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頭上の空は今日も青い。  作者: めろん
◯第4章 青信号
23/26

4-4


 トイレの裏で、あおがまず見たのは地面に倒れた女の子だった。光の残滓が目に染みる。ばさりと広がった髪の毛はところどころ血に染まっていたが、根元の茶色から段々と淡いラベンダーに変わっていく珍しい色合いに気づいてあおはぞくりと鳥肌が立った。その目立つ色は、さっき見かけなかったか。

 引き絞られていた視線から無理やり意識を剥がし、あおはゆっくりとその場を見やった。

 血溜まりに倒れ伏した女の子、その死体のそばには二十代に見える男性がぬらりと立っており、身体と分離した彼女の魂は怯えるように震えていた。そして魂のそばには同じく恐怖に染まった女の子が二人。一人は壁にもたれて布を噛まされており、あおと目が合うとくぐもった声で唸った。ぼさぼさになった金髪のシニヨンが痛々しい。そして、金髪の子を庇うように抱き締めているのはミルクティー色の髪の毛——季黄だった。あおを捉えると、恐怖一色だった瞳に驚きが加わって丸く見開かれる。

「あおちゃ——」

「な、何だよお前!?」

 突然のあおの登場に一度空気が凍ったが、我に返ったらしい男性に血に濡れた包丁を向けられた。てらりと鈍色に光るその刃先からは血が滴り落ちており、これが凶器となって彼女が命を落としたんだと瞬時に理解が及ぶ。

 そして恐らく、あとの二人も殺そうとしていることを。

「……っ」

 震えが足から立ち上がった。殺人現場。こんなところに遭遇したことなど今まで一度もない。味わったことのない恐怖に頭が真っ白になる。呼吸の仕方すら忘れたように息が上がった。

 震える包丁の切っ先がこちらを向いている。金髪の子は縋るような眼差しであおを見て、季黄は何か惑うように視線を巡らせている。何を、と思ったのは一瞬、すぐに分かった。

 ああ、季黄ちゃんは目の前で亡くなった友達の魂を探しているんだ。

「あおちゃんごめん、あたし本当に視えなくて……。みかりん……でもはるちーも、」

 金髪の子は後ろで手を縛られているらしく、もぞもぞと身じろぎしては喉の奥で唸っている。季黄は頬に痣を作ってはいるが、金髪の子を連れて逃げようと思えばできたのだろう。それでもそうしていないのは、仮にも死神だったから死んだらどうなるか分かっているからだ。亡くなってしまった友達も放ってはおけなかったのだろう。

「ねえ、お姉さん未果のこと視えてるよね!? お願い、はるちーときーちゃんを助けてよお……! 未果が騙されたのが悪いの、二人は何にもしてないの! ねえお願い、お願いだから……!」

 魂だけの透けた姿で、二人のそばにいる未果は必死に言い募る。すぐ隣にいるのにその姿は季黄には視えていない。この場であおにしか聞こえない必死の懇願が胸に苦しく迫る。

 未果が亡くなった時点で生野の死神はこちらに向かっているはずで、自動的に警察への連絡も済んでいるはずだ。きっと、そんなに時間はかからないうちに誰かは来るだろう。その誰かさえ来てくれれば、この地獄のような状況はきっとどうにかなる。

 ……じゃあ、誰かが来るまでのそのあいだは?

 あおはごくりと唾を飲み込む。幸い、今日はバッグの中に特殊警棒も入っている。完全な丸腰ではない。

 引きそうになる足に力を込める。脳裏に一瞬、赤色が閃いた。

「——季黄ちゃん立って!」

 バッグを男に向かって投げつけ、寸前で取りだした警棒のグリップを握ってシャフトを振り下ろし伸ばす。男が怯んだ隙に地面を蹴って金髪の子のそばにしゃがみ、両手を縛られていてうまく身体を動かせない彼女を力任せで立たせる。そのまま季黄にその子を預けた。

