て、少しだけ困ったように微笑んだ。
「これ、止まっちゃってるんです。ずっと八時十七分で。でも、捨てられなくて」
「動かないなら、意味ないんじゃないか?」
つい口をついた言葉だったが、彼女はかすかに首を振った。
「そうかもしれません。でも……止まってても、大事なものって、あると思うんです。時間が動かなくても、気持ちは残るから」
その言葉に、胸が少しだけざわめいた。
――止まっていても、支えになる。
そんな感覚、いつから失っていたのだろう。
七海の笑顔には、どこか懐かしい色があった。まるで、遠い春の日に見た空のような。
止まった時間を抱えているのは、もしかすると自分も同じなのかもしれない――そんな思いが、胸の奥で静かに芽吹いた。