プロローグ
「私立ヤンデレイル女学院」
重厚な門扉の上に高らかに刻まれたこの学院の名を、わたしはつくづく眺め入る。見回せばどこまでも続く高い塀が続き、花壇の縁取りで飾られてもなお、この聖域を守る堅い封印が感じられた。このうちに育つ美しい乙女たちは、やがて禁じられた恋に目覚めるとか、目覚めないとか。
自らが今日から所属するという事実を棚に上げながら、ありもしない想像を巡らせ時間を潰す。美しい太陽に照らされた校舎は、物語から出てきたかのような非現実性を帯びて輝いていた。門は12時ちょうどに開く手筈と聞いている。しかしながら、必ず約束より少し前に着くのが自分の性分なのだ。持て余してしまった暇を夢想に使うのも、転入生の自由というものである。
その時、ガラガラと大きな音を立てて校門が開く。その向こうには桃色の髪を靡かせたたおやかな女性が一人立ち、自動式のそれが動き切るのを優雅に待っていた。校舎を見上げ暢気に物思いに耽る私を見つけると、彼女はその瀟洒な顔を少し綻ばせる。
「初めまして、面平きららさん。わたくし、この学院の生徒会長を務めております諸伏愛と申します。お目にかかれて嬉しいですわ!」
予想を裏切らぬ小説のようなお嬢様に転入早々出会うこととなり、驚きと好奇心を隠すのに苦労した。日除けに被ったポーラーハットを少し持ち上げ、会釈を返す。
「お初にお目にかかります、諸伏さん。私のような凡百がこの優れた学舎で学問を修められることを大変嬉しく思いますよ。今日からお世話をかけますが、何か粗相があれば遠慮なくご指導願います」
「まあ、そう緊張なさらないで?そんなに厳しい戒律はありませんの。きっとすぐに馴染んでいただけますわ。それと……」
彼女はこちらに近づき、顔を寄せた。
「凡庸だなんて、謙遜はよしてくださいな。こんなにも可愛らしい人をわたくしはみたこともありません。蕾のような唇に利発に輝く大きな瞳。そしてこの濡羽色の艶やかな御髪まで……。腕の良い職人が丹念に手作りしたお人形さんのようですわ!」
そう言いながら彼女は髪に手を滑らせよしよしと頭を撫でてくる。一般的な身長の彼女でも私の頭は目線より下にあるので、低く撫でやすいのであろう。子供扱いにはなれているが、さすがにしつこいので軽くいなすこととした。
「あまり褒められると照れてしまいます。会長さんの方こそ、花に例えればそれを恥じて、例えられた花の方こそ萎れそうなほどにお美しくていらっしゃる。ところで立ち話もなんですし、そろそろ目的地に向かいませんか?」
愛は、染まった頬に手を当てて溶け落ちそうなほどの笑みを湛えた。
「あらあら、とっても熱烈な言葉をありがとう!だけれど、会長さんなんて他人行儀はおよしになって?どうぞお姉様と呼んでくださいな」
先へ進もうと目配せする私を無視するかの如く、愛は一向にその場を動かない。これは、言わないと終わらないのか?
