EP7.:灰簾石(タンザナイト)⑤
足で玄関の扉を器用に開けて。
血だまりができる中で、靴を脱いで。
ぽたり
ぽたり、と。
落ちる暗褐色の雫を
――― ごめんね、あとで掃除しとくね。
なんて、何でもないように話しながら。
クロウは、シオンを抱きかかえたまま、廊下を歩く。
まだ、何も、脱ぐこともせずに。
脱衣所で、周囲を一瞥、目についたバスタオルだけをひっかけて浴室へとシオンを連れていく。
「一回、このままお湯浴びちゃうか・・・。いい?」
「・・・・・。」
声には出さず、ただ、小さく頷くのを首元で感じる。
温度だけを確認して、一気に出したシャワーを、二人で頭から被る。
ざー・・・っ、と。
音を立てて、降る、湯の雨を
クロウの首に腕を回したまま、
シオンは、ただ、ぼーっと感じていた。
( 疲れた・・・。 )
髪を伝い、頬を落ちる、その流れる感触を感じながら
水を吸った体が、仄かに重くなる。
視界で揺れる銀色の髪が、しっとりと水気を含んでしぼんでいく。
さっきまで掌に触れていた髪は酷く柔らかかった。今は水分を含んで軽く弧を描き、雫をこぼす。
大きな白い犬が、洗われている光景が、何故か浮かんで
「ふ・・・。」
思わず笑いが零れて、肩を揺らす。
「ん?どした?」
「なんか・・・犬みてぇ・・・」
「・・・なんで?なんで急にソレ?」
「さっきまでふわふわだったから。」
「・・・いや、まあ、そうだけど。」
シオンが、少し顔を上げれば、ちょうど同じように顔を上げたクロウと視線が絡む。
こつん、と
額をぶつけて、当たって。
上から見下ろすシオンが
至近距離で見た
『犬』と称されて、少し不満そうなクロウの表情に
わずかに目を細める。
シオンの頬に付いた赤いものを、こそぎ落とそうと
クロウはその頬に触れようとして、だけど、思いとどまる。
自分が触れることで、気付かせることがないように、と。
シャワーの水流だけで
ゆっくり、ゆっくりと
洗い流していく。
水を吸った重みで
肩に辛うじて引っかかっていただけの服が
下へ下へ
沈み始める。
流れる水がまだ赤いのすらも
なるべく気付かせないように、
クロウは未だシオンを抱き上げたままでいた。
そのまま、片腕ずつ、そっと脱がせたそれを
バスタブへと、放り込む。
「寒くない?」
「あぁ・・・。」
触れ合う体温とお湯の温度が
ようやく同じになったような気がして
クロウが、少しだけ眼を細めて、安堵する。
だけど・・・。
「・・・・・。」
小さく身動ぎして、シオンが、再び、クロウの首元に顔を埋めた。
「どうした?」
「・・・いや」
「ん?」
「・・・・・。」
その、肩が震える。
「気持ち、悪い・・・」
「―――・・・っ!」
抱き上げたまま、至近距離の顔を覗き込めば
先ほどと変わって、真っ青な顔のシオンが、眼を閉じて奥歯を噛みしめる。
「吐く?」
「・・・・・。」
小さく、頷く。
温かかったはずの体が、震えが徐々に大きくなる。
指先が、冷えていく。
眉根を寄せたクロウが、シオンの体を横抱きにする。
そのまま、足にまとわりついていたぼろ布を器用に剥ぐと
先ほど同様、放り込んで
全て取り払われたその体へ、準備していたバスタオルをかける。
そのままクロウは床に腰を下ろして、シオンを膝の上に乗せるようにしてその背を支える。
水流をシオンの背にあたるようにずらし、代わりに洗面器を引き寄せた。
「ぐ・・・」
刹那、シオンが突き放すようにクロウを遠ざけようとする、
けど
「いいから。」
その手を、シオンが握りしめた。
「ふ、う・・・!」
もう一方の手で口元を抑え、ぶんぶんと首を振る。
