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踏み入れた屋上に広がる空はまだ暗いが、遠くの端っこはどこか仄かに色が薄い。空気の感触は頭を冴えさせるように清かで、朝方特有の澄んだ気配が肌に触れる。すんと鼻を動かせば、匂いですら静けさを含んだような清浄な香りが鼻腔に沁みた。
「……昨日まで仕事をしてたのに、何か変な感じがします」
故人に書いてもらう書類は、国に対して「この人の魂を幽世へ送りました」と提出する証明だ。一般的な個人情報や軽い来歴、それから自分が把握している死因を書くなんて項目もある。記入してもらった書類に不備がないか確認したあおは、だから知っていた。
「朝が来る直前って、こんなに綺麗だったんですね」
死因、自殺。仕事でちょっと。
曖昧に書かれたそれを、あおは不備とは認めずに受け取った。警察に聞かれて答えを渋った彼女の死因は、リビングのテーブルの上にある遺書しか知らないのかもしれない。否、もしかしたらその遺書にすら事実は記されていないのかもしれない。命を絶った理由は、相原本人が抱えたまま誰も知らずに世界を渡るのかもしれない。
でもそれでよかった。あおの仕事は死因を知ることではなく、故人をより深く理解することでもなかった。故人を幽世へ送る、ただそれだけだ。
「あの、警棒で戦うのってやっぱり訓練とかするんですか?」
「護身術に毛が生えた程度ですけどね。対魂を喰らうもののためでもありますが、死を感じて現場に一番に到着した時に犯人と遭遇することも考慮して、最低限は」
「え、犯人と会っちゃうこともあるんですか?」
「万が一ですよ。そんなことは滅多にないですし、別の支部でも聞いたことはありません」
「もし本当に殺人現場に遭遇しちゃったらすごくこわ」
「――相原さん!」
怖いですね。相原の声を掻き消すように目前に迫った呼び声の主は、そのまま彼女の手をがしりと力強く握った。眼鏡の奥の瞳がくるりと丸くなり、次いで、困惑したようにあおを見る。あおは苦笑を浮かべるしかなかった。
「相原さん、わたし、わたし……っ」
故人の透けた手を握りしゃくり上げて泣いているのは、死神の桃香だ。喪服を着ているのはあおと同じだが、彼女がかけたサングラスは薄くピンクが入っている。ゆるく三つ編みにした黒髪とあおより少しだけ背が低く小柄な身体が幼く見せるが、実際は二十六歳とあおよりも年上の先輩だ。
「ピンク、大丈夫ですか?」
「うう、ごめんなさい青……。相原さん、わたし、あなたと同い年なんです」
サングラスの下からぽろぽろと転がり落ちる大粒の涙もそのまま、桃香は濡れた声で語尾を震わせる。相原は戸惑った様子で桃香とあおを交互に見るが、サングラス越しのひたとした真摯な眼差しを無下にはできないようで、大人しく手を握られたままでいた。
「同い年なんです……」
「そ、そうですか」
「うう、はい、同い年なんです……!」
「……あの、えっと、これは……」
「『自分と同い年なのにとてもたくさん苦労をされてきたんですね。お疲れ様でした。この先どうか、あなたの進む道が心穏やかでありますように』ってところですかね?」
語尾を桃香に向ければ、息を詰まらせながらこくこくと首肯した。止まらない涙はまだ顔に筋を描いている。
先輩である桃香は、死神という職に就くには優しすぎるほどに優しすぎた。亡くなった人間の事情を聞いては感極まって涙を流し、そもそも人が亡くなったという状況そのものにも感情を動かし泣いた。
だってもうその人の時間は止まってしまって、今のこの世界で、その人がその人として過ごすのは終わってしまうんだよ。その人自身に対しても、そしてその人が遺してきた周囲の人にも、全てを想うと勝手に涙が出ちゃうの。
そう言って、いつも泣いててごめんねと、桃香はあおに眉を下げて謝ったこともあった。
心を傾けすぎる桃香は危なっかしくもあるが、しかしそれでもその優しさに救われた人は生死を問わずきっとたくさん存在する。実際に相原にも桃香の気持ちが伝わったのだろう、戸惑いは姿を失くし彼女は面映そうに淡く笑っていた。
「……ピンク、青」
「緑」
後ろから声をかけられて振り返ると、華奢な男の子が生真面目な視線を投げてくる。物言いたげな様子にあおは空を見上げた。
「来た?」
「はい、来ました」
「え、もう来たの!?」
後輩の未取の知らせに桃香は驚いた声を上げ、相原にもう二、三言を落とすと頭を下げて別の故人の元に向かった。恐らく自分が連れてきた魂なのだろう、年配の男性の前で嗚咽を上げる桃香の声が耳朶に触れる。自身が保護した故人に対し、桃香の感情移入はより深く顕著だった。
「……ところで緑、黄色の姿を見ませんでしたか?」
屋上に上がる前、季黄はデスクに突っ伏して眠っていた。彼女の勤務形態のこともあり居眠りには目を瞑ったが、さすがに故人の見送りには出てきてもらわないと困る。声をかけて揺り起こし、トイレに行くと言った季黄の背中に「先に行ってるからね」と言葉を投げてからしばらく。隣のコンビニのトイレに行っていてももうとっくに帰っている頃だ。どこに行ったあの新人は。
「黄色なら今さっき」
未取が薄い緑が入ったサングラス越しの視線をふいと屋上の入り口へと向ける。癖のない黒髪がさらりと揺れた。
