1-7
雨に濡れていた喪服はすっかりと乾いた。
「――」
水を打ったような静けさに包まれる待合室。張り詰めた空気の向こうからコツリ、コツリと聞こえてきた靴の音は一人分だが、しかし現れた人影は二つだった。簡素な固い椅子に座っていたあおは立ち上がる。
「ピンク、優衣さん。おかえりなさい」
消灯されて暗闇に沈んだ入り口に桃香と優衣がやって来る。喪服の黒は輪郭を溶かしてほとんど闇と同化し、透けた身体は向こう側の暗闇を見せた。
三人も優衣の近くにいるのは目立つからと、桃香に故人を任せてあおと季黄は病院の入り口で時間まで待機していた。待っているあいだ季黄はこくりこくりと船を漕いでいたが、あおはやはり起こすことはしなかった。今日は平日なので朝から学校に行き、そしてそのまま夕方に出勤しての今だ。椅子に座ったままの季黄は、まだ眠たそうに大きなあくびを落とす。
また泣いたのだろう、桃香はサングラスを外して指で目の縁を拭う。
「青、お待たせしてすみません」
「……わがままを言ってすみませんでした」
深々と頭を下げる優衣にあおは首を振る。
「いえ。……大丈夫、ですか」
「はい。お別れは、ちゃんと済ませてきたので」
眉を下げ、目尻を下げて優衣は微笑む。その姿を見て、桃香がまた涙ぐんだ。震える声が静謐な院内にぽつりと落ちる。
「……優衣さん、本当にいいんですか?」
「はい、大丈夫です。気にかけて下さってありがとうございます」
気丈に笑う優衣に桃香はぐっと力を込めて目蓋を閉じ、溢れだそうとする感情を我慢するようにサングラスをかけた。
「——では事務所へ向かいましょうか」
まだ座ってぼんやりとしている季黄を立たせ、あおは全員の歩を促して先導するように前を行く。来る時に差していた傘を左手に取り、右手で特殊警棒を振って本体を伸ばした。
「えー、また雨降ってるじゃん」
病院の外へ出ると、すっかり夜の帳が降りた世界にしとしとと雨が落ちていた。夕方ここに来た時に比べればささやかな雨だが、傘を差さずにいれば確実に濡れるだろう。季黄の嫌がる声を背後に聞きながら、あおは片手で傘を開き夜の雨の下へ足を踏みだす。
「……優衣さん、これはわたしの勝手な憶測なんですけど」
「はい?」
「以前も何か、命に関わるようなことがあった、んでしょうか? 桁さんや、それからあとから来られたご両親も、みなさんの反応の強さと言いますか……もちろん、大切な人が亡くなった悲しみは他人には計り知れないものなんですが……」
「……分かるんですね」
桃香の言葉に優衣は一瞬息を飲み、それからゆるやかな吐息とともに困ったような微笑を浮かべる。
二車線の道路、ヘッドライトとテールランプが夜の雨を切り裂いて通りすぎていく。道路沿いを少し歩いてから、あおたちは人通りの少ない横道へと逸れた。変わらずゆるく降り続ける雨が差した傘たちを打つ。
「――死んでしまったのは仕方がないって、みんな分かってるんです。病気が見つかった時点で余命宣告されていましたし。でもね、私ね、」
優衣が虚ろに笑う。しとやかな雨に散っていきそうに、夜の空気に溶けていきそうに、ゆらりと。
「今回は本当に死にましたけど、前にも事故で死にかけたことがあるんです。二十四の時にトラックと正面からぶつかって、そのまま一年、頭を強く打っていたから意識が戻らず眠り続けました」
さらさらと響く降雨の音と同化し、優衣の静かな声は空間に降り落ちる。ぽたり、ぽたり、一音ずつが感情を伴っていて胸が軋む。
「彼……和幸くんも、同じ車に乗っていたから事故で大怪我をしました。でも和幸くんの怪我が治っても私は目覚めなくて、彼はずっと待っていてくれたそうです。もちろん両親もそうではあったんですけど、でも和幸くんは本当に、献身的に根気よく待ち続けてくれた」
優衣の話に耳を傾けながら、あおは周囲に気を配って警戒した。死んでから時間が経つほど魂を喰らうものは故人のことを知覚しやすくなる。優衣が亡くなった夕方の時点で連れていっていればリスクは最小限だったが、まあそれは仕方がない。それに今日は桃香がいるのでかなり心強い状況ではある。
