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◯第4章 青信号
(一)
八月上旬。連日、日本全国はまるで地球が発熱したような気温を記録していたが、その日は朝から雨が降っていた。直射日光がない分、身体に受ける熱はいつもよりマシではあったが、しかしそれでも空気中から水分が飽和しそうなほど高い湿度はじわじわと真綿で首を絞めるような苦しさを植えつけた。ぱたぱたと降り落ちる雨、滲む汗。不快な蒸し暑さが身体を蝕む。
桃香が泣いていた。未取が俯いていた。一茶が目を閉じていた。冬子が肩を震わせていた。灰二は真っ直ぐに前を見ていた。
生野支部の死神もいた。他支部で見たことのある、面識のない死神もいた。
あおたちとは違う位置で、一人の女の子がぼろぼろと泣いていた。たぶん、きっとあの子が朱音の妹なのだろう。ふわふわとした癖っ毛のショートボブに猫のような目は、朱音と似ていないようで、でもどことなく雰囲気は近いのかもしれない。
あおは、泣くことも嘆くこともできず、ただ呆然と周囲を眺めていた。
八月上旬。雨降るその日は、朱音の葬儀だった。
仕事で着慣れている喪服を、本来の役割で着用するのは随分と久しぶりだった。普段着ているのとは違うスカートタイプが何となく落ち着かない。そんなことをつらつらと考えてあおは現実から目を背ける。
けれど逃避をしたところで、目の前に広がる光景は抗いようのない現実だった。
花を持って立つ。棺の中、手向けられる色とりどりの花に埋もれるようにして朱音が眠っている。閉じられた目蓋は今にも開きそうで、青白い唇は今にも声を発しそうで、一瞬この状況を忘れる。つい先日、あおの目の前でラーメンを食べ餃子を食べ酒を飲み煙草を吸っていた朱音は、まばたきのあいだにむくりと起き上がりそうなほど、違和感がなくそこにいた。
しかし、丁寧に施されている化粧は先日とは違って死に化粧だ。化粧では隠し切れない傷と痣が、朱音の身に起こったことを知らしめる。顔が無事だったのは不幸中の幸いだったと、誰かが呟いていた。
「種田さん」
先を歩いていた灰二に声をかけられ、あおははっと我に返る。握り締めていた花をそっと朱音のそばに添えると、途端に感情が込み上げてきてぐらりと視界が滲んだ。
失敗は省みろ。後悔も省みろ。先日もらったばかりの大切な言葉が頭と胸の中に溢れる。おいしそうにラーメンを食らう姿が、煙草を吹かしながら珍しく浮かべた笑顔が、蘇ってはもうそれがこの世界に存在しない事実に苦しくなる。
「……あかね、さん」
ず、と鼻を啜り、溢れる涙を拭い、あおは頭を下げた。深く、頭を下げた。伝えたい言葉はたくさん浮かんで、けれどそのどれもが音にはできなかった。ただただ、眠る朱音に頭を下げた。そうするしかできなかった。
その場から離れると、穏やかに微笑む灰二がぽんとやわらかく背中に触れた。声のない言葉にこくこくと何度も頷く。口を開くと、色んなものがこぼれ落ちてしまいそうだった。
「――わたしが、」
身じろぎと囁き声だけが耳朶を揺らす中で、はっきりとした輪郭を持った声音が聞こえてきてあおは思わず振り返った。
棺の前に桃香が佇んでいた。真っ白な顔色は今にも倒れてしまいそうなほど血の気がなく、垂れ流される涙が頬と顎を伝ってぱたぱたと降り落ちる。桃香は焦点の合っていない眼差しで朱音を眺めていたが、そのうちくしゃりと顔を歪めてその場に崩れ落ちた。
「ごめ、ごめんなさい朱音さん……っ! わたしが、いたのに、何も――わたしがもっと、わたしがっ!」
桃香は持っていた花も取り落とし、両手で顔を覆って慟哭する。悲しさと、苦しさと、そうして深すぎる懺悔が涙と一緒に吐き出される。ほとんど金切り声に近い嗚咽を漏らしながら蹲る桃香はさすがに異質で、周囲の人間がざわつきながら遠巻きにその様子を見つめていた。
「あかねさ……ごめんなさい……っ、わたしが、わたし――!」
「……桃ちゃん」
「桃香さん」
桃香の後ろにいた一茶と冬子がそれぞれ肩を支え、宥めながらその場を移動する。桃香はふらつきながらも歩きはしたが、しかしうわ言のように「ごめんなさい……」と繰り返すばかりで、一茶が灰二とアイコンタクトを交わしてからそのまま外へ連れだした。途端、会場の中が水を打ったようなしんとした静けさを取り戻す。
