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頭上の空は今日も青い。  作者: めろん
◯第4章 青信号
21/26

4-2


     (二)


 人間が一人死んだところで、世界は何も変わらない。朝が来ると日は昇るし、昇った太陽は夜を迎えればその身を隠す。太古の昔から繰り返されてきたサイクルは滞ることなく廻り続け、昨日も今日も明日も、等しく全ての人間に訪れる。

 世界は何も変わらない。けれど死んだ人間の周囲では、確実に変化がやってくる。

「今日付で一色支部の所属になる、椎名さんです」

 灰二の紹介を受け、すらりと背の高いその女性はにっかりと快活に笑って頭を下げる。

「椎名弥玄(みくろ)、三十四歳です。黒と呼ばれています。住所は一色町五丁目の五番地……あ? 住所までいらない? あはは、そらそーだね!」

 一人でケタケタとおかしそうに笑った弥玄は、見覚えのある愛嬌の滲む表情を浮かべて自己紹介をやり直す。

「ちょっと身内の介護の都合で町内に越してきて、所属してた支部がかなり遠くなったのもあって、ずっと近くの支部への異動願いを出していました。今回一色に配属されることになり、あたし自身はすごく助かっています。ここに空きが出た事情……草壁のことは本当に残念であり無念ではありますが……」

 弥玄は悲痛そうに眉根を寄せる。表情に真っ直ぐ感情が乗る人のようで、その面持ちは沈痛さを深く宿している。口振り的に、朱音とは既知の仲だったのだろうかと頭の隅で逃避のように考えた。

「草壁の代わりになるとは言いません。まーそも、二十代の癖に異例の早さで副支部長やってた彼女ほど仕事ができるわけじゃないし……って言うと木田さんに叱られそうですが」

 穏やかに微笑むばかりの灰二を見やり、弥玄はわざとらしいほどに肩を竦めてから生真面目に頭を下げた。

「副支部長、精一杯務めさせて頂きます。よろしくお願いします」

 口々に「よろしくお願いします」と頭を下げる周囲にはっと気がつき、あおも同じように礼をする。今更のように、だから新しい人が配属されたのかとぼんやりと思った。

 今いるメンバーを灰二が端から紹介していく。場に合わせて適当に笑ったり頷いたりしていると、目前で足を止めた弥玄にぴっと指を突き立てられた。

「あなたは知ってる! 青ちゃんだよね?」

 目の前の指先をぱちくりと見つめ、視線を弥玄の顔に向けると彼女は得意げな顔で口角を上げていた。短いベリーショートは清潔感のあるさっぱりとした印象を与えるが、覗く耳に開けられた大量の小さな穴にヤンチャな活発さを覚える。前に会った時、そこには確か大きなピアスがぶら下がっていた。

 あおは力を抜いて淡く笑んだ。覚えていたのか。

「種田あおです。……その節はありがとうございました」

 以前、まだ梅雨のころだった。季黄と揉めた元死神の故人の捕獲を、通りすがった他支部の人間に助けてもらった。あの時はジーンズにTシャツというラフな格好だったので一瞬気がつかなかったが、ざっくばらんな語り口と親しみやすい仕草にあの時の死神だと思い出した。こうして喪服に身を包んでいるところを見れば、ピリッと引き締まる空気感を自身の立ち居振る舞いでうまく相殺しているのが感じられる。

「いいえのことよーっと。そのポニテ絶対見たことあるー誰だっけーってずっと考えてたんだけど、胸ポケットのサングラス見て思い出せた。あたしも人のことは言えないけど、分かりやすい名前だと助かるねえ」

 うむうむと頷く弥玄の胸ポケットに引っかかっているのは大振りなスクエア型のサングラスで、そのレンズは名を冠した黒でなるほど分かりやすい。

「そういえばあの時いた見習いの子は? 黄色だっけ?」

 どきりとした。一瞬口ごもってから、「あの子は、」とあおは口を開く。

「季黄ちゃんは、死神を辞めたんです。視えなくなって」

「ありゃ、そうだったんだ。そっかー個性的で面白い子だったから楽しみにしてたんだけどな」

 残念、と肩を竦め、弥玄はにっかりと歯を見せて手を差しだした。

「改めてよろしく、あおちゃん」

「……はい、よろしくお願いします」

 あおはそっとその手を握った。大きくてあたたかい、生きた人間の手だった。

 弥玄は不思議な魅力を持った人だった。対応は時折大雑把さも感じるのに、邪険に扱われたようには思わせない。親しみやすさと締めるべきところはきちんと締める采配が心地よさすら覚える。あの日、手助けしてもらった時、あの時感じた不思議な印象そのままの人だった。

 最初、朱音の代わりに副支部長としてやって来た弥玄に、一色支部の死神たちは少なからず戸惑いがあった。それは弥玄自身がどうというわけではなく、朱音を喪った悲しさの延長だ。そこにいたはずの人がいない、そこにいなかったはずの人がいる。分かっているはずの現実は、それでも時々、ふいに、一瞬の行動や表情に影響を及ぼした。慣れないぎこちなさがぎしりと軋んでは、曖昧な空気に飲み込まれていく。

