委員長
結論から言うと、南京錠は買えなかった。理由は簡単、今日も今日とて登校日だからである。
案の定、この寮の治安はスラム街以下。早朝からガチャガチャとノブを回す誰かとドア越しに格闘していたため、朝からくたくたに疲れ切ってしまった。下手人は仕事があるのであろう、意外と早くあきらめてくれたが、こちらはそこから学校への準備スタートである。
手早く髪を整え、服を着替えながらため息をこぼす。
私は常日頃から、コーヒーを飲みながら朝刊を読み物思いに沈むという朝の日課を大切にしていた。次第に温む日の光を浴びながら自分の体の覚醒をゆっくりと待つことで、日中も明晰な思考を保つことができるという私なりのジンクスだ。しかし、この忌々しい牢獄では優雅な朝支度も許されそうにないようだった。
一応授業中に何かされることはないとは思うが、ドアの間に目立たぬよう紙切れを挟み侵入者の有無を確認できるようにしておいた。常識外れの利己主義者相手にどこまで通常の防犯対策が機能するかは疑問の余地が残るが、致し方ない。今は間に合うかどうかのほうが大切だ。
全力で寮を走り出たのち、正面玄関に入ったところで足を緩める。ほぼすべての生徒が登校時間よりはるか前に到着しているようで人気はないけれど、罰則があるとまずい。できうる限りの早歩きですたすたと下駄箱を過ぎようとしたところで、そこに立ちすくむ人影、禅洲千尋が見えた。
「ごきげんよう!どうかなされましたか?」
困っている人を放置するのは主義に反するため、一応声をかけてみる。千尋はびくりとその身をすくませ、私を振り返るとほっと表情が緩んだ。
「面平さん……。ごめんなさい、どうってことないんです。ただ、その……」
下駄箱の中には、びしょびしょに濡れた靴が一足入っていた。昨日、今日と快晴のため、自然現象とは考えにくい。人為的な通り雨に振られてしまったようだ。
ひとまず来客用のスリッパを持ってくる。
「これで良し。あと、そんなにかしこまらずともいいんですよ。私とあなたは同級生で友達なんですから、どうぞ名前で呼んでください」
「き、きららさん。そんな、友達だなんて……」
千尋は顔をほおずきのように赤らめ、熱のこもった視線を向けてくる。まるで恥じらう乙女のような反応に、彼女もまたれっきとしたお嬢様なのだということを実感する。
言葉をつづけようとする彼女の手を取り急ぎ足で歩き出す。
「急ぎましょう!遅刻すると何を言われたものかわかりません」
ほっそりとした手は、案外強い力で私の手をつかみ返した。指と指が絡み、いわゆる恋人つなぎの形になる。その指は教室に入ってもほどかれることはなく、仕方なく千尋の席まで彼女を誘導すると名残惜しそうにやっと離された。自分の席に着いた時には、刺し貫くような教室中の視線の雨。
(随分と人気者になってしまったようで、困るな……)
八津子が何か言いたげにしていたが、直後に教師が入室してきたため口惜しそうに黙ってしまった。
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今日は一限目からホームルーム。新学期が始まって間もない季節のため、委員会を決める重要なものとなっている。図書委員、風紀委員、環境整備委員……。どれが一番仕事が少ないだろうかなどと夢想しながら、教師が黒板に書き連ねる委員会の名前を眺める。
「ではいつも通り、まず委員長から決めていきたいと思います。立候……」
「はいっ!!」
まだ教師の言葉も終わらぬうちに、八津子の天まで届かそうというような挙手が空を切った。周りの者も軽く拍手をしながらそれに応じ、いかにも本決まりという空気である。
(そういうのが好きそうなくちだからなぁ……。まあ、頑張って!)
