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(四)
そのあと、殺人及び殺人未遂で現行犯逮捕された男は警察に連行され、あおは怪我の治療を優先されて片桐総合病院へと運ばれた。まさか病院に戻ることになるとは思わなかったと苦笑を浮かべる。
切られた腕は出血こそ目立ったが、傷自体は浅く大したことはなかった。受けた処置も消毒くらいのものだが、ガーゼを当てて大袈裟に包帯を巻かれてはまるで大怪我を追ったような気分にさせられる。じくじくと疼くような痛みは残っているが、数日すれば治まるだろうとのことだった。
そのまま話を聞くために警察署へ移動するとのことだったが、警察の人に少し待つように言われてその場に留まる。携帯を片手に慌ただしく立ち去っていったから、何か緊急の連絡だったのかもしれない。
病院の静かな廊下で、あおは簡素な椅子に座って待機する。右手を開いて、閉じて、グッパグッパと繰り返して、魂を喰らうものを捉えた時の感覚を忘れないように手のひらに馴染ませる。あの時核を視ることができたのは、所謂火事場の馬鹿力というやつかもしれないが。
「——種田さん」
声をかけられ、警察の人が戻ってきたのかとぱっと顔を上げたあおは、予想とは異なる人影に目を見開いて立ち上がった。
「支部長……!」
仕事の途中で抜けてきたのだろう、見慣れた喪服姿の灰二が淡く笑んで目礼する。それにつられてあおも頭を下げると、灰二は常と変わらない穏やかな微笑みを浮かべたまま、しかしどこか有無を言わさぬ圧を持って「座って下さい」と促されてあおはまたストンと腰を下ろした。
還暦をいくらか過ぎて孫もいる灰二だが、やわらかさとあたたかさは若々しさがあり年齢を感じさせない。スマートな立ち居振る舞いは紳士的で、声を荒らげることのない落ち着いた態度は概念的な父親のような、そんな親しみさえ抱かせる。
灰二はあおの隣に座り、包帯の巻かれた腕を見て痛ましげに眉を寄せた。
「痛みますか?」
「そうですね、多少は。でも全然……これ大袈裟に見えますよね。浅い傷なので、本当に大丈夫です」
手と首をぶんぶんと振って否定しながら、あおはそれよりもと疑問を口にする。
「支部長、どうしてここへ?」
「生野支部から連絡が入ったんですよ。一色支部の死神が非番にも関わらず故人を保護し、それだけではなく殺人犯とも遭遇し負傷したと。本当に驚いたし、僕は肝を冷やしました」
灰二は深く息を吐き、すっと真剣な眼差しであおを捉えた。自然、背筋が伸びる。
「無事だったからよかったものの、どうしてこんな無茶をしたんですか?」
「どうして……」
どうしてと聞かれても、あの状況は偶然が重なった結果とも言える。たまたますぐ近くで人が亡くなって、様子を見に行ったらそこにまだ犯人がいて、まさか故人を守りなら犯人と魂を喰らうものを相手にするなんてそんなこと一ミリも考えていなかった。
根底にあった感情は、逃げたくない、そして未果も季黄たちも守らなければと、ただそれだけだったように思う。
「草壁さんに感化されましたか?」
朱音の真っ直ぐ伸びた背中が浮かぶ。省みろと、あの日の声が再生される。
否定はできなかった。
「それは、あったかもしれません……」
「種田さんのその勇気も心意気も否定はしません。あなたが臆せず立ち向かったおかげで助かった命があり、それは本当に素晴らしく賞賛されるべきことです。……でもね、種田さん」
灰二の真摯な眼差しには大きな慈愛が宿っている。同じ職場の人間として、愛して大事にされていることが痛いほどに伝わってきた。
「僕は、この短期間で二人も部下を亡くしたくはありません」
その声は深く深く胸に染み入る。きゅっと心臓が苦しく軋んだのは、灰二の言葉が現実味を帯びてあおに届いたからだ。どこかで何かをかけ違えていたら、その未来が訪れた可能性もあった。
「一人で無理をしないで下さい。何かあったら誰にでもいいから連絡をして下さい。ダメだと思ったら逃げたっていいんです。逃げても、また別の何かでやり直せばいいんですから。お願いですから、自分のことを蔑ろにしないで下さい」
「……はい、すみませんでした」
灰二の声はあたたかく、同時に厳しく、紡がれる言葉が本当にあおのことを考えて心配してくれているのが端々から伝わってくる。今更ながら無茶をしたという自覚が芽生えてきて、あおは素直に頭を下げた。
灰二が息を吐く。それは呆れを孕んだものではなかったので顔を上げると、支部長は眉を下げて困ったように笑っていた。