喪服姿の中で唯一サングラスをかけていない季黄は、入り口からぽてぽてと歩きながら大きなあくびを落とした。
「黄色、どこへ行っていたんですか」
「えー、トイレだよ? 座ってたらやっぱ眠たくて、うとうとしちゃってた」
あくびを隠そうともしない季黄は悪びれる様子もなく暢気に笑う。さすがに沸々と腹の底で苛々が募るが、もう見送りの時間も差し迫っているしとあおは何とか飲み込んで堪えた。代わりに漏れ出るのは、今日だけでもう数え切れない嘆息だ。
「誘導、行ってきます」
未取はあおたちに頭を下げると、機敏に動いて仕事に戻る。喪服に薄い緑のサングラスをかけた未取はまだ十代で、季黄と同じ研修中の新人だ。ひょろりと線の細い身体はまだ成長の途中にあることを感じさせ、身長は既にあおよりも高いけれどまだまだ伸びるだろう。
季黄より少し前に一色支部に配属された未取だが、指導員である桃香が滂沱の涙を流しているのにも気に留めず指示を仰いで実行している様子は、年齢も経験も疑ってしまうほど落ち着いている。一見ぶっきらぼうで愛想がないようにも思えるが、一挙手一投足から滲み出る生真面目さがそれを補って余りあるほどだ。端的に言えば未取はいい子だ、とても。
……それに比べ、こっちは。
あくびをしながらふわふわと話す季黄を、相原が苦笑いを浮かべながら相手をしている。十七という年齢を思えばまだ大人の庇護下にあるべき子供だが、今この場において季黄は死神という職に従事する人間だ。新人とはいえ、子供の振る舞いをしてもらっては困る。
やがて、屋上の微かなさざめきを覆うような空の唸り声が場を満たす。空は気がつけば夜が明けようとしていて、輝いていた星々が息を潜めていた。黒に藍色が混じり、それは空の隅っこにいけばいくほど色を変えて明度を上げた。鼻先で朝の匂いが踊るように空気をくすぐる。
そうして空のずっとずっと上から、朝焼けを連れてくるように汽車は現れた。
「――銀河鉄道……!」
相原の感嘆の声が低く轟くドラフト音に掻き消される。灰色の蒸気を吐きだしながら空の上から下りてきた汽車はゆっくりと雑居ビルの屋上を足を止め、無事に着いたと叫ぶように甲高く汽笛を鳴らした。静謐な天明にそれはよく響く。
「すごい、ファンタジーみたいですね……!」
眼鏡の奥でキラキラと輝く瞳にあおもにこにこと微笑む。嬉しそうでよかった。
未取が扉を開けて故人の誘導を始める。数人の故人がゆっくりと乗り込んでいくのを、桃香が泣きながら見送っている。乗車はスムーズに行われ、黒光りする車体に見惚れていた相原は最後の一人になった。
「相原さん、そろそろ行きましょうか」
「あ、はい、すみません」
たたっと小走りで移動した相原は、屋上から少し浮いて止まっている汽車に足をかけようとして一瞬動きを止める。自身の背後、並ぶあおたちを見た。
汽車に乗り込んだら、事実、故人は肉体だけではなく魂もこの世界から去ることになる。そのことに気がついたのだろうか。時折、この段階になって幽世へ行きたくないと拒む者もあった。
「……相原さん」
「うん、大丈夫」
浮遊する汽車の中へ、屋上に残っていた足を引き上げる。完全に汽車に乗り込んでから相原は再び振り返り、ありがとうと頭を下げた。
「うっうっ、相原さんお元気で……!」
「あはは、ピンク何言ってんの。相原さん既に死んでるのに」
「言葉の綾だよ黄色!」
「——相原美香子様」
季黄の失言は最早聞き流し、あおは深々とお辞儀をした。
「ご冥福をお祈りしております」
「……はい」
丁寧なあおの言葉に相原が神妙に頷くと、汽笛が一度鳴き声を上げた。出発の時間が近づいている。
乗り口に立ったままの相原を促し、中に入って座席に着いてもらう。彼女が選んだのはこちらが見える窓際で、相原が着席したと同時に汽笛がもう一度甲高く鳴り響き汽車が動き始めた。
ドラフト音が腹の底を揺らすように音色を轟かせ、線路ではなく宙を走る車輪が回転をする。白灰色の蒸気が絶えず吐き出され、重たいはずの車体は重力に逆らうように上昇を始めた。
この蒸気機関車がどうして動いているのかあおは知らない。死神の仕事はここまで、魂の見送りまでだ。原理だとか運転手だとか、それはこちらにはもう関係のないことだった。
上下開きの窓が開けられ、相原が顔を出して破顔する。手を振りながら彼女がぱくぱくと口を動かしたように見えたが、豪快な排気音が辺りを覆い尽くして声までは聞こえなかった。
やがて汽車は空へ向かって走りだす。天高く、空の向こう側へ一直線に。吐き出される蒸気が空に霧散していくのを眺めていたら、気がつけば大きな車体は視界から姿を消していた。朝焼けにその身を溶かし、逝ったのだ。
空の端っこで太陽が昇り始めた。黒から紺、紫、ピンク、オレンジ、黄色。白み始めた空は見る位置で目まぐるしく色を変え、蒸気機関車の残滓は空気に混じって消えた。
目覚めた朝。あおたちは朝焼けに頭を下げ、そうしていつものように故人たちの見送りを終えた。
「……あーやばーいねむーいだるーい帰りたーい!」
故人を見送ったあとの静謐な空気感を、間延びした季黄の声音が盛大に崩壊させるのも、彼女がここへ配属させてからはいつものことになってしまった。