「全速力で逃げて。生野の誰かがきっと向かってるから大丈夫。未果ちゃんも、まだここにいるから安心して」

「あおちゃん……」

「行って!」

 季黄の背中を手荒いが突き飛ばす。季黄はあおと未果を気にしていたが、やがて金髪の子を支えながらよろよろと走っていき、トイレの陰から出ていった。これでだいぶリスクは下がったとあおは警棒を握る手に力を込める。

「……てめえ、ふざけんなよ。何逃がしてくれてんだよ」

 端正な顔立ちの男は苛立ったように地団駄を踏み、あおのことをぎろりと睨む。血走った目はどう考えても異常で、ゆらりゆらりと包丁を向けて近づいてくるのに純粋な恐怖を覚える。

「やっとさあ、未果ちゃん捕まえたのにさあ。あの二人……好き勝手言いやがってまじ意味分かんねえ」

 男は未果の遺体のそばにしゃがむと、愛おしそうに真っ白な頬を包丁の側面で撫でた。付着していた血液がべったりと頬を濡らし、趣味の悪いチークのように浮いた。

「女の子はさあ、やっぱちょっと馬鹿な子がかわいいよねえ。見た目と嘘であっさりと騙されてくれるようなさあ。未果ちゃんは本当にかわいかったなあ」

 うっとりとする男に、あおの隣にいる未果が気持ち悪そうに身震いをした。

「それをあいつら、全部ぶち壊しやがって。あいつらも殺してやる、あと邪魔をしたお前もな」

「! ねえこっち来るよ、お姉さんも逃げないと……!」

 再び立ち上がり迫ってくる男に、未果が悲鳴にも近い声で叫ぶ。しかし今ここであおが踵を返すと、まだそう遠くまでは逃げられていないだろう季黄たちにまた危険が及んでしまうかもしれない。それは何よりも避けるべきで、となれば引くことはできなかった。

 それに、避けるべきはもう一つ。

「……未果ちゃんは私から離れないで。あと、黒いやつには絶対触らないで」

 男の背後にゆらりと現れた黒い靄に目を眇める。魂が喰らうものは未果が死んでいる以上いつ現れてもおかしくはなかったが、このタイミングでの登場は端的に言って最悪だ。

 この男に季黄たちを殺させないこと、自分の身を守ること。プラス、魂を喰らうものから未果を守ること。

 息を吸って、腹の底に力を込める。

「——私は死神の青!」

 ひゅっと伸びてきた包丁を避け、男の手首を警棒で叩いて切っ先の軌道を崩す。そのままの流れで逆手に持ち直し、こちらに向けられた黒い靄の手を薙ぎ払った。

「ご冥福をお守り致します!」

「何意味分かんねえこと言ってんだよ!」

 そんなの、自分の恐怖を打ち消すために決まっている。

 捕らえようと伸びてくる男の手を躱し、向けられる包丁を往なし、警棒で応戦しながら何とか立ち回る。振り回される凶器は怖いが身のこなしなどに訓練された動きは見当たらず、無秩序さは癇癪を起こした子供のようだ。捕まらなければいい、触れなければいい。冷静になれば、やることは普段と同じだった。

 立ち回るあおの背に未果はほとんどしがみついていたが、たまに堪え切れずに離れてしまう瞬間があった。それを見逃さない魂を喰らうものはすぐさま彼女を狙って手を伸ばしてきて、あおは慌てて未果を引き寄せて背中に隠し警棒で靄を散らす。そしてその一瞬の隙に男の包丁が視界に飛び込んでくるから、ほとんど反射で跳ねるように後ろに下がって躱した。被っていた帽子が反動で落ちる。

「——は、」

 無意識に止まっていた息を吐く。未果が泣きながら「ごめんなさい」とこぼしているのに首を振り、汗の滲む手中でグリップを握り直す。未果の死からそこそこ時間も経過し、そろそろ誰か到着してもいい頃合いだとは思うのだが、未だにその気配は感じられない。

「あーくっそ!」

 大きく振り上げられた包丁に、男のがら空きな脇を走り抜けながら警棒で横腹を叩く。うっと息の詰まった呻き声を聞いたまではよかったが、そのすぐあとにあおはくんと引っ張られてバランスを崩した。横目で探ると、ポニーテールの毛先を手荒く掴まれている。血走って厭にぎらついた眼差しが至近距離に在った。