「でも、生野の支部長が感動していました。自分の支部に是非とも欲しい人材だと。うちの子なのでと丁重にお断りしましたが」
「そうだったんですか」
生野支部の支部長と灰二は昔からの友人で仲が良い。それが分かっているから、わざとらしく拗ねるような言い方にあおは小さく吹きだした。くつくつと喉の奥で笑いながら、ふっと息を吐いて思考を辿る。
「支部長」
「何ですか?」
「私、さっきの事件に遭遇する直前まで、死神を辞めようかと考えていたんです」
「……それはどうしてか、理由を聞いてもいいですか?」
灰二の表情も声音も変わらなかったので、あおもそのままいつものように言葉を落とす。
「朱音さんがいなくなった衝撃が大きいです。そして置いていかれるように変わっていく周囲の状況がすごく苦しくて……先日は、未取くんにも八つ当たりをしてしまいました。あとは、今更ながら他人の生死に関わる仕事だということを強く思い知って怖くなったというのもあります」
ずっとずっと纏まらなかった頭の中が嘘のようにすらすらと音になって生まれる。
「明日にでも、支部長に相談をしようと思っていました」
「それは今もですか?」
「今は……」
視線を落とす。右手を開いて、ぐっと握り込む。初めて視た赤い光、そうして痺れるような手応え。
未果や季黄たちに抱いたのは守らなければという思いだった。あの異常な状況に対する恐怖はもちろんあったが、それよりも強く、守らなければいけないと思った。それにあの場で自分を奮い立たせるために口から出たのは死神としてのいつもの口上で、ここ最近つっかえてうまく言えなかった文言だったが、咄嗟だったにも関わらずするりと音になった。
「……私は、自分が思っている以上にちゃんと死神だったみたいです。今日、やっとそれが分かりました」
「そうですか」
「はい。だから、続けます。……すみません、こんな意味のない話をして」
たぶん、どうしても誰かに言いたかったのだ。宣言でもあるのかもしれない。いつものあの口上と同じで。
「いいえ、構いませんよ。支部長ですから、どんな話でも聞きます。もし種田さんが本気で辞めることを考えているなら僕は止めませんが、でもあなたはうちの支部に必要な人間ですよ。それだけはお伝えしておきます」
灰二はどこまでも穏やかだ。柔和な笑顔に、あおも肩の力を抜いて小さく笑う。知らず、身体に力が入っていた。
「ありがとうございます」
「……それともう一つ、これは草壁さんのことですが」
灰二はそっと空気に乗せるように言の葉を紡ぐ。
「花井くんから、少しだけ種田さんの話を聞きました。草壁さんの話をすることがつらいと言っていたと。そこにいたはずの人がいなくなるというのは本当に悲しいし、寂しいです。……種田さん」
「……はい」
「人は二回死ぬと言われています。一度目は心臓が止まる時、二度目は魂を喰われた時。でもこれは僕ら死神の中で言われていることです。一般的にはどう言われているか、種田さんは覚えていますよね?」
「……一度目は心臓が止まる時、二度目は存在が——」
忘れられる時。
灰二が何を言おうとしているのか思い至り、語尾は唇が震えて声にならなかった。
「はい、その通りです。つらいのも分かりますが、もしよかったら、できる限り忘れないであげて下さい。草壁さんを、種田さんの中で生かしてあげて下さい。そして落ち着いてからいいので、草壁さんのことを声に出して支部の人と話してみましょう。そこにいない誰かの話をできる環境も、忘れないことと同じくらい大事なことだと僕は思います。もちろん、焦らずにゆっくりでいいですから」
泣きたくはなかったので、あおは固く目を瞑ったまま頷いた。こくこくと、何度も何度も。口を開くと涙がこぼれそうだったので、固く口をつぐんで。
そのまましばらく、言の葉は散って場は静寂に沈んだ。灰二は気を遣ってくれてもいるのだろう。あおはただただ、今灰二が言ってくれたことを飲み込んで身体に馴染ませた。言葉一つで、ここ最近ずっと苦しかった呼吸がしやすくなった気がした。
「……あ、来ましたね」
静かだった廊下の向こうのほうで人の気配がさざめいたのを感じ取ると、隣で座っていた灰二が立ち上がった。灰二を見上げ、視線の先を追って目を廊下に向ける。姿を捉え、あおも立ち上がった。
「季黄ちゃん」
「あおちゃん……!」
ミルクティー色の髪をばさりと下ろし、柴花高校の制服を綺麗に整えた季黄が泣きそうな表情を浮かべてこちらに走ってきた。その背後にはさっきまであおといた警察の人がいる。
