1-6
(四)
急いでビルから飛びだすと篠突く雨が降り注いでいた。事務所を出る時に引っ掴んできた傘を雑に広げ、そのまま跳ねる雫に裾を濡らしながら雨の中を駆け抜ける。
「やだー濡れるー」
「梅雨なんだから仕方がないよ、それより急いで!」
ぐずつく季黄を追い立てる。雨を嫌がる季黄はそれでも足取りが重く、あおは仕方がないから彼女の腕を掴んで無理やり走った。
「ねー意味分かんないだけど何? こんな急いでどこ行くの?」
「稲見病院。冬子が言ってたでしょ」
「それが分かんなーい。桃ちゃんが迎えに行ってるんでしょ? じゃーそれでいいじゃん」
「……それでよくないから私たちも行くんだよ」
ぼそりとした落とした声は季黄には聞こえなかったようで、いつまでも後ろでぐちぐちと文句を言っていた。目的地である稲見病院に着くまでずっと。
死者に関係がある以上、死神が病院を訪れることは多い。すっかり顔馴染みになっている受付に軽く頭を下げて通りすぎ、あおと季黄は冬子から聞いた四階へと進む。ナースステーションの前も同様に通過し、辿り着いたのは一つの病室。扉の前に立つだけで視界の隅で燻っていた光の残滓が強く煌めきだし、故人が確実に中に存在していることを教えてくれる。
四◯三号室、小林優衣。ネームプレートに記された名前はその一つきりだった。
「……」
「? なあに?」
扉を開ける前にちらりと季黄に目をやると、きょとんと首をかしげられる。
季黄を連れてきてよかったのか、正直微妙なところだ。というか季黄に限らず、見習いの死神に見せるべきではないのかもしれない。桃香が指導する未取が今日はお休みなのは幸なのか不幸なのか。
「……余計なこと言っちゃダメだからね、季黄ちゃん」
「だから何が?」
話すよりも現状を目にしたほうが早い。あおは呼吸を整え、覚悟して病室の扉をスライドさせる。
「失礼します。死神協会一色支部から参り――」
病室を見回したあおは、しかし取り繕った覚悟が剥がれ落ちそうになって言葉を止める。隣の季黄が小さく「わあ……」と声を漏らした。
向けた視線の先で三つの双眸がこちらを見る。彼女が小林優衣だろう、透けた身体の故人は困ったように眉を下げ、泣き崩れている男性は恨めしそうにあおと季黄を睨み、そしてわんわんと号泣しているのは桃香だ。一体誰が故人で誰が遺族で誰が死神なのか。残念ながら想定通りの状況を嘆息一つで飲み込む。
「……死神、青です」
「同じく、黄色でーす……?」
三人の視線が刺さり、ちくちくと痛覚が騒いで肌がざわめく。ぼろぼろと涙をこぼす男性はあおと目が合うとはっとし、ベッドに寝かされている亡骸を必死な形相で掻き抱いた。
「嫌だ、俺は優衣と離れたくない!」
身体の持ち主である女性はやはり困ったように佇んでいて、どうすればいいのかと男性と桃香とあおと季黄を見比べて頭を下げる。
「す、すみません……」
そして桃香は遺族だろう男性に負けないほどの大粒の涙を流しており、既に化粧が落ちてしまっている。くしゃりと歪めた顔で、あおに縋るように手を伸ばして抱き着いてきた。
「ううあおちゃん……!」
涙にまみれたぐしゃぐしゃの顔が肩口に押しつけられ、雨に濡れている身体が更に濡れる。仕事が終わったらクリーニングに出さなければと冷静に考えながら、あおは桃香の背をぽんと撫でた。
「……ピンク、仕事中です」
「うー、ごめん、青ごめんねえ……!」
自分の腕の中でぐすぐすと鼻を鳴らして泣く同僚、死体に突っ伏して慟哭する男性、どうすることもできずに泣きそうになっている故人、隣でこの惨状に驚いている後輩。阿鼻叫喚だ。
「……少しだけ失礼します。ここにいてもらえますか?」
「っいやだ、優衣は、優衣は俺と……!」
「……分かりました、ここにいます」
あおが声をかけたのは故人だ。悪いが泣き叫ぶ男性のことは無視し、彼女がこくりと頷いたのを見てからあおは桃香と季黄を伴って病室を出る。幸い、廊下にはほかの患者も看護師も見当たらずしんと静まり返っていた。
「……桃香さん、またですか」
「うう、ごめん、ごめんなさい……」
「桃ちゃんだいじょーぶ?」
「季黄ちゃんも驚かせてごめんね……」