 しかしそれでも、弥玄は不思議な人懐っこさで一色支部に馴染んでいった。最初から時間の問題でもあったのだと思う。けれど、新しくやって来たのが弥玄だったから、一色支部はその現実に徐々にだが慣れていったのだろう。

 段々と順応していく周囲に、あおは取り残されていく感覚が日に日に強くなった。

 弥玄はいい人だ。楽しい人だ。仕事もできる人だ。

 しかしだからと言って、朱音の代わりになるわけではない。強くて厳しい朱音が戻ってきたわけではない。

 弥玄は朱音ではない。弥玄自身も最初に言っていた、朱音の代わりになれないと。

 そんな当たり前のことは分かり切っているのに、あおは変化していく現実にどうしてもついていけなかった。


「——戻りました」

「おかえり、未取くん」

「お、どーだった未取?」

「一通り、無事に終わりました」

「ん、よしよし分かった。じゃ、あとは報告書に纏めてね」

「はい」

 いつも通りの無表情で弥玄に頷いた未取は、そのままデスクに座って報告書への記入を始める。桃香がどこか心配そうにその姿を見つめているが、落ち着き払った未取は時々まだ見習いだということを忘れそうになる。

 現に、彼はまた一歩進んだ。

「で、未取。初めて一人で故人を迎えに行った感想は?」

「感想、ですか」

 弥玄は頬杖をつき、少し考え込んで動きを止めた未取を見守るように眺めた。

「……意外に何もなかったです」

「何もなかった?」

「未取くん、困ったこととか本当に何もなかった?」

「普通にできた、というか。今まで桃香さんと一緒に行ってましたけど、その時と変わらなかったです」

 見習い中の死神は、基本的に指導員の業務について回って仕事を学んでいく。故人を迎えに行く時も、迷子の捜索に出向く時も、一緒にいることが常だ。一人で行動できるようになるのは大体見習い期間の後半……四年目からが妥当で、早くても三年目からだとあおは記憶している。

 弥玄が一色支部に配属されてから少し。彼女は見習いである未取の挙動をよく気にしていた。「あれ本当に二年目?」と感心したように呟いていたのを耳にしたこともある。

 だから弥玄は言った。未取、今日は一人で現場に行ってみなさい、と。指導員である桃香も、その異例な判断に未取なら大丈夫と太鼓判を押していた。そして実際、未取は完璧に応えた。分かっていたことだが、それだけ未取の仕事に対する能力が高いということだ。

「ほんと肝が据わってんねー普段何食べてるの?」

「何……甘いものは好きです」

「未取くん、スイーツ食べる時だけはちょっと顔がゆるむよね」

「いいねえ、甘いものはあたしも好きだよ。……なんか、未取見てると見習い時代の草壁を思い出すんだよねー」

「朱音さんですか?」

 黙々と書類を仕上げていたあおは、その名前に思わずぴくりと反応した。心の深いところがじくりと痛む。

「そういえば、弥玄さんは朱音さんと関わりがあったんですか?」

「そう。何年目だったかは忘れたけど、当時いた支部に見習いだった草壁が配属された時があって、それからたまに顔合わせたりとかで。んーいや、未取のほうがあん時の草壁より冷静か。まだ一応、十代らしさがあったね。あの子も青い時があったんだよ」

「朱音さんの十代の時って想像がつかないです」

「そだ、あの子の妹も死神やってるの知ってる? 去年指導したんだけど、草壁と正反対で愛嬌のある子でねえ。橙花ちゃんっていうんだけど」

「え、朱音さん妹いたんですか?」

 未取は相槌を打ちながら、表情も声音も一ミリも揺るがない。桃香はくるくると表情を変えながら弥玄の話に興味津々だ。

 ……どうして普通に朱音の話ができるのだろう。あおは名前を聞いただけで動揺してしまい、手元が狂ってボールペンが紙面を走った。まだあおは、平気な顔で朱音のことを話すことができない。朱音が死んでからずっと、現実が手中からするりと抜けだしていって遠ざかっていく気すらしている。ずっと、朱音の棺の前に立ち止まっているような感覚だ。もう朱音の身体は焼かれて灰になり、その魂ですら存在しないというのに。

 弥玄が懐かしそうに思い出を話し、桃香があれはこれはと質問をして、未取は言葉少なく相槌を打つ。三人のそんな会話を聞き流しながら、あおは書き損じた書類をぐしゃりと丸めてゴミ箱に放り込んだ。

 葬儀の日、こちらが心配になるほど涙に暮れていた桃香は既に立ち上がって日常に戻っている。そういう風に、あおには見えた。死の瞬間という大きすぎる現場に直面しながら、それでも桃香は今までのように笑って過ごしている。

 どこまでも優しくて強い桃香。あれだけ泣いていたのに、どうして平気な顔をして立っていられるのだろう。桃香に限らず、ほかのみんなもだ。その強さ、あおには心底羨ましい。

