1-5
(三)
口を開かず沈黙を保っていても、そこに人が在るだけで音が生まれる。呼吸の音、衣擦れの音、歩く音。小さな小さなさざめきは重なって膨らみ、その場に息づく気配となる。
「——種田あおさん」
雑然とした世界の中で輪郭のはっきりとした音が聞こえ、あおは携帯から視線を上げる。ぱちりと目が合ったのは名前を呼んだ看護師だ。
「検査のお話です、こちらにどうぞ」
「はい」
携帯をバッグに仕舞い、あおは足早に看護師についていく。呼吸をすると消毒薬のような独特な匂いが鼻腔にツンと染みて、小さく鼻を啜った。
創立何十周年だかを迎えた片桐総合病院は年季が入っており、暗くて古ぼけた廊下を通り案内された診察室に入ると、見慣れた医師がこちらを見てぺこんと頭を下げた。中も廊下と同様、どこか薄暗く感じる。一色支部の事務所が入ったビルも似たようなものだが、仄暗さは陰鬱さを浮かべて仕方がない。ちなみにあのビルはそれでいて「幸運ビル」という名前で非常に皮肉が効いていた。
「はいこんにちは、どうぞ座って」
「こんにちは、お願いします」
「はい、えー、いつもの検診ですねえ」
この眼科の先生はマスコットキャラのようだと毎回思う。あおとそんなに変わらない身長は男性にしては小柄で、しかし横にふんわりと丸いフォルムがデフォルメしたキャラクターめいて見える。年齢によるものだろう、綺麗な白髪もそれに拍車をかけた。
先生は眼鏡を反射させながらパソコンでカルテを確かめ、カチカチと画面を切り替える。診察に呼ばれる前に受けた検査結果のデータが表示されているのだろう。
「はい、検査の結果も変わりなく、数値上も特に問題ないですねえ。生活していて何か違和感を覚えたりはありますか?」
「いえ、特には」
「そうですか。はい、では少し診てみますねえ」
電気が消え、先生が横から機械を引っ張り出してくる。指示された通りに顎を置いて額をつけて、診察を受ける。
死神が死神たる所以はその目にあり、通常よりも発達した目が生きている人間以外を視ることを可能にしていると今日では言われている。しかしそれは目に多大な負担をかけるようにもなっており、前時代の死神たちは最終的に全盲となることがほとんどだった。研究が進んだ現代では視力を失くすことを防ぐために対策が講じられており、月に一回眼科を受診して定期検診を受けることもその一つだ。
あおたちが仕事中にかけるサングラスも目の負担を減らすために作られたもので、そのレンズに特徴があった。昔興味本位で聞いて返ってきた答えは非常に難解で全く覚えていないが、レンズの素材として亡くなった死神の眼球が使用されているらしい。視神経から抽出した細胞の核を混ぜ込んで作るのだという特殊なサングラスは見習いとなった時点で支給されるのだが、職を続ける限り、一生付き合っていく一点ものだ。あおの薄青のサングラスや桃香のピンクなど、個々の名前に由来する特徴は技術チームの遊び心と祝福の気持ちが込められているのだと聞いたことがあった。
「はい、右見てー、前見てー、左見てー、もう一回前見てー」
覗いた機械の向こうから強烈な光に照らされ、一瞬視界がチカチカと痛む。向こう側で振られる先生の指を、待てを強いられる犬のように目だけで追った。
「——はい、もういいからねえ」
診察室の薄暗い電気が再度灯り、機械が撤収される。先生は穏やかに頷き、マウスで画面を切り替えるとカタカタとゆっくりとしたタイピングで文字を打ち込み始めた。
「直接診ても、やっぱり特に問題はないようですねえ」
「そうですか」
「はい。ただ、少し疲労が溜まっているようですねえ。いつもの目薬とは別に、疲れを取る目薬も出しておくので、一日二回、朝と夜に差して下さいねえ」
「分かりました」
「はい、じゃあ今日はいいですよ。お大事にねえ、また来月」
気の早い看護師は既に診察室の扉を開けており、「待合室でお待ち下さい」と言外に急かされる。
「あ、はい、ありがとうございました」
「はい、気をつけてねえ」
あおはバッグを持って立ち上がり、先生と看護師に頭を下げて退室する。看護師は淡々とした顔で「お大事に」と機械のように呟いた。