 あおは踏ん張れないまま身をよじって抵抗するが、男はそのまま包丁を振りかぶる。警棒で受けるしかない、とあおは存外冷静に判断を下して腕を動かす。

 しかし。

「あ……や、いや……っ!」

 背中から離れていた未果が目を見開いて固まっていた。その目の前には魂を喰らうものの輪郭の揺らぐ手が。

 脳裏に閃いたのは、二度目の死に魂を散らした故人の姿。

 カチリと、あおの中で何かが音を立てた。

 あおは思いっ切り体重をかけて男に体当たりをし、ぶちぶちと髪の毛が引きちぎられる音を聞きながら振りほどいて体勢を変えた。未果に伸ばされた手を警棒で払おうとして、しかし人型を形取る黒い靄のちょうど喉のあたりに意識が勝手に収束した。キラリと赤い光が視えた気がして、あおは脊髄反射で切っ先をそちらに向ける、思い切り振り抜く。

 いつもはない手応えを覚えた瞬間、手元に痺れのようなものが走り、キン、と。金属が散っていくような、硬質な甲高い音が鼓膜を揺らした。未果の寸前まで迫っていた手の形が大きく崩れ、魂を喰らうものの全身が空気に溶けるように霧散していく。

 ——ああ、核を叩くってこういう感覚なのか。

 生まれて初めての経験にあおは一瞬状況を忘れたが、腕を掠めた鋭い痛みに一気に現実に引き戻された。

「はっ、どこ見てその棒振り回してんだよ!」

 男が哄笑を響かせて再度包丁を振り下ろしてきたが、今度こそ警棒でその刃を受け止める。幸い切られたのは左腕で、利き腕は問題なく動いた。

「あれはあなたに対してじゃない!」

「だから意味分かんねえんだよ、お前は!」

 ぐっと込められた力をうまく受け流して刃先を逸らし、あおはそのまま男の手首に思いっ切り警棒を振り下ろした。魂を喰らうものを払った時の空気を殴った感じとも、先ほどの核を叩いた時の感覚とも異なる、骨の芯を捉えた衝撃が警棒を介してあおにも返ってきた。

「ぐっ……!」

 呻いた男が思わず取り落とした包丁をあおは素早く自分の後ろへ蹴り飛ばした。手首を押さえながらも動こうとする犯人に警棒を向けて牽制する。凶器は失った、魂を喰らうものも核を叩いて霧散させた。切られた左腕からは出血しているが、それでも戦況はだいぶあおに傾いた。肩で息をしながら、あおは動きを封じつつそれでも万が一にはすぐに対応できるように警戒を怠らず睨み続けた。

 そうして、待ち望んだダメ押しがやってくる。

「——警察だ!」

 複数人の警察が一気にトイレの陰に駆け込んできた。犯人の男は身柄を拘束され、「大丈夫ですか!」とあお自身も制服の警察に保護される。

「あおさん……!」

「ああ、かえちゃん」

 どうやら現場に向かってきたのは楓だったようだ。見知った顔を見て、ようやっと色んなものが溢れそうになる。

「遅くなって本当にすみませんでした。高山の事故の、最後の一人を見つけたのでそっちの保護に手を取られていて……」

「! 保護できたの?」

「はい、無事に」

 楓の力強い頷きに安心する。事故の名残はずっと気になっていたのだ。

「それから芽吹と友達も、警察と一緒にいるのでご心配なく」

「そっか、よかった」

 ちゃんと逃げ切れたようで本当によかった。全部、ちゃんと大丈夫で終わった。あおは心底安堵して、それから安心したのか顔を覆って泣いている未果に手を向けた。

「あちら、お亡くなりになった未果ちゃん。あとはお願いします、カエデ」

「……はい、あとのことはこちら引き受けます。ご協力をありがとうございました」

 深く頭を下げた楓が未果に声をかけに行く。

 その様子を眺めながら、あおは大きく、大きく息を吐き出した。


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