「——ん」

「……」

「あおさん」

 とんと肩を叩かれ、あおははっと顔を上げる。振り返ると無表情の未取が立っているだけで、さっきまで事務室にいたはずの弥玄も桃香も姿を消していた。

「あれ……」

「夜明けです。見送り、行かないんですか?」

「え、もうそんな時間?」

 腕時計に目を落とせば、確かにそろそろ屋上に上がる頃合いだった。ぼんやりと考えごとをしているうちに時間が過ぎていて驚く。

「ごめんね、行く」

 あおは立ち上がり、事務室を出て外階段へ向かう。エレベーターで最上階に上がってから階段へ行ってもよかったが、何となく今すぐに外の空気を吸いたかった。

 八月の下旬。盆を過ぎたあたりから暑さは気持ち楽になった気がするが、それでも日中はぎらつく日差しが目に鮮やかで強烈だ。しかしまだ夜明け前のこの時刻、一日中注いだ熱がやっと冷めてきたのか空気はひやりと温度の低い玲瓏さを含んでいた。身体を舐めていく風が心地よい。空の端っこにほんの少し明るさが滲むが、まだ頭上には藍色と銀砂の星屑が煌めくのが見えて仄暗かった。

 古い鉄製の階段は、一歩上がるごとに鈍い音を立てた。一歩一歩踏みしめながら、あおは背後に続くもう一つの足音に苦笑する。

「エレベーターで行ってよかったのに。見張ってなくてもちゃんと行くよ」

「いえ、そんなつもりでは」

 あおの足音と未取の足音が静謐な夜明け前の世界に響く。

「あの、あおさん」

「うん?」

「……俺、あおさんは朱音さんのこと苦手なんだと思ってました」

 踏みだした一歩に力が入り、殊更大きな音が鳴った。

「……だから死んだら喜ぶとでも思ってた?」

「違います」

 振り向かずに投げた言葉は間髪入れずに否定される。その声音は少し不機嫌そうに感じた。

「俺はただ、もっと色々あったんだなって思っただけです」

「色々?」

「だって朱音さんが亡くなってから、あおさんずっと少しおかしいから」

 少しおかしい。そうか、傍から見たら自分はおかしいのか。

 どうしてか、ふつりと何かが切れた。

「みんな、大丈夫かなって心配を……」

「私、弱いからさあ」

 乾いた笑いが落ちる。空虚な笑い声が静かな世界に空回る。

「みんなみたいに強くないから。強くないんだよ。まだ普通に話ができない。朱音さんがもういないって現実にまだ追いつけてない。私が朱音さんのこと苦手だと思ってた? そうだよ、その通りだよ。私は朱音さんが苦手だったよ! 話しかけるのにも緊張するくらい、苦手だったよ! 未取くんは朱音さんと似てるから分かんないかもしれないけど!」

 ずっと朱音が苦手だった。真っ直ぐに前を向いて、いつも正しさと厳しさを持つ朱音が苦手だった。

 でもその朱音だって最初からそうだったわけではなかった。過去があって、それを乗り越えた結果の今だった。朱音の表層を見て苦手だと何となく避けていたあおは、朱音という人間そのものからずっと逃げていた。

 朱音がおいしそうにラーメンを食べてお酒を飲むのを、煙草を吸うのを、あおは初めて知った。初めてちゃんと向き合って話をした気がした。根底に残ったのはもらった言葉と、強い焦がれだった。

 苦手だった。しかし尊敬もしていた。そこへ、強烈な憧れが混ざったのはあの日からだ。朱音のようにと、そう思った。

 しかし、それからいくらもしないうちに朱音は死んだ。

「……俺は朱音さんじゃないですよ」

「分かってる。それでも、私は朱音さんと同じ強さを持っている未取くんが羨ましいよ」

 吐き捨てるように言ってから、七つも下の十代の男の子に何故こんなことを話しているのだろうと我に返る。吐き出してこの世に落ちた言葉を消すことはできず、あおは一度深く呼吸をしてから後ろを振り返った。

「ごめん未取くん、心配してくれたのに」

「……前から思ってたんですけど」

 未取はこちらを見透かすような真っ直ぐな眼差しであおを射抜いた。

「あおさんってよく『強い』って言いますけど、強さってそんな大事なんですか?」

 肺に新しく入れた空気ですらその動きを止めた。

「俺は今まで別に自分が強いとか思ったことないし、朱音さんのことも強いかって聞かれるとよく分かんないし……何ていうか、そういうのって他人に伝わらなくても本人が納得して持ってたらいいもんじゃないのかとか。なんか、そんな感じで思います」

 自分でも迷いながら言語化しているのが分かるほど訥々と話した未取は「あー」と困ったように耳の後ろを掻いた。

「なんか、よく分かんなくてすみません」

「……いや、私こそ変なこと言ってごめん」

「いえ。先、行ってます」

 カンカンと音を鳴らしながら階段を上がる未取は、完全に足を止めているあおを追い越して先へ行った。屋上へ向かっていくその背中は、もちろん別物だと分かっているが、やっぱり朱音に似ているなと目を細めた。


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