待合室に戻って椅子に座り、また携帯を取りだす。見るともなしに画面を流し見て、適度に外に意識を向けて、名を呼ばれるのを待つ。雑音がさざめき、たまに似た響きの名字に間違えて顔を上げては気まずさを飲み込んでまた携帯に目を落とす。
「——っ!」
ブルーライトの比ではない鮮烈な閃光が弾け、あおはぱっと上を見やる。病院の待合室の薄汚れた天井、そのずっとずっと上の上の階……病室で誰かが亡くなったようだ。光の残滓が眼球を圧迫する感覚がして、ぎゅっと目を瞑って眉間を揉む。検査で目を酷使した影響か、今朝刺激を和らげる目薬を入れるのを忘れたからか、チカチカと疼痛がした。
「種田あおさん」
痛みを飲み込んで立ち上がり、受付で保険証と処方箋を受け取る。視界の上端で光の気配が漂うが、あおは上階に行くことなく病院を出た。ここは一色町の隣にある生野という地域で一色支部の管轄ではないため、人が亡くなろうとあおに出番はない。そもそも、あおは今日非番だ。
外へ出ると、今度は太陽の光が眩しくて視界がくらんだ。じりじりと肌を焼いてくる日光がやがて来る本格的な夏を思わせて憂鬱になる。六月中旬で既に梅雨入り宣言はされているが、雨足はまだ頭上に訪れておらずこのところずっとからりと晴れ渡っていた。
生野支部はその地域の広さから、一色支部のように人が亡くなってから事務所を出発するのではなく、死神が常に管轄内を巡回しその時近くにいた者が現場に赴くというやり方を取っている。だから間もなく担当の死神が到着するだろう。日差しの眩しさと綯い交ぜになる燻る光が存在を主張してくるが、あおの仕事ではないと歩を進める。せっかくの休日だから、今日は少し足を伸ばして新しくオープンしたカフェでランチを食べるのだ。
病院の敷地から出ると、あおの予想通り生野支部の死神と出くわした。道の向こうから駆けてきた喪服に、思わず「あ」と声を落として立ち止まる。
「かえちゃんじゃん」
「あおさん。……おれ、今仕事中なんすけど」
一応足を止めてくれたが、楓の酷く嫌そうな口調に小さく笑う。この男はいつ会ってもあおへの敵意にも近い負の感情を隠そうともしないからいっそ清々しい。
「ああごめん、カエデ」
「ここにいるってことは検診っすか」
「うん、今終わったとこ。亡くなったの、たぶん五階くらいだと思うよ」
「おれ補佐で来ただけで中に入らないんで、別にそういうのいらないっす」
熊野楓はあおより年下の二十二歳で、生野支部に所属する死神だ。互いの支部長が昔馴染みということもあり事務所同士の交流もあるが、楓はあおのことを毛嫌いしていて態度がいつも手厳しい。楓が見習いから正職の死神となった時に催された事務所合同の飲み会で、あおがぽろりと「頑張りすぎないで、そこそこやっておけばいいんだよ」とこぼしたことが大変許せなかったらしく、それ以来顔を合わせるたびに苦虫を噛み潰したような苦い顔を向けられている。あおとしては一応年上で経験年数も楓より上なわけだが、そこまで明確に嫌ってくるのが逆に面白くて存外嫌いではなかった。
きっちりとワックスで前髪を上げて露わになっている額に皺を寄せていた楓は、ふと思い出したように「そうだ」と何故かその皺を深くした。
「今一色にいるそうですね」
「? 何が?」
「芽吹季黄っすよ」
もみじの葉のマークがツルに入ったサングラスの向こうで、楓が嫌そうに目を眇める。楓の口から季黄の名前で出てくると思わなくてあおは虚を衝かれたが、すぐに思い出して納得した。
「そっか、季黄ちゃん生野にもいたんだもんね」
「すぐ異動しましたけど。でも一生忘れないっすよ、あいつのことなんか」
朱音から聞いた話と楓の態度が繋がる。
「相変わらず舐め腐ってふざけてるんすか?」
「んーそうだね……ああいう子は私も初めて会ったかな」
「うちの先輩、最後はブチ切れてましたからね。それでもヘラヘラしてんのは逆にすごかったけど」
嫌悪が滲む楓の口調に、その気持ちは分からないでもないと苦笑を浮かべる。事実、あおは既に朱音に無理だと訴えている。
……まあ、それは突っぱねられたけど。
「かわいいところもあるにはあるんだけどね」
