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(三)
「ん-、はい、安定していますよ。検査の結果、特に問題はありませんねえ」
デフォルメしたマスコットキャラクターのような眼科医は、カチカチと端末を操作して画面を至近距離で眺めた。
「ああ、先月はかなり酷使していたんでしたね。以後、経過はどうでしたか?」
「あの日治療してもらってからは、痛みも疲労も徐々に引いていきました。それからはいつも通りです」
「何か違和感等は?」
「それも特にありません」
きっぱりとあおが言い切ると、先生はうんうんと満足そうに頷いた。
「記録上も、疲弊していた視神経は問題なく回復していますねえ。一応、先月も出した目薬と飲み薬を処方しておくので、体調に合わせて使って下さい」
「分かりました」
「はい、じゃあ今日はもういいですよお。お大事に、また来月」
「ありがとうございました」
頭を下げて立ち上がり、診察室を出る。薄暗くて陰気臭さを覚える廊下を抜けて、無関心な静かなさざめきが漂う待合ロビーの一員に加わる。平日だというのに普段より子供や学生が多くいるのは、終わり間近とはいえ夏休み中だからだろう。それが平素とは少し異なるだけで、見慣れた光景と空気感は先月とも半年前とも一年前とも全く変わらない。
あお自身を取り巻く環境は、先月と比べると大きく変わったというのに。
先月検診で病院を訪れたのは七月の上旬、高山支部で起こった事故の翌日だ。あの時はまだ季黄もいて、朱音も生きていた。たったひと月前だというのに、もう随分遠い昔のような気がする。
ぼんやりとしながら纏まらない思考に意識を取られていると、受付から「種田さんいらっしゃいますか?」と少し険のある声が聞こえてきてあおは慌てて立ち上がる。そのまま受付に向かうといつもの通りに保険証や処方箋を渡されるが、普段は感じない妙な迫力に気圧された。もしかしたら何回も呼ばれていたのかもしれない。「お世話になりました」と落とした声は意図せず尻すぼみになった。
保険証を仕舞うためバッグを覗くと、中には何故か仕事道具である特殊警棒が入り込んでいた。昨日の帰りに間違えて私物のバッグに入れてしまったのか。その記憶も自覚もなく、明日忘れないように持っていかなければと苦笑が落ちた。
いつもの薬局でお薬をもらい、あおはさてと立ち止まる。月に一回の検診日、いつもなら帰りに少し足を伸ばしてランチを食べに行くのがルーティンではある。時刻もちょうど昼前で、空腹まではいかないが腹も減ってくるタイミングだ。
しかし、どうにもそんな気分にならない。身体が重い。立っているだけで世界が不安定になり、ぐらぐらと地面が揺れるようだった。
「……帰ろう」
あおは一人呟くと、日除けのキャップを被ってのろのろと歩きだす。バスに乗れば自宅付近まで辿り着けるし何ならタクシーを拾ってもよかったが、歩く以外の行為をすることすら億劫だった。ゆっくり歩いて帰っても一時間以内には家に着けるだろう。
ぼんやりと歩きながら、あおの脳裏にはここ一ヶ月の出来事が目紛しく蘇る。浮かんで、消えて、言葉にも思考にもならない曖昧な形が蠢いて身体のうちを埋めていく。ここ最近ずっとこんな感じだ。惰性で動き続けているだけで、思考は遥か遠くに飛んで現実を留守にしている。
自宅方面へ向かうだろう道を適当に進む。どんよりとした曇天模様とはいえ八月のこの時間に散歩に連れだされ舌を出した犬とすれ違い、夏休みをギリギリまで謳歌する小学生がじゃれながらあおを追い抜かしていく。その周りの風景は全てただの情報として流れていき、あおの中には何も残らなかった。
ただ、途中で目を留めたのは。
「うっそ、みかりん告られたの!?」
「へへー、うん! バイト先の先輩なんだけど、もうめっちゃいい人でさあ。かっこいいし、いい大学行ってるし、お金持ちだし、あ、写真見る? いや、てか見てほしい」
「え、やば、かっこいいんだけど。はるちーどう思う?」
「……イケメンで好条件すぎて逆に怖い。騙されてない?」
「騙されてないよお! あ、何ならはるちーもきーちゃんもこのまま一緒に来る? 今からちょうど会うんだー」
三人の女子高生がきゃっきゃとさざめきながら信号を渡っていく。一人目は金髪をゆるくシニヨンに纏め、二人目は毛先にいくほど茶髪がラベンダー色に変わるグラデーションヘア、そしてきーちゃんと呼ばれた三人目はミルクティー色の髪をハーフアップに編み込んでいた。
「――季黄ちゃん」
あおは目を丸くし、キャップの鍔を掴んで目深に被り直す。幸い季黄は話に夢中のようで、あおに気がつくことなく角を曲がっていった。
心臓が変に軋む。いやそうだ、柴花高校は生野地区にあるから、季黄を見かけても何もおかしいことはないのだ。それは分かっているのに、どうしてか動揺する。
同じ制服を着た三人。随分と仲が良さそうに見えた。あの日、季黄は言っていた。視えなくなってから学校が楽しくなったと。それは、やっと普通の学生みたいに話せる友達ができたから、だったのだろうか。芽吹さんって、と偶然耳にした陰口も思い出したが、それでも今見た季黄は本当に楽しそうだった。
今まで見た季黄の笑顔が蘇る。故人を前にしても締まりなく浮かべられた軽薄な笑顔、誰に何を言われたとしてものらりくらりと躱す甘えたような笑顔、未取やほかの見習いたちと話している時によく見せた屈託のない笑顔。
