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(二)
今日は、今日こそは言うぞ。
あおは昨日寝る前からずっと決意していたことを胸にデスクから立ち上がる。隣に座っていた事務員の冬子が不思議そうな顔を向けてきたが、話してしまうと決意が揺らいでしまうので今は無視だ。
コツコツと低いヒールの靴音が事務所内に響く。目線が爪先に落ちてしまうのは仕方がないと思う。ポニーテールの毛先が首筋に当たって少しくすぐったい。
「――あの!」
さあ言うぞ。あおは目的のデスクの前に立ち、声をかけると同時にやっと視線を持ち上げた。
「何だ、種田」
鋭い眼差し、冷酷な声音。鋭利な刃物を首筋に突きつけられたような錯覚で勢いがつんのめる。あおが言葉に詰まると、彼女は眉をひそめて怪訝そうにした。
「どうした」
「あ、朱音さん……」
草壁朱音。耳の下で切り揃えた黒髪がさらりと揺れ、一重の吊り目があおを真っ直ぐ見る。その眼光の鋭さは朱音の標準装備で、今あおに対して怒っているわけではないと分かってはいるが、それでも迫力があることに変わりはない。
ああ、苦手だ。端的な口調、冷静沈着で生真面目な性格、無感情で彩ったような無表情、仕事への厳しさ。そんな全部を引っくるめて、二十代でありながら副支部長という役職にある朱音があおはどうしても苦手だった。
それでも、今日こそは言うぞと決めていた。あおは息を吐いて吸って、装填していた言の葉を音にする。
「季黄ちゃんのことなんですが」
「芽吹がどうした?」
「あの、えっと……私が季黄ちゃんの指導員になって二週間が経つんですけど」
「そうだな」
「……正直もう限界です!」
溜まっていたものを全部込めるようにすると、思いのほか声が大きくなった。自分で自分の声量に驚いたが、しかし朱音は表情をぴくりとも動かさずにあおを冷静に見返す。
「——というと?」
「分からないことや知らないことを教えて、覚えてもらって、経験値を積ませていく。それが死神見習いにつく指導員の役目だと思うんですけど」
「まあ、そうだな」
「あの子にはやる気がありません。一色町の土地勘がまだないのは仕方がないですが、かと言って事務所へ戻るルートを覚える気がないのは困りますし、故人に対する説明もまともにやってくれませんし、そもそも敬語は使わないし礼儀もないし、何回言ってもサングラスは忘れてくるし、だいたい身だしなみについても初日からずっと言ってるのに一つも直してくれないし……!」
季黄に対する文句がとめどなく溢れ、あおは一通り吐き出してから朱音の前だったと遅れて言葉を止める。
「私には季黄ちゃんの指導員は無理です」
言った。言ったぞ。季黄が一色支部にやって来て三週間、あおが指導について二週間。季黄とほとんど毎日接してきて、もうあおのストレス値は限界だった。元来面倒臭がりで嫌なことはやりたくない性格を思えば、それは尚のこと。
昔からそうだった。友達と揉めるのも面倒臭かったし、教師に注意されるのも面倒臭かったし、親に怒られるのも心配されるのも面倒臭かった。
周りに見えていないモノがあおには視えていると分かると、周囲の反応は二極化した。気味が悪いと遠ざけるか、好奇心で必要以上に踏み込んでくるか。どちらも面倒臭いし、そうして生まれる空気も面倒臭かった。
だからあおは逃げる。魂を喰らうものと接触した時に逃げの一手を取るのも、突き詰めれば面倒臭いという感情があるからだ。だって払わなくても切り抜けられる方法があって、実際それで何とかなっているのだから。
ああ、これで季黄から解放される。逃げられる。安堵でため息ではない吐息が漏れた。
「――で?」
しかし朱音から返された冷酷な声音と眼差しにあおはひゅっと息を飲む。
「種田には芽吹の指導員が難しい、そこは分かった。でもそれを私に訴えてお前はどうしたいんだ?」
「え、あの……だから、私には難しいので、担当を変えてもらったり、とか……」
「自分に与えられた仕事を誰かに変わってほしいと」
「もし人手の問題だったら、私が未取くんの指導員になる、とか」
朱音が頬杖をつく。
「悪いがそれはできない提案だ。花井の視認力は山根に近いからあいつが指導するのが一番いいし、そもそも私は何を言われても種田を芽吹の指導から外す気はない」
「どうして……」
何故そこまではっきりと言い切られるのだろう。我ながら後輩の育成には向いていないと思うのに。
「どうして? 上司の判断に異論があると?」
「いや、そういうわけではないんですけど……」
胃がキリキリとしてくる。ああ面倒臭いことを言うんじゃなかった。
ため息が落ちる。でもそれは面倒な気持ちを飲み下したあおではなく、吐息の主は目の前の朱音だった。
「芽吹は去年、見習いとしてまず生野支部に配属された」
「……生野に?」
生野支部は担当区域が隣合っている支部で、支部長同士が知り合いなこともあり接点は少なくないはずだが、去年季黄がそこにいたという話は聞いたことがなかった。思わず眉を寄せると、朱音が同じように険しい表情を浮かべる。