「眠っているあいだの記憶はありませんけど、でもずっと……あったかいというか、安心するというか、そんな感じがあったなって思うんです。自分的には、ちょっと居眠りをしててふと起きる感じに近かったんですけど。ふいに目を開けて、その時はもちろん分からなかったけど、私が一年ぶりに見た最初の景色は和幸くんのぐちゃぐちゃな泣き顔でした」
その瞬間を思い出してか、優衣はくふくふと嬉しそうに笑んだ。優衣の頬にくるりとえくぼが浮かぶ。優衣は今日会ってから悲しそうに微笑むばかりで、本当に笑ったのは今が初めてだったんだなと今更ながら気がついた。
「起きてからも和幸くんはずっと支えてくれて、そばにいてくれました。少しずつ眠っていたあいだの時間を取り戻していたはずだったんですけど……まさか病気になるなんて、自分が一番驚きました」
背後を歩く桃香はまた泣いているようで、ぐすぐすと鼻を啜る音が盛大に静寂を破る。もう一つ聞こえた場違いなあくびは意識的に聞き流した。
付き合っている人がいる分、桃香は殊更に深く、その機微が間近に感じられるのだろう。桃香の恋人は何度か見かけたことがあるが、穏やかで優しそうな雰囲気の男性で、纏う空気感がどことなく桃香本人に似ていた。
「……現実は手厳しいですね。一度生還したのに、こんなにも早く死んでしまうなんて一ミリも思ってませんでした」
話したことで落ち着いたのか、存外とすっきりした顔で優衣は両腕を伸ばした。しとしとと降り落ちる雨が優衣を濡らすことはなく、空の涙はぱたぱたとそのまま地面に落ちる。目には見えない境界は確かにそこに在り、あおたちの世界と優衣の世界は明確に異なった。
世界は無常だ。あおは今まで色んな故人と出会ってきたが、やはり多くの人は訪れた死ではなく訪れるはずだった生を願った。無条件に信じていた、この先も続くはずだった人生。こんなにも呆気なく終わるんだねと、一体何人の故人が微苦笑を浮かべていたか。
それでもこれが現実だった。どんなに無情でも起こってしまったことは仕方がなく、何をどうしたって死は生に戻れない。
「――うう、優衣さん……! 何も力になれず、ごめんなさい……!」
あおたち死神はただの姿が視えるだけで、ただ話ができるだけで、故人たちを生き返らせてあげることはできなかった。
「え、あ、そんな謝らないで下さい……! それより私、死神さんたちに聞きたいことがあって……」
「っ、何でしょう! わたしたちに答えられることでしたら何でも!」
サングラスを外してぐしぐしと涙を拭った桃香がキリッとした表情で優衣を見る。
「魂は巡ると、今日会った時にピンクさんは言いました。死神さんたちは、巡った魂の行き先って分かったりするんですか?」
思わず桃香と顔を合わせる。せっかく拭いた涙がまたじわりと瞳を濡らし、桃香はそれを隠すようにサングラスをかけ直した。
「……ごめんなさい、分からないんです」
「私たちは、あくまで魂をこの世界から送りだすだけなんです。視えるのは今の魂のお姿のみで、それが以前誰だったのかも、これから何になるのかも、知ることはできなくて……」
「あー、やっぱりそうですよね」
予想はしていたと言わんばかりに優衣が眉毛を下げる。でもその中にほんの少し、ちょっぴり、期待が混ざっていたことも読み取れた。
「……じゃあこれは、死神さんじゃなく個人的なお答えが聞きたいんですけど」
「? はい」
「輪廻転生した魂が、いつか再び巡り会うことはあると思いますか?」
さらさらと降雨の音が空間を満たす。空はずっと泣き続けていて、でもその雲の上には幾星霜も昔の星々が晴れの日と変わらずに生を輝かせている。見えなくても、視えなくても、それはそこに存在している。それを、あおたちは知っていた。
「えー、そんなの会えたとしても絶対分かんないで」
「巡り会えればいいなと、私は思います」
