特別回「母ルナリア、愛と狂気の境界線」
ルナリア・フォン・ヴァルディアス――その名を知らぬ者は、大陸にはいない。
銀白の髪を夜の月のようにたなびかせ、深淵のごとき蒼眼を湛えた女は、世界最強の大賢者と呼ばれ、数百年の歴史に刻まれる英雄である。
だが、彼女の脳裏にあるのは、国を守る義務でも、魔導師としての栄誉でもなかった。
――息子。
愛しき、唯一の男の子。
カナメ。
彼が生まれた日、ルナリアは泣いた。
世界を滅ぼしてでも守るべきものが、この腕の中にあると悟ったから。
「可愛い……小さい……これが、わたしの……」
まだ幼い頬を指先で撫でた瞬間、全身に稲妻が走った。
魔導士の直感ではない。
――女としての、本能。
(絶対に誰にも渡さない)
その感情が、彼女の心に静かに根を下ろした。
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カナメは成長した。
そのたびに、ルナリアの愛も膨らんだ。
最初に「ママ」と呼ばれた日、嬉しさで三日寝込んだ。
初めて笑顔を向けられた日、魔導国家を一国まるごと消し飛ばしそうになった(※公爵に止められた)。
だが――。
「ルナリア。そろそろ、教育は家庭教師に任せよう」
ある日、夫ヴァルディアスがそう口にした瞬間、彼女の心は一度止まった。
「……カナメを……他人に……?」
「他人じゃない、優秀な魔導士だ」
「許せない」
ルナリアは即答した。
その夜、彼女は屋敷の書斎で冷静に計算した。
(家庭教師、全員“消す”か……いや、見せしめに一人だけ……いや、ダメ。カナメが怖がる……)
悩んだ末、彼女は別の策を選んだ。
――王立魔導学院の教科書を書き換える。
そうすれば、誰が教えても、内容はルナリア仕様になる。
結果、魔導学院のカリキュラムは、彼女が裏で作ったものになった。
(もちろん、カナメが困らないために♡)
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そして現在。
カナメが学院に入学したと聞いた日、ルナリアは崩れ落ちそうになった。
(……行かないで……私のそばにいて……)
だが、彼女は母親として、笑顔で送り出した。
その裏で――王都全域に転移結界を張り巡らせた。
「カナメが『ママ助けて』って言ったら、一瞬で迎えに行くの♡」
使用した魔力、国家三つを干上がらせるレベル。
でも、構わない。
(だって、あの子は私の世界だから)
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「……さて」
ルナリアは王都の塔で魔法陣を組みながら、今日の情報を整理する。
カナメが学院で初の模擬戦に臨むという噂。
その瞬間、全身に緊張が走った。
(カナメが……戦う……? だれと? どんな相手と? 傷ついたら……)
思考が、赤く染まる。
脳裏に浮かんだのは、一つの結論。
(――学院ごと、消そうかしら)
次の瞬間、背後から声が飛んだ。
「落ち着け、ルナリア」
夫だ。
ヴァルディアス公爵、剣聖と呼ばれる男。
彼だけが、ルナリアの暴走を止められる。
「あなた、今……世界崩壊クラスの術式を展開していないか?」
「……してるわ」
「やめろ」
「カナメが傷ついたら、どうするの……? わたし、生きていけない」
「大丈夫だ。あいつは俺の息子だ」
「……でも、カナメは優しいの。だから、戦いを嫌がるの」
「分かってる。だがな……男ってのは、守りたいもののために戦う時が来るんだ」
その言葉に、ルナリアは一瞬だけ沈黙した。
(……守りたいもの。あの子にとって、それは――)
胸が痛い。
自分で答えを知っているから。
(――きっと、“わたし”じゃない)
だから、怖い。
カナメが誰かを選ぶ未来が。
だが、ルナリアは決めている。
(その時は……選ばれなかった方を、消す)
彼女の笑顔の裏には、世界最強の狂気が潜んでいた。
⸻
夜。
塔の窓から月を見上げながら、ルナリアは小さく呟く。
「カナメ……明日は、会いに行くわ。あなたが笑ってるか、ちゃんとこの目で見るの」
その声は甘く、優しく――同時に、底知れぬ魔力で空気を震わせていた。
(――愛してる。世界のすべてより、あなたを)
その瞬間、王都の空に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
名もなき術式、対象は――カナメの存在そのもの。
「……あなたが望むなら、神さえ殺すわ」
月明かりに照らされたその姿は、母ではなく、一人の女だった。