しくしくと泣く桃香をなだめるのはもう慣れた。ため息を吐きたいのを堪え、しゃくり上げる呼吸が落ち着くのを待つ。
「っく、う、うー……」
「とりあえず状況だけでも教えてもらえますか?」
「桃ちゃん、メイクめっちゃ落ちてて酷いよ?」
「季黄ちゃんは静かにして」
「さすがに冗談だよお」
ぺろっと舌を出す季黄の頭に軽く手刀を落とす。だから余計なことは言うなと事前に言ったんだ。そういえばこの子は今日も安心安定身だしなみの規則は破っているしまたサングラスを忘れているなと気づき、おまけでもう一発。
「やだーやめてよ、髪の毛崩れちゃう」
「雨の中走ったからもう崩れてるよ」
「ちょっと桃ちゃん聞いたー? あおちゃん酷くないー?」
「……ふふ。ごめん、雨の中来てくれてありがとう、二人とも」
あおと季黄のやり取りに桃香はやっと少し落ち着いたのか、ぐすりと鼻を啜り上げてから「話します、青、黄色」と凛と声を落とした。外していたラウンド型の淡いピンク色のサングラスをかけ、泣き腫らして赤くなった涙の痕跡を曖昧に隠す。
「今回お亡くなりになったのは小林優衣さん、二十七歳。中にいた茶髪の女性です。膵臓の病気でお亡くなりになりました。事件性はなく、警察への連絡は既に済ませています」
「もう一人の男性は?」
「彼は桁和幸さん、優衣さんの交際相手です。優衣さんのご実家は県境の山辺らしく、危篤の状態で病院が連絡をしご両親はこちらに向かってきてはいるそうですが……、っ、間に合わなかったようです」
桃香の声が揺らいで震える。感情がぶり返しそうになるのを必死で耐えているのか、ごくりと生唾を飲み込む音がよく聞こえた。
「顔を合わせたご遺族は桁さんお一人です。いつものように説明をして優衣さんを連れていこうと思ったのですが……かなり、取り乱されていて……」
「そして過剰移入をして今に至る、ということですね」
半年に一度くらい、こういうことがあった。桃香が魂の保護に向かったまま帰って来られなくなり、フォローの要請が来る日。年上の先輩だろうと、年下の後輩だろうと、その時手の空いている誰かが桃香と故人の元へ向かう。またかと思わざるを得ない時もあるが、しかしそれが山根桃香の特徴の一つとも言えた。
桃香は優しい。それは見ているこちらが心配になるくらいで、更に感受性豊かで涙もろい。指導されている未取が「難儀な人ですよね」とぼそりとこぼすのを聞いてしまったほど、死神として生きるのにある意味では向いていない性格ではないだろうか。故人一人一人に心を寄せすぎると、きっといつか崩壊してしまう。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
「ピンクのそれは今に始まったことではないので大丈夫です」
一回や二回ではないのだ、こういう状況は。どれだけ怒られても、どれだけ周りを巻き込んでも、けれどそれでも桃香は自分のやり方を変えようとはしない。普段は気が弱くておどおどしている部分があるのに、仕事に関しては存外頑固だ。故人第一主義。亡くなった方の意向にできる限り寄り添うその方法は愚直とされるが、桃香がそれを曲げることはしなかった。彼ら彼女らに、今生を終えてこの世界から旅立つ故人に、手が及ぶ限りの祝福を。ありったけのお疲れ様でしたといってらっしゃいを、心の限り。
「……ねえ、青」
ほら、だから。
「優衣さんを連れていくの、少しだけ待ってもいいですか……?」
こう言いだすことも分かっていたんだ。
「……ピンク」
「だって桁さんが、今回退院が決まったらプロポーズする予定だったって、こんな急に病状が悪くなるなんて聞いていなかったって! 最近はずっと落ち着いていて回復傾向にあって、退院ももう少しだねって話してたって言ってて、ねえ、だから……!」
言い募る桃香は必死だ。まるで死神になりたての新人のように、拙い口調で理由を並べる。
「……優衣さんは何て言ってるんですか?」
「優衣さんも、今すぐ行かないといけないのかって……」
「それで、ピンクは本当はどうしたいんですか?」
「……」
問えば、桃香は口をつぐんで俯く。こういう時の桃香は酷く幼く、現実的ではない綺麗事を夢物語として語る姿は我を押し通そうとする幼稚園児とそう変わらない。