「お姉様……。それでは参りましょうか」
愛は初対面の私に、溺愛するぬいぐるみを見つめるかの如く視線を向けてくる。道々の庭園に生える植物や天気の世間話でお茶を濁しつつ、私は失礼なことに彼女へのちょっとした抵抗感をどうすることもできなかった。
〜〜〜〜
昼休みの間に転入に関する手続きを終え、教師の案内のもと所属する教室へと向かった。どうやら昼礼と私の紹介を兼ねて行うらしい。愛は手続きの間中執拗に私のそばに座っては体を寄せてくるし、何かしようとするとそれを奪い取るようにして先に片付けてしまうなど、猫可愛がりがすぎる。少々疲れてしまった私は、自己紹介の捻り方を考えるまもなく教室につき、当たり障りのない挨拶ののち席に着いた。
さすがは由緒正しき女学校、生徒たちはみなあつらえたようにピシリと姿勢を正して座っている。私も真似をしてみるがどうにも女の子らしい淑やかな雰囲気が落ち着かず、少々足を崩してしまった。
そこら辺がお気に召さなかったのであろう、女の園と化した放課後に、数人の女生徒に呼び止められることとなった。
「きららさん……でしたかしら。今お時間よろしくって?」
「あいすみません、よろしくないので帰ります」
疑問形で聞くということは断れるということだ。そう拡大解釈することとして足早に教室を出ようとするも、それを阻まれた。何人かの取り巻きがニヤニヤと出口を塞ぎ、こそこそ囁き合う声が聞こえる。
「頭の悪い方にはご理解いただけなかったのかしら。話があるという意味ですのよ、お分かり?随分とはしたない方が伝統ある『ヤンデレイル女学院』の名を汚したものですわねぇ!」
グループの首魁と思しき人物が声を荒げる。言葉遣いの美しさも本人の品格がともなわなければこんなものか、と私は思った。
「何をぼんやりなさっているのかしら、何か言いたいことでもございまして?」
「いえ、言葉遣いの美しさも本人の品格がともなわなければこんなものか、と思っただけですよ。」
首魁は茹蛸のように赤くなり、捲し立て始めた。
「あら、あらあらあら皆さんお聞きなさいました?ど田舎から出てきたばかりの芋娘がよりにもよって、この右財八津子に向かってどんな口の聞き方をなさっているのかしら?」
「聞き取れなかったならもう一度言いましょうか?」
右財は今にも爆発寸前の風船みたくパンパンに膨れ上がっている。取り巻きも皆そばに集まり、田舎のヤンキーが如く斜に私を睨み始めた。
「教育の行き届かない人とはどうにも話があいませんわぁ。禅洲さん、あなた成績だけはいいんだから、このお馬鹿さんに絵本でも読み聞かせなさったら?」
取り巻きどものくすくす笑いはもはや取り繕うしまもないほどの嘲笑に変わっている。さざめく悪意の向かう先には、その身を机に押し込めようとしているのかと思うほどに小さく縮こまった女生徒が見えた。
どんなに背を丸めようと恵まれた上背を隠すこともできず、彼女は可哀想なくらいに震えていた。そばへ歩み寄ると、深緑の髪に隠れ俯くかんばせから知性ある美しさを感じさせる。ありていに言うなら淑女の蕾のようなものか?ドイツ語と思しき言語で書かれた詩集を守るかの如く手で隠している。
「光栄です。このように騒々しい学びやで、あなたのような知的な女性に教えを乞えるだなんて!」
「誰が騒々しいですって!?」
後ろから罵声が飛ぶ。もうそれは返事をしたようなものだろう。
「さてね、窓辺の小鳥かな?」
右財がいよいよいきり立ち、飛びかからんばかりに身を乗り出してきたその時、校内放送がなった。
『2年B組、面平きらりさん。生徒会長がお呼びですので、至急正面玄関までお越しください』
諸伏愛の声である。自分で言っておいて生徒会長も何もないではないか。しかも正面玄関でなんの用事があろう、おおかたお気に入りの転入生と一緒に帰りたいだのわがままを言いたいだけだろう。この放送はありがたく使わせてもらうが、無論行く気などない。右財達は明らかに生徒会長の肩書きに動揺し、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。
「それではまた明日。素敵な友人を紹介してもらえたようで、嬉しい限りです。すでにお聞きでしょうが、面平きららと申します。お見知り置きを」
差し出した右手を、件の少女はおずおずと握り返した。
「禅洲千尋、です……。あの、ごめんなさい。助けてくれなくても、わたし、大丈夫ですので……」
「なんのことやら、これからもよろしくお願いしますよ!それでは」
立ち上がり、足早にその場を立ち去る。早くしなければ愛に居場所を嗅ぎつけられてしまうだろう。
去り際にチラリと見えた千尋の顔は、地獄に輝く糸を見つけたかの如く仄暗い光が灯っていた。
〜〜〜〜