「種田さんにどうしてもお礼が言いたかったそうですよ」
「もしかして、だからここで待たされていたんですか?」
「種田さんに会う前にすれ違った警察の方が、電話でそう話しているのを聞きました」
携帯を片手にこの場から辞した警察の人は、どうやらそういうことだったらしい。
季黄はあおの目の前まで来ると、深く深く頭を下げた。
「あおちゃんごめんなさい、本当にありがとう……!」
「ううん、それよりもあのまま無事に逃げられて本当によかった。怪我は? ……また顔叩かれちゃったんだね」
頬の大きなガーゼが痛々しい。でも季黄本人は思ったよりも元気そうで少し安心した。
「あたしは大丈夫。あおちゃんは? 腕切られたって聞いた」
「私も大したことないから大丈夫だよ。ありがとう」
あおが笑って見せると、反して季黄の表情は暗く沈んで目に涙を浮かべた。
「……あおちゃん、本当にごめんなさい。あたしたちが悪いの。あたしたちがみかりんに余計なこと言って、あの男のことも煽っちゃって、だからみかりんは殺されたしあおちゃんも巻き込んじゃって……」
警察の人から軽く概要は聞いた。あの男は高校生を騙して暴力を振るったりホテルに連れ込んだりとそういうことをしてきた人間で、今回のターゲットが同じバイト先の未果だったらしい。何となく相手を訝しんだ季黄と金髪の子——晴歌はあおが住宅街で見かけたあと、あの時の話の通りに未果と一緒にあの公園に行った。そして男と会った季黄と晴歌は本能的にこいつはダメだと察し、その場で未果を説得して逃げようとしたが逆上した男に捕まり……と、そういうことがあおがあそこに行く前にあったようだ。
「あたしたちのせいでみかりんは死んじゃって……ねえあおちゃん、みかりんあそこにいたんだよね? あたしたちのこと、何か言ってた……? やっぱり恨んでた……?」
季黄はぽろりと涙をこぼす。指導していた時にも季黄が泣くところは見たことがない。涙は、右は頬を伝ってガーゼに吸い込まれ、左はそのまま顎まで辿ってぽたりと下に落ちた。
あおは小さく息を整えた。
「季黄ちゃん」
「……うん」
「未果ちゃんはね、あの場で私に二人を逃がしてくれって必死にお願いしてたんだよ。自分が騙されたのが悪いって、二人は何もしてないのって。必死で私に訴えてた」
「……本当?」
「うん。だからきっと、未果ちゃんは季黄ちゃんのことも晴歌ちゃんのことも恨んでないと私は思うよ。恨んでたら、亡くなってからそんなこと言わないよ」
季黄はわっと顔を覆ってしゃがみ込み、声を上げて泣き始めた。
「みかりん……! あおちゃんごめん、本当にありがとう……!」
「二人を思って、季黄ちゃんもよく頑張ったね」
あおもしゃがみ、季黄の頭をぽんぽんと撫でる。ふと、季黄が支部にいた時、注意ばかりではなくちゃんといいところも伝えてあげたらよかったなと思った。行き着く先は同じになっても、季黄にしてあげられることはきっともっといっぱいあった。
「……あおちゃん、あたしね」
大粒の涙をこぼしながら、困ったように季黄は笑う。
「あの時、生まれて初めて視えたらいいのにって思った。まだ視えてたら、もっとちゃんとみかりんのこともはるちーのことも守れたのにって。ほんとに今更、なんだけど」
「……未取くんが言ってたよ。いつかこの先視えなくなったことを後悔した時、季黄ちゃんがぐずぐず言ってたら引っ叩くって」
季黄は一瞬きょとりとし、それから「そっかあ」と泣きながら笑顔になった。
「じゃあ、引っ叩かれに行かなきゃだねえ」
「……季黄ちゃん、今学校楽しい?」
ぽつりと尋ねると、間髪入れずに季黄は「うん!」と頷いた。
「実は高校入ってからずっと友達できなくってしんどかったんだけど、でもみかりんとはるちーと話すようになってからは本当に楽しくなったよ」
「そっか、それならよかった」
それを聞いて安心した。あの時の蹲ったあおが顔を上げて立ち上がれたような、そんな気がした。
「——きーちゃん! お姉さん!」
ぱっと顔を上げると、また別の警察に付き添われて晴歌が駆けてきた。季黄も駆け寄って抱き締め合い、それから晴歌が何度も何度もあおに頭を下げた。晴歌の手足には擦り傷が見えるが、こちらも大した怪我はなさそうで安堵する。
ずっと逃げてきた。迷ったら、悩んだら、面倒臭かったら、逃げてきた。
逃げるという言葉は、あおそのものだった。
しかしこの時、あおは、逃げなかった先の景色を初めて見た気がした。