他人事を決め込もうとした私の耳に、意外な声が聞こえてきた。
「あの、すみません、先生……。私……」
「どうかなさいましたか、禅洲さん?」
おずおずと手を挙げ、消え入りそうなか細い声をあげる千尋に教師は少々驚きを見せている。普段こんな風に自己主張をすることは少ないのであろう。生徒たちもみな、千尋のほうを振り返り目を丸くしていた。
まさか委員長に立候補する?私も信じられず、思わず千尋を見つめる。顔を赤らめ、言葉に詰まっている風だった彼女は、私と目が合ったとたん覚悟を決めた様に前へ向き直った。
「私は、きららさんを委員長へ推薦いたします!」
ざわり、と教室中が騒々しいさざめきに包まれる。千尋から私へと引き渡された騒動のバトンは、さながら赤熱するダイナマイトのように感じられた。
いや、教師は最初に立候補って言っていただろう、というか私に相談もしないで勝手に推薦はあんまりじゃないか?あちこちから飛んでくる視線に辟易しつつ、千尋の思い付きへ突っ込みを入れまくる。八津子方向から飛来する、今にも呪い殺さんばかりの殺気。君の相手は私じゃなくて、千尋だって!
「きららさん、きららさん……。ああ、転入生の方ね!でもこの学院に慣れていない方にとっては、責任の重い役職は難しいのではありませんか?」
まったくもってその通りである。おそらく千尋は自分をいじめてくる八津子が権力を持つことを恐れているのだろうが、白羽の矢を立てる相手が悪すぎる。教師のありがたい助け舟に安堵し胸をなでおろそうとしたものの、千尋はまだあきらめていないらしかった。
「先生、学院への慣れは現状の体制への無批判な思考につながります。外の経験を知る方がトップに立つことによって、今まで見過ごされてきた様々なことを見つめなおすよい機会になると思います!」
「禅洲さん。それはいったいどういう意味で……」
教師の言葉は、突然うつむいてしまった千尋を見て止まる。ポロリ、ポロリと涙がこぼれおち、凍えた子犬のようにその身を震わす彼女は、しゃくりあげながら悲痛そうに言葉を絞り出した。
「先生……。私、いじめられているんです。入学以来ずっと、家柄がどうの、成績だけは優秀で目障りだとか、勝手な理由でたくさん傷つけられてきました。言葉だけじゃないんです!特に八津子さんからは本当にひどくって、今日は大切な内履きをずぶぬれにされてしまったんです。お疑いになるなら玄関まで見にいらっしゃってください!」
教師は千尋のスリッパを見て、少し顔をしかめてから八津子に向き直った。八津子は青天の霹靂のような顔をしている。
「知りません!先生、私本当に知らないんです!」
「そうですね、しらばっくれることなんて小学生にも可能です!でもこの教室に、八津子さんのいじめを知らない人がいるんですか?みんなみんな、空気を読んでみないふりをしてきた。きららさんが転入してきたとき私、思ったんです。この人もきっと同じだろうって。でも彼女は他の人と違って私を見捨てなかった。まるで王子様のように私をかばって、優しい言葉をかけてくれました。こんなに人の痛みがわかる人なら、委員長になってこの学院の悪い伝統を変えることができます。だから私は、面平きららさんを推薦したいんです!」
学院の伝統を変えるなどと、委員長に課された仕事を軽く超過した絵空事を公約に勝手に掲げられた私は、開いた口が塞がらない。言葉を失っているうちに、教師はこの面倒ごとの責任を放棄する方法を思いついたようだった。
「それでは皆さん。右財さんと面平さんのどちらが委員長に値するか、投票によって決めることにいたしましょう。今日いきなりではなんですから、来週この時間に改めて委員長への意気込みを二人に語ってもらいます。それから、完全無記名投票で公正に選挙をする。これでいいですか?」
教室の面々は薄い笑みともに賛成の声をあげる。当然だ、右財はとっくにこの教室に支持基盤を築いているのだから負けるはずはない。教師も気づいていないわけはないので、これは全くの出来レースといってよかった。
(やれやれ……)
降ってわいた厄介ごとにため息をつきつつ千尋のほうを見やると、先ほどまでの号泣を嘘のように引っ込めて彼女は……
罠にかかった獲物を見る狩人のごとく、唇をゆがめ嗤っていた。