裏口を出る頃には日は翳り、つたの生い茂る小道に闇が生まれ始めていた。見知らぬ土地で、案内もなしに歩くのは無謀だったかな?愛の誘いは受けたほうがよかったかもと思いつつ、私は歩みを進めていた。電灯もまばらな中にポツリと、ベンチに座る人影が一つ。それは近づくにつれ、幼さを感じさせる少女のものだとわかってきた。
彼女は茫と上を見つめ、身動きひとつしない。星を見ているのかな?そばに来た時ふと上を見上げてみるも、一番星はまだ昇っていなかった。そのとき。
「お兄ちゃんっ!」
横から勢いよく少女がぶつかってきた。思わず尻餅をついて抱き止める。
「お兄ちゃん、やっと会えたのね!奈々、嬉しい。私がわかる?あなたの薔薇だよ、ずっとずっと待ってたの!」
「君とは初対面だし、私は女性なんだが……?」
なんのことやらわからない。目を白黒させている間も、彼女は休まず捲し立てる
「いいえ、あなたはお兄ちゃん。遠いところに離れ離れになっていても、二人の絆は誰にも引き裂けないわ!どんな時でも奈々を助けにきてくれる……。運命の人なの!」
話が通じているように思えず困惑する。彼女は私を固く抱きしめ、もう離さないとばかりに頬擦りをした。空色の髪にころりとした丸い髪留めをつけている。幼子のように縋り付く彼女を引き剥がし、なんとか面と面を向かい合わせる。
「どうしたのかわからないけど、私は君の兄ではないよ。面平きららというんだ、君の苗字と違うんじゃないか?」
少女は親から突き放されたように悲しげな顔をすると、しくしく泣き出した。
「違います、絶対お兄ちゃんなんです。きっと忘れてるんだ……何か、悪い何かのせいで……」
ぶつぶつ呟きながら俯く彼女を持て余していると、後ろから声がかけられた。
「星原奈々さん。きららさんがお困りですわ、どいて差し上げて。」
低く、有無を言わせぬ口調で諸伏愛が命令すると、奈々はゆっくりその場に立ち上がった。燃えるような目つきで愛を睨んでいる。
「ごめんなさいまし、きららさん。この子は少し……変わった感性の子なんですの。あなたとはひとつ下の学年で関わりもありませんし、今後このようなことのないよう強く言いつけておきます」
奈々は愛に渾身の憎悪のこもった一睨みをくれたのち、踵を返して走り去ってしまった。
「謝罪もないなんて、躾がなってない生徒もいたものですわ。また少々報告が必要……と」
躾、報告といった言葉をこともなげに並べる愛は、初めて会った際の淑やかな乙女とはおよそ別人だ。こんなことを聞えよがしに呟く必要もないであろう。そばにいる私にも権力を誇示したいという思惑が透けて見える。
「自由な交流こそ学生生活の醍醐味ですよ。私は何も気にしていないので、奈々さんへのお咎めはよしてください」
愛は街灯に照らされながら、歪んだ満面の笑みを浮かべる。
「ずいぶんと気の多い方ねぇ、きららさん!優しくする相手は選ばなければ、トラブルの元ですのよ?」
宥めるように、彼女は一つしかない選択肢を押し付けてくる。見下ろすように立たれると、電灯の明かりを隠す彼女の影に私はすっぽりとはまり込んでしまった。
しかし、君がとらえたと思っているものは少々手に余る天邪鬼なようだよ?
「公平であることは人としての義務ですからね。そして何より、物事にはいつも隠された原因があるものです。彼女がああいうふうに振る舞うほかない理由を抱えているのなら、解決の手助けをするのが学校という組織の仕事なのでは?一度失敗した方法をより強く繰り返すよりも、その人の求めるところを私は知りたいんですよ」
愛は、かたい笑みをとどめたまま数秒沈黙した後こう言った。
「素敵な講釈をどうもありがとうございます。生徒会長を長年勤め上げているわたくしには到底思いもつかない発想でしたわ?ただ、あなたは一般生徒なのだから、難しいことはわたくしに任せてただ学園生活を送るだけでいいの。何も考えずに、ね……」
彼女は言い終えると、普段の微笑みを取り戻して道の先を手でさした。
「もうずいぶんと暗くなってしまいましたし、寮まで送っていって差し上げましょう」
私達は寮までの道すがら何も言葉を交わすことはなかった。だというのにあいの視線はより熱烈なものへと変わり、猛禽に睨まれ続けるような心地が心底不快だった。ようやく私に割り当てられた部屋まで辿り着き、ほっとため息をつく。
「会ちょ、いや、お姉様でしたかね?今日はどうもありがとうございました。では私はこれにて……」
受け取った自室の鍵をポケットから取り出そうとすると、愛はそれより先に懐からじゃらじゃらした鍵束を取り出してその一つで扉を開けてしまった。
「生徒会長は寮長も兼ねることになっていますの。鍵を無くしてしまったらいつでも頼ってくださいまし?あなたの部屋の合鍵も、しっかりわたくしが管理しておりますわ」
彼女はネズミをいたぶる意地悪な猫のように目を細める。学園の中は残らず全て、彼女の檻も同然であるようだった。
明日南京錠を買ってこよう。私は固く心に決めた。