ありがとうとはにかんだ季黄を思い出す。あんな風に素直にしていればもっとずっと生きやすいだろうに、どうして全力で他人の神経を逆撫でしにいくのだろう。
「かわいいもクソもないでしょ。おれはああいうの心底腹が立ちます」
「このままじゃいけないって、季黄ちゃん自身が分かる時がいつか絶対くるとは思うけど」
指導員としてそう思わせられる時がくるかと聞かれれば正直首を振りたくはなる。あおには無理だ。ああ放りだして逃げてしまいたい、面倒臭い。そもそもが仕事に全力を注ぐタイプではないのだ。そこそこに、ほどほどに。楓に嫌悪されたあおの性格は変わっていない。
「道のりは遠いのかもしれないね」
「……他人事っすね」
楓の剣呑な眼差しがあおに向く。バレているなとあおが肩を竦めると、楓は腹立たしそうに舌打ちを落とした。
「朱音さんに叱られろ」
「もう叱られたよ。でもねかえちゃん、みんながみんな、かえちゃんや朱音さんみたいにはできないんだよ」
故人のために身を粉にして働く。その気持ちが一ミリもないわけではないが、かといって崇高な目的があって死神になったわけでもない。逃げた先がここだった、ただそれだけだ。
「……こちらカエデ。はい、分かりました。裏口付近で待機します。――じゃ、おれ行くんで」
不機嫌そうな態度のまま無線に応えた楓は、そのままあおの顔も見ずに駆けていく。その後ろ姿に手を振りながら、あおはやっぱり嫌われているなと微苦笑を口元に滲ませた。
電車で三十分、駅から五分。行きたかったカフェで人気だというカレーランチを食べたあおは、そのままあまり馴染みのない街をふらふらとした。気になったお店に入り、眺め、何か買ったり買わなかったり。ゆるゆると過ごす休日は悪くない。
本屋を出てはっと気づけば午後六時を過ぎていた。空を見上げると鮮やかなオレンジ色に微かな藍色が混ざり始めていて、昼と夜の交代が近いことを頭上が告げる。
そろそろ帰ろうと駅へ向かって歩きだす。時間帯もあるのだろう、周囲にはそうやって足早に進む人が多くなってきた。
制服姿の学生やスーツのサラリーマンと歩を揃えて進んでいたあおは、しかし一人だけぴたりと立ち止まった。視界が閃光に染まってくらむ。あまりに強烈な光に、一瞬だけ目の前が真っ白に塗り潰された。
「……近い」
突然立ち止まったあおを、すぐそばを歩いていた女性が不思議そうにちらりと見てきたが、それに構うことなく視線を走らせる。夕暮れが押し寄せて静謐さを宿し始める空気の中に、案の定故人の姿はすぐに見つかった。
「やだ、やだ、死ぬなんてやだ……っ!」
駆けていく故人はたぶんあおよりも若い。泣きじゃくる横顔にはまだ幼さが残り、着こなしたスーツはまだ固さを感じるほどぴしりと綺麗だった。透けた身体は生命力の残滓が宿り、夕焼けに溶けるように煌めいている。
「嘘、死んだなんてそんな、違う、違うもん! わたし、まだ――っ!」
こういう場合もあった。死んだという事実を受け入れられず、現実を拒絶してその場から逃げる。逃げたところで死んだ身体が生き返るなんてことはないし、安心な逃亡先など存在しないけれど、それでも逃げだす故人はいた。
すぐ横を走り抜けていく彼女に手を伸ばしかけて、逡巡し、やめた。今ここで保護し、きっと向かってきているであろう死神に引き渡そうかと思ったが、あおは非番でこの地区の人間ではない。下手なことはするべきではないだろう。
泣きじゃくる故人の姿が見えなくなり、そして間を置かずに喪服が駆けてきた。眼差しがサングラス越しに辺りを探り、ぶつぶつと言葉を落としながら無線で連携を取る。あおも外から見ればああなんだろう。
逃げた故人のことを深追いはしないが、それでも端から全く追わないわけではない。あっちに逃げていったと、教えたほうがいいかあおは少し悩んだ。
しかし、やはり何もしなかった。
「――了解、そちらに向かいます」
やがて男性の死神は故人が向かった方角へ走っていく。方向も一致しているし、あおが口を出さなくても見つけられるだろう。
あおは名も知らない同胞の背を見送り、そして自分も駅への歩を再開させた。