『残念、あおちゃんなら分かってくれると思ってたんだけどなあ』
季黄とカフェで話したあの日、あの時の去り際も彼女は歯を見せて笑っていた。
普通を切望していた季黄。あおが知っている屈託のない笑顔を、今も見せていた。季黄は、焦がれていた普通を手にできたようだった。
よかった、と思うと同時に、色んな感情が綯い交ぜになったものもぐらりと湧き上がる。それは悲しいのか、嬉しいのか、怒っているのか、自分でもよく分からない。
でも、ただ。今、あおの中で、死神ではなくなるという選択肢が急速に質量を持って膨らんだ。
「……そっか、このまま辞めちゃえば」
環境そのものを思い切って変えてしまえば、否応なしに変わっていく周囲のことを考えなくて済む。置いていかれたと、取り残されたような自分勝手な感情を抱かなくて済む。仕事の端々に朱音を思い出さなくなるし、年下の男の子に朱音の面影を見なくて済む。
並べた結論は今のあおには有難いものばかりで、今まで考えたことのなかった転職という可能性が俄かにいいものに思えてくる。気が変わらなければ、本格的に灰二に相談してみてもいいかもしれない。
急に気分が楽になってきた。あおは幾分か足取りも軽くなり、下ばかり向いていた顔を上げた。今日は生憎の曇天模様だが、それすらも気にならなくて世界が明るくなったような気持ちにさえなった。
ここまでほとんど彷徨い歩いていたあおは、そういえば今どこにいるんだろうとやっと現実に気が回って足を止める。携帯で確認してみればまだ生野地区の管轄区域内だった。遠回りはしているが方向は間違っていないので、このまま適当に進もうと肩を竦める。気の向くままに散歩と洒落込むのもたまにはいいだろう。
少しお腹は空いてきたがまだ我慢できるほどで、途中で自販機を見つけて飲みものを買う。ペットボトルのスポーツ飲料は久しぶりに飲んだが、曇っているとはいえ夏の昼下がりで渇いた喉には驚くくらいおいしく感じた。
十字路になるたび勘で曲がり、信号に差しかかれば青信号で待たずに通れる横断歩道を選ぶ。そうして自由気ままに歩いていると、やがて公園のそばに出た。昼時だからか子供の姿は影も形もなく、園内はただただ蝉が叫んでいるだけでしんと沈んでいる。
公園を突っ切ろう、と思ったのは何となくだ。子供が遊んでいれば避けたかもしれないが、誰もいない公園ならば通りやすい。
あおは飛びだし防止で入り口に設置されている低い柵を避けて中に入り、広がる砂に足音と足跡を残しながら進む。ブランコやシーソーなど、どこにでもある見慣れた遊具は色褪せているが、同時によく遊ばれてきたのだろうなとその歴史すら感じる。そういえば一色町寄りの場所に大きな公園ができたと少し前に聞いたことがあるから、子供たちはそちらに遊びに行っているのかもしれない。
最後の足掻きのように声を張り上げる蝉の息吹を聞き流しながら、あおは無人の公園を歩いた。
――無人でなかったと知るのは、その直後だ。
「……っ!」
強烈な光が無防備な眼球に刺さってあおはたたらを踏んだ。受けた衝撃を拒絶するのではなく自分の中に受け入れて往なしながら、残滓が滲む視界で方角を確かめる。
近さ的には公園内……恐らくきっと、トイレの中か、裏手だ。ここからは人の気配は感じられないが、そこに誰かがいたらしい。
反射的に爪先を向けて、あおははっと足を止める。ここは生野地区の区域、一色の管轄内ではなく、それに今日あおは非番だ。近さを理由に保護しなければいけないと、そんな規則は死神にはない。
生野支部の死神は、その管轄区域の広さから常にパトロールとしてあちこちを見て回っている。だからきっと、そう時間はかからずに現場に辿り着くだろう。部外者であるあおが出しゃばる理由もない。それに今、あおの中で死神を辞めるという選択肢が一番割合を占めている。
……まあ、いいよね。
あおはうんと一人頷き、足をトイレではなく公園の出入り口へと向ける。一歩、二歩、三歩。靴の裏で鳴く砂の音を捉えながら、四歩目を踏みだす。
『種田』
背後から呼び止められた気がして、ぴくりと動きを止める。
『失敗は省みろ。後悔も省みろ。無視をしなければ、逃げなければ、それは全部自分の血肉になる』
腹の底で揺蕩う、大事な大事な言の葉。身体の深いところで種が芽吹くように広がり、大地に根差して筋の通った一本となる。
「——」
あおは拳を握り、きっと顔を上げて踵を返した。
公園の隅にそっと佇むトイレは年季が入っており、周囲に木々が多いこともあって少し陰気臭さを覚える。近づくたびに蝉の密度が高くなり、超音波のような鳴き声が感覚を鈍らせていくような錯覚を感じた。これだけ蝉が鳴いていれば、誰かいたのに完全に気配を消してしまうのは仕方がなかったのかもしれない。
トイレのすぐそばまでやって来ると、故人が放つ光の残滓はどうやら中ではなくトイレの裏手にいるのだと分かった。亡くなった瞬間から動いてはいないようなのでそれは助かるが、こんなところで息絶えるというのは病死だったのか。
何も考えていなかった。そもそも、普段の仕事中だって、故人を迎えに行く時にその死因などわざわざ考えない。
トイレの入り口を通りすぎ、そのまま建物に沿って裏に回る。ひょっこりと顔を覗かせる。
「すみません、死神の青と申し——」
「っ助けて!」
装填していた言葉は、鋭い悲鳴のような声に押し負けて消えた。




