◯エピローグ
〇エピローグ
一時間前まで自宅にいた。三十分前まで電車に乗っていた。十分前まで同僚と世間話をしていた。五分前までお客さんの対応をしていた。
だのに、どうして。
「——はあ……はあ……っ!」
私は今、周囲に目もくれずに走って逃げているのだろう。
いつもの朝だった。変わりのない朝だった。昨日と、一昨日と、そのずっと前と、何も変わらない朝だった。
突然、目の前で炎が燃え盛るまでは。
「っは、やだ、こんなの嘘よ……!」
私が気づいた時には、もう既に店内は火の海だった。見渡す限りの赤、紅、朱。何がどうなって店が火事になったのか、同僚やお客さんがどうしているのかも分からないまま、私はどこへも逃げることができずに炎に捕まった。目の前で暴れる火が厭に明々としていたのだけを鮮明に覚えている。
そして次に目を開けた時、私が捉えたのは、私自身だった。
「嫌……嫌……っ!」
熱でどろりと溶け落ちた自分の顔面に悲鳴を上げて、私は燃え盛る店から飛びだした。走って、走って、どこまで逃げても背後から炎が迫ってくる気がして、私はただひたすらに走った。
「……はあ」
どれくらい走ったのか、時間も距離も何も分からない。闇雲に逃げていた私は次第に速度を落とし、やっと足を止めて大きく息を吐く。ぜえぜえと息が上がっているのは幻覚なのか、それとも先ほど見た炎に巻かれた自分の姿こそが幻覚なのか。
しかし自身の身体を見下ろしてみると、その全身は今にも消えてしまうのではないかと思ってしまうほど、透けていた。
「……私、どうなるの」
顔を覆って、ずるずるとその場にしゃがみ込む。空は雲一つない快晴だというのに、いつもと同じ朝だったのに、どうしてこんなことになっているのだろう。
しばらくそのまま佇んでいた。何となく、ふと顔を上げたのはもしかしたら本能だったのかもしれない。
「な、何あれ……」
ぱっと向けた視線の先に何かがいて、私は立ち上がって凍りついた。人型をした黒い靄がゆらゆらと揺らぎ、曖昧な輪郭で画された手がこちらに向かって伸ばされている。
逃げなければと脳裏で警鐘が鳴る。しかし動き方を忘れたように身体は言うことを聞かなかった。
逃げなきゃ、逃げなきゃ……!
黒い手が迫る。ぞっと鳥肌が立つ。動けない。顔の寸前まで、その手が——
「こっちです!」
思わず目を瞑った瞬間、どこかから聞こえてきた声とともに後ろに腕を引っ張られた。私と入れ替わるように人影が躍り出て、手にしている警棒をそれに向かって振るった。ポニーテールの毛先が動きに合わせて揺れている。
その人が大きく警棒を振り抜くと、黒い靄はざわりと人の形を少し崩した。その瞬間にくるりと振り向いた彼女は、流れるように私の手を掴んで駆けだす。
「ちょっ、あの!?
「突然手荒い真似をして申し訳ございません。危険な状況でしたので、対処を優先させて頂きました」
走りながらそう言った彼女は少しだけ足を止め、薄青のサングラス越しに私の目を真っ直ぐに見て頭を下げた。
「私は死神、青。あなたをお迎えに来ました」
ご冥福をお守り致します。