「知らなくて当然だ。芽吹はふた月と待たずに別の支部に異動になっているからな」
「……見習いなのに異動なんですか?」
「生野が——というよりは直属の指導員だな、そいつが音を上げた。芽吹の態度の悪さが主な原因だ。そしてほどなくして異動先でも同様のことが起こり、また転属。見習いの一年目をそうして過ごし、今年の四月からも一応他支部にいたが、やはりそこでも支部側が匙を投げた」
「あ、だから三週間前にうちに来たんですね」
不思議には思っていた。普通は四月から来るはずの見習いが時期をずれて来たことも、そもそも同じ二年目の未取が四月から所属しているのにもう一人増えたというのも、全部がいつもとは違っていたのだ。その経緯を聞けば納得がいくが、しかし他の疑問も湧いてくる。
「季黄ちゃん学校ありますよね? それなのに何度も転属って可能なもの、ですか?」
死神の世界には、死神育成カリキュラムという制度がある。死神の素質があるとされた子供は幼い時から死神協会に保護され、義務教育を終えた時点で死神としての指導が始まる。高校からの勉学はそのカリキュラムに含まれ、死神見習いがわざわざ高等学校及び大学に通うことはあまりなかった。それと同等の知識、資格がカリキュラムを終えることで得られるからだ。
ほとんどの場合が死神育成カリキュラムを受け、死神としての経験を積むことに重きを置く。死神の素質……それは世界を画した、生きている人間以外を視る目。世間一般の人よりも突出したその視力を将来仕事に活かすため、普遍的な勉強ではなくより専門的な経験を求める者が多い。
しかし全員がそうするわけではなく、ごく少数ではあるが義務教育終了後に高等学校への進学を選ぶ人もいる。勉強に打ち込みたい者、普通の学生生活を送りたい者。その事情は様々だが、それでも素質のある者には知識を身につけさせたい協会本部は、進学を取ったとしてもバイト扱いとして各支部に所属することを義務づけていた。要するに、この目を持つ限り死神という職からは逃げられないわけだ。
季黄は中学校卒業後、高校へ進学した。平日の日中は高校生として学校に行き、それ以外の空いた時間に死神のシフトが詰め込まれる。事情を考慮してバイトの所属する支部は自宅から近いところになるのだが、選択肢は研修と呼ばれるカリキュラムを受ける死神見習いよりかなり狭まるはずだ。しかし季黄は何度も転属しているという。
「だから上が手を焼いてんだよ。芽吹の自宅から通いやすい距離の支部はもう全滅したから、あとは学校付近を当たるしかねえからうちに来た」
「あーそっか、柴花高校でしたね」
「詰んでんだよ、あいつは。役満だ。もうあとがない。お前のとこで何とかしろと上からのお達しだ」
家から学校、支部へと移動の時間すら惜しいほどの多忙を極めるはずなのに、どうして季黄は自分を改めようとしないのだろう。手を抜きたいなら、それなりにそこそこ立ち回って上手にやればいいのに。
「……あの、それなら尚更、どうして私なんですか?」
そんな問題児をあおにどうこうできるとは到底思えない。上からも言われているなら、朱音本人が指導に入るほうがよっぽどうまくいくだろう。
「種田もバイトだっただろ。だからだよ」
そこに言及されるとは思っていなかった。嫌な風に鼓動が跳ねる。
「た、確かに学校に通ってはいましたが、でも私は……」
「私は学校と死神を両立する大変さを知らん。今うちにいる他の死神もそうだ。その点だけを取っても種田が最適だと判断した」
確かに高校に通いながら死神見習いをするのは大変だ。学生という点を考慮はされるが、それでも昼夜を問わない死神見習いのシフトは過酷ですらある。それを身に沁みて知っているから、あおは季黄の多少のうたた寝くらいは見逃してあげたいと思っていた。それが指導員としては間違っていることも、季黄のためにならないことも分かってはいるけれど。
「しかし大変だからといって甘やかせと言うわけじゃない。フォローの方向性に見当はつくだろって意味だ。種田お前、さっき芽吹の欠点を挙げていたが、それに対して全部ちゃんと言及してんのか?」
「い、言ってます! ……つもり、です」
すぼんだ語尾を見逃してくれる朱音ではない。眼光に滲む空気がキンと冷たさを帯びる。
「言い切れねえなら意味がないだろ。日和って知らんフリをすんな。お前のそれは優しさじゃねえよ」
「はい……」
喉が渇いて声が掠れる。息が苦しい。
どうして私なんだろう。理由を説明されても、事情を説明されても考えてしまう。何で私がやらなくちゃいけないんだろう。
「で、話はそれだけか?」
「……はい」
「じゃあ、私は本部との会議に行ってくる」
デスクの前で立ち尽くすあおの横を朱音が颯爽と通りすぎていく。すらりと高い上背、一部の隙もなく身につけられた喪服、凛として張り詰めるような立ち振る舞い。
あおの訴えなど、通るわけがなかった。
「――種田」
振り向く、目が合う。その真っ直ぐな眼差しから思わず視線を逸らす。
「芽吹から逃げんなよ」
――ああ、
「……はい」
全部を放りだして逃げてしまいたい。