潤んだ瞳で必死で何かを訴えるとけど、それでも、クロウは、シオンを離そうとしない。
「大丈夫だから。」
「あ、ほ・・・!」
「・・・無理して悪態つかんでもいいでしょうに。」
「ば、か・・・、―――っ!?」
「あー、もう・・・。」
そのまま、シオンが洗面器を掴んで、何度かえずく。
突き放そうとしていた手が、もがく様にクロウの胸元を握りしめて。
その手を、上から包んで、背に手を添えて。
「───・・・っ!!」
二度、三度と吐き出して
でも
肩の震えは止まらなくて、そのままシオンは荒い息をくりかえす。
身の置き所がないようにその膝の上から降りて、床に膝立ちになって、天井を仰いで
それでも―――
( だめ、だ・・・。 )
込み上がるものを吐き出す様に
床に、両手を付く。
「が、げほっ、けぼっ!」
「・・・・・。」
「はっ、はあ、はあ・・・」
「・・・・・。」
こんなに出すものがあるのか、と。
内容物と胃液と、それ以外、僅かに赤黒い何か。
喉の奥がひりついて、ぴりぴりと痛む。
もう嫌だ。
吐き出したくない。
ああでも、
それでも吐き出したい。
吐き出さずにいられない。
すべてを出し切ってしまいた。
「ふ、は、はぁ・・・っ」
「・・・・・。」
「がはっ、がほ、げほ、げほ・・・っ」
「出せる・・・?」
「はっ、は・・・、はあ・・・。」
「いいよ、出しちゃえ。」
―― ここにいるから。
「―――・・・っ」
ぽたり、と。
シオンは、己の頬を伝う物に、気付いた。
床にこぼれる物が何かを知った。
悔しくて、悲しくて
気付きたくなかった物に、気付かされてしまった。
弱さ。
吐き出すものがなくなったはず、なのに
顔があげられない。
せめて、奥歯を噛みしめる。
「・・・・・。」
嗚咽を、噛み殺す。
「・・・・・。」
床に、爪を立てる。
「―――・・・っ!」
なんでこんな体に生まれてきたのかと、悔いたところで栓無き話。
それでも、何度目か解らない自問自答。
ぐるぐる、回る。
視界が回る。
もう一度、吐く。
えずく。
吐く
えずく。
繰り返す。
繰り返す。
壊したい。
喚き散らしたい。
誰彼構わず当たり散らしたい。
「・・・・・。」
( ああ、お門違いだって、わかってるのに・・・。 )
振戦
しがみつくように
シオンが
クロウの、胸倉を掴み上げた。
涙と吐物できっと酷い顔だろう。
悔しくて、睨み付けたハズなのに
きっと情けない顔に決まってる。
それでも
視線の先でクロウは静かな顔で受け止めているから
( 嗚呼、凄ェ、腹立つ・・・。 )
「嫌いだ・・・」
「・・・・・。」
「何もかも、大っ嫌いだ・・・。」
吐き捨てる様につぶやいたセリフの意味を
自分自身で理解していて。
厭だと繰り返し投げつけている言葉の先には
自分がぽつんと佇んでいる。
こんな風になり下がった
自分自身が
至極、厭。
壊されたい。
引き千切られたい。
何もかも知らないフリして
バラバラになってしまいたい。
「・・・・・。」
吐き気が収まった様子を見て、クロウが洗面器を、シオンから少し遠ざける。
胸倉をつかんでいるはずが、縋りつくように体を預けて荒い息を付く彼女が、滑稽で、どうしようもなく―――✕✕✕しく思えて
「じゃあ、どうしようか・・・?」
クロウは、少しだけ、乱雑に、シオンの顎を掴んで強制的にこちらを向かせる。
強い眼でシオンを射貫く。
「オレから、離れる?」
「・・・・・。」
「しっぽ巻いて、逃げるんだ?」
「だ、れが・・・!」
売り言葉に買い言葉で、そうすれば絶対にシオンは否定するのを見越して、
小さく、小さく笑う。
だって知らないでしょ?