無粋なことをこぼそうとした季黄の言を遮る。眠たいからか静かに大人しくしているなと思っていたのに油断ならない。
「わたしはっ、会えると思います! きっと! さよならをした誰かや何かにまた会うために、だから魂は旅を続けているんだと思うんです!」
桃香の力のこもった声が夜と雨に沈んだ住宅街に響き渡る。木霊して走った語尾に「あ」と桃香は口を押さえ、優衣はそんな姿を見てまたえくぼを浮かべた。
「ありがとうござい――」
「ピンク」
あおは眉を寄せ、優衣のすぐそばに並ぶ。先の十字路からゆらりと現れた魂を喰らうものは夜に紛れながら、時折輪郭を崩しながら揺らめいて手を伸ばした。
「優衣さん下がって。黄色、後ろも警戒」
「ほーい」
優衣を背中にかばってあおは一歩下がる。
「――故人たちの邪魔を」
低い声が鼓膜を引っ掻き、あおと優衣の横を桃香が駆け抜けていく。手放された傘がふわりと空を漂って、ころりと地面に転がり落ちた。
「しないでもらえますか!」
アスファルトに薄く溜まった雨をばしゃりと踏みつけ、桃香は上着の下からすらりと警棒を取りだす。走って通りすぎた電灯の明かりに、黒いフォルムが一瞬浮かび上がった。
桃香の警棒はあおとも季黄とも違い、取っ手付き警棒――所謂トンファー型だ。攻撃にも防御にも優れる持ち手のついた二対の棍を、桃香は器用に扱った。
「あ、あの、大丈夫なんですか……?」
「大丈夫ですよ。ああ見えて強いんです、ピンクは。下手に加勢するよりも一人のほうが早く片づきます」
黒い靄で形作られる手が拳を固め、雨と空間を裂いて桃香に向かうのが住宅街から漏れる明かりで見える。自分に迫る拳を桃香は走る勢いを落とさないまま左のトンファーで受け、手の中で持ち手をくるりと回転させて靄の腕を殴り散らした。すかさず伸びてきた手は身を屈めて躱し、そして桃香は右手のトンファーを振り上げて魂を喰らうものの懐に飛び込む。
一瞬、桃香の背中に明確な殺意が膨れ上がった。
キン、と、金属が軋むような音が夜の住宅街に響き渡った。
それは核を捉えた音。逃げの一手のあおはほとんど聞くことのない音。
「……もう終わりましたよ、優衣さん」
「ピンクつよつよじゃん、やば」
桃香が投げ捨てた傘を拾って止めていた足を進める。向かう道の先、桃香が佇む周囲には魂を喰らうものだった黒い靄が立ち込めていたが、やがてそれらの残滓は雨に洗い流されるようにじわりじわりと空間に溶けて消え去った。
桃香は死神の中でもよく視える人間で、魂を喰らうものの核を一発で捉えることができた。その目の良さとそれを生かすための迅速な立ち回り方が、故人の安全を最大限保証する。核を一発で叩ける死神は全国的に見ても少なく、だからこそ桃香の愚直とも取られる行動は許されているところがあった。
「ピンク」
「おつー」
「……青、黄色」
一瞬覚えた殺意は既に霧散しており、雨に濡れて額にぺたりと張りついた前髪が桃香を実年齢よりも幼く見せる。傘を差しだすと、桃香は上着の下に仕込んだホルダーにトンファーを仕舞ってから「ありがとう」といつものように控えめに笑んだ。
「ピンクびしょびしょじゃん」
「だね、仕方がない。事務所に戻ったら着替えるよ。……優衣さん」
淡いピンクのサングラスの向こうで、桃香はやわく目尻をゆるめた。
「お待たせしました、行きましょう」
「――はい」
やむことなく雨は降り続けていた。さらさらと落ちる降雨の音は変わらず耳朶に触れ続けているが、あおたちは雨に濡れて夜に彩られた旅路を進む。
「……私、お迎えに来てくれたのがピンクさんで本当によかったです」
「え……」
桃香のやり方は愚直だと揶揄され、実際にあおもそこまでやらなくてもいいだろうにと思ってしまう。時間も、手間も、リスクも、何も厭わない立ち回り方は自分自身の心でさえ犠牲になりかねないが、それでも桃香は故人や遺族に寄り添うことをやめない。
祈りを捧げるように、冥福を願うように、旅路の武運を念じるように。
「っ、うー……優衣さん……!」
山根桃香は、どこまでも優しい死神だった。