否、むしろそれよりタチが悪い。
「……二人が納得するまで、連れていきたくないです」
大人である分、桃香は自分が言っていることの難しさを何より分かっていて、それでも発言を取り下げることはしないのだから。
「……ピンク」
桃香がどれだけ故人を慮って心を砕こうと、愚直とされながらも寄り添う選択をしようと、あおは正直どうでもいい。要領が悪いなとは思うが、それを本人が是としてやるなら勝手にそうすればいい。それで超過労働を強要されればあおは断固拒否するが、幸いに桃香は自分を曲げずに生まれた仕事は全て自分で請け負う責任感を持ち合わせた人間だ。
しかし、一応は同僚として、そして見習いである季黄の前だから言わなければならない。
「二人がずっと納得しなかったらどうするんですか? ずっとずっとそばにいて、優衣さんが喰われないように見守るんですか? そのあいだも亡くなる方はたくさんいて、見送らなければいけないんです。一人の故人にずっとついていることはできません」
「それは、もちろん分かってはいるんだけど……」
死を受け入れられない故人や遺族はもちろん存在し、魂を連れていくことを拒絶されるケースも少なくはない。故人自身はまだこの生にしがみついていたいと、輪廻転生など知らないと、死んで魂だけになっても今の自分自身で存在していたいと足掻き、遺族は自分たちには視えない魂だとしてもずっとそばにいてほしいと、連れていかないでほしいと懇願をする。
故人に抵抗された時には少々骨が折れるが、遺族の懇願に関しては、正直、無視をして連れていくことはできる。一般の人には視えないのだ、分かりましたと殊勝に頷いておいて実際には魂を連れだすなんてことはザラにある。互いの平穏のために吐く嘘は誰も傷つけない。
朱音なんかはそれをうまくやるが、しかし桃香にはそれができなかった。
ため息を一つ。
「……分かりました」
死神の仕事は迅速に魂を保護し冥府へ送ることで、それを見誤ることはできない。しかしけれど、だからと言って、連れていかないでくれと懇願し縋ってくる故人と遺族に何も思わないわけではないのだ。
病室からは桁の泣き声がずっと漏れ聞こえており、その悲痛さに鋭く引き裂かれるように心臓が痛む。耳を塞ぎたくなるくらい、一人の死に対してみんなが必死だ。
「少しだけ待ちましょう。今が十七時なので夜まで……二十時まで。それでいいですか?」
「! いいの?」
「いいも何も、ピンクがそうしたいんでしょう?」
苦笑を滲ませると、桃香はぱっと嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう青!」
「それ以上は引き延ばしませんよ」
「……ねえねえ、そういうのってありなの?」
黙って話を聞いていた季黄がことりと首をかしげる。定石から外れることを非難するというよりは、純粋に疑問に思ったらしい。あおは首を横に振って真っ直ぐに季黄を見る。
「これはやっちゃダメなやつだから、絶対に真似しないで。例外だよ」
「えーピンクだけ特別なの?」
「情けないとこ見せてごめんね、黄色。でもね、わたしはね、故人でも遺族でも、誰か一人にでも拒まれたら、無理やり連れていくのは嫌なの。もちろん喰われてしまうのはダメだしそれは守るけど、でも、せめて納得するまではって、その時まで待ちたい」
桃香がひたと見つめる先は四◯三号室。淡いピンク色に隠される眼差しには意志の固さが滲んでいる。
「……怒られますよ。特に、赤に」
副支部長である朱音は現実に即した人間だ。桃香のやり方とは相性が悪く、あおが知るだけでもかなりの回数、きっと知らないところでも指摘されてきているはずだ。
桃香は口角を上げ、ほんの少し困ったように微笑んだ。
「そうだねえ。でも、怒られないために仕事してるわけじゃないから」
普段気が弱く控えめに笑っている桃香だが、この時ばかりは芯の強さが閃いていた。
「じゃあわたし、優衣さんに伝えてくるね!」
「……季黄ちゃん」
病室に入っていく桃香の後ろ姿を眺めながら。
「絶対に真似しちゃダメだけど、でも、ああいう死神もいるって覚えておいてね」
「ほいほーい」
季黄の返事はいつだっていい加減で真剣味がなかった。