目が覚めて隣にいると思っていた君がいなかった時の喪失感と、不安感
明日にでも開始するはずの作戦と、得ている情報と、つながる階下の主の不在と。
つながる糸が、どうしたって君を絡め捕っているんじゃないかと思った時の
どうしようもない切迫感。
行きついた先の、光景。
( ああもう、二度と御免だ・・・! )
「逃がさねぇよ・・・?」
「・・・・・っ。」
シオンが、ゆっくりと眼を見開く。
顎を取られたまま
「あんなの、見せられて・・・」
至近距離、怖いくらい、見開いたクロウの赤い眼がまっすぐと射貫く。
「オレが・・っ!どれ、だけ・・・」
だけど、一瞬だけ、泣きそうに、歪んで
「息が、とまる・・・。」
強く、抱き締められる。
小さく、今度はクロウが震えていた。
「―――・・・っ」
「逃がさない。」
「・・・・・。」
「絶対、離さないから。」
「・・・・・。」
冷えてしまった、シオンのその指先と掌がクロウの頬を包む。
気付けばとまっていた彼女の涙が、だけど、今度は、相手の方がぽろぽろと静かに零していて
「ばかか、お前は・・・」
さっきみたいに、額をくっつけて
「泣くな、ばか・・・。」
「・・・泣いてないし。」
「馬鹿だろ・・・。」
「お互い様じゃん。」
そう言って鼻をすすったクロウに、小さく笑ったシオンの顔には
さっきまでの暗鬱とした眼も
絶望を象ったような表情も
全部全部消えていて
「・・・・・。」
「・・・・・。」
シャワーの音だけが、静かに二人を包んでいるから。
「・・・冷えちゃったね。」
「そう、だな・・・。」
再び
二人に注ぐようにと、向きを変えた流水の下で
もう少しだけ、と埋め合う様に、抱き合っていた。
白く、波打つシーツの中で、ようやく血色の戻ったシオンが、滾々と眠る。
少しだけ、泣きはらしたように晴れぼったい瞼と、その目元を
親指でそっと撫でながら、クロウが飽きることなく眺めていた。
なめらかな曲線の頬に
膨らんだ唇に
僅かに振れる程度の指を這わせて、
このまま―――このまま奪ってしまいたい衝動、と、戦いながら。
生ぬるく、つかる幸福と
シオンが突き付けられた、絶望の上積みを、暗鬱とした眼で掬いながら
行き場のない怒りと激情を、どこへぶつければいいのかと、
燻る胸の内を、必死で抑え込みながら。
この後に待つ建国際に
何も起こりえないで済む、保証はかけらもなくて
その時、自分はシオンの傍にいられるのだろうかと
どうしようもない不安に駆られることが多くなった。
考える以上に、彼女は、混沌の中心にいて
すべての出来事の根本につながるように、
きっかけを引く引き金の様に
その、どうしようもない存在感を主張している。
できるならどこかに閉じ込めて隠して、ただ、自分だけが触れて抱きしめて、キスができる距離に置いておきたいのに。
世界はどうしても彼女を好いて、腕を引き、放っておいてはくれない。
なのに、どうしても。
自分は
彼女のすべてが欲しいから
「・・・・・。」
0か100かを求めるのは多分、欲張りなのはわかっている。
シオンの気持ちが80くらいこちらに向いているのをなんとなく感じている。
だから、それがすごく足りないと感じてしまう。
自身の業の深さが、この後の仇にならなければいいとだけは
至極願ってしまうけれど
どうせ叶わないなら、
全て壊れてしまえと
激情に駆られそうになるんて―――・・・。
「オレ・・・、そんなに、独占欲、強かった記憶、ないんだけど・・・。」
独り言のように
その頬を撫でて
吐息がかかる距離で眺めて
「・・・・・。」
嗚呼、ゼロになりたい欲求が強い。
せめて体温だけは。
抱き締めて
強く抱き占めて。
クロウは、自身に『満たされている』事を刷り込む様に、眼を閉じた。