一色支部の最後尾にいた未取は桃香が落とした花を拾い、自分が持っていた分と一緒に額に当てて祈るように目を閉じた。少しのあいだそうして動きを止め、目蓋を持ち上げるとそっと朱音に花を捧げる。その時微かに動いた口元は、聞こえたわけではないが「ありがとうございました」と言ったのが分かった。
未取はあおと灰二の元まで歩いてくると、一度堪えるように俯き、すぐに振り切るように顔を上げた。目尻に涙が滲んでいるように見えたが、いつもと変わらない表情で毅然と前を向く。この年齢で、この子はどこまで強いのだろうと未取の横顔に朱音の顔が重なった。
やがて出棺の時間が迫ったころに、一茶と冬子があおたちの元に戻ってきた。泣き崩れていた桃香の姿はなく、このあとの仕事に差し支えるから少し落ち着くためにと一足先に事務所に向かったらしい。一茶も冬子も今日は休んだらいいと言ったが、存外頑固な桃香は頑なに首を振っていた。あおもこのまま仕事だが、あの調子で大丈夫だろうかと心配が頭をもたげる。
そのあと、朱音は降雨の中で見送られた。火葬場へは家族と親戚の人間だけが向かったので、一般の参列者はこのまま最期のお別れとなる。朱音を乗せた霊柩車が見えなくなるまで、雨の中に佇んでいた。
今日、否、朱音が亡くなったと聞いてから、ずっと現実味がない。視界に映る景気は全部どこか他人事のようで、空の隅で唸る雷のように自分からは遠いところで時間が勝手に進んでいく。鯨幕や参列者が身につけたモノクロは色褪せた映画のようで、膜を隔てて眺めているようなそんな感覚にさせられる。痛みも苦しさも覚える。涙も出る。でも、それも、喉元を過ぎれば熱さを忘れるように、また他人事の顔をして現実を知らんフリする。
朱音が死んだ。言葉以上の事実にまだ追いつけていなかった。
「——さて、」
灰二が穏やかにみんなを見回す。
「そろそろ行きましょうか」
固まっていた一色支部の面々は、そうして解散した。シフトが入ってなくて家に帰る人、葬儀のあいだだけパートや他支部からの応援に任せていた事務所に戻る人。あおは後者だったので、同じく仕事の未取と一緒に事務所に向かった。互いに無言の道中は、ずっとやわらかい泥の上を歩いているような、足取りがふわふわしていて現実味がなかった。
幸運ビルに入る前に、葬儀場でもらった清めの塩を未取とお互いに振りかけ合う。そうしていつものように五階へ上がると、事務室には未だに涙を流す桃香がいた。
「……あ、あおちゃん未取くんおかえりなさい。終わったんだね」
「はい、無事に終わりました」
「そっか。わたし、途中でごめんね」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら困ったように眉を下げる桃香にあおは首を振る。
「いえ。……着替えてきます」
そのまま更衣室に入り、参列用の喪服から仕事用の喪服へと着替える。着慣れたシンプルなパンツスタイルは、やはり身につければしっくりと身体に馴染んだ。
タイムカードを押して、仕事のスイッチを入れる。引き継ぎを手早く終わらせ、溜まっている書類仕事に片っ端から手をつけていく。業務上、副支部長である朱音がいなくなった弊害は大きく、細かい仕事が少しずつ滞り始めていた。
管轄内で亡くなる人はおらず、しばらく事務室から動くことなくひたすら書類と向き合った。ボールペンの走る音、紙の乾いた音、人の身じろぎ。空気を揺らすのはそんな音たちだけで、静かに静かに時間が過ぎていく。
——否。
「……っ、ぐす……」
環境音に混じって、ずっと桃香の泣き声が響いていた。
「……俺、お手洗い行ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
未取が席を立ったのをきっかけに、あおはそのままずっと握っていたボールペンを手放した。デスクにかじりついていて凝り固まった身体をほぐすように、両手を伸ばしてうんと伸びをする。それからずっと泣きじゃくっている桃香に目を向けた。
「……桃香さん、大丈夫ですか?」
「うー、ごめんねあおちゃん。ずっとうるさいよね」
「いや、単純に心配というか……大丈夫かな、と」
朱音の棺の前に立っていた時のように取り乱しているわけではない。しかしずっと涙を流し続ける桃香がさすがに心配になってくる。仕事こそこなしているし桃香の泣き顔は普段からよく見ているが、それでも明らかに状況が異なった。
「……あおちゃんは、聞いた?」
「何がですか?」
一体今日何枚目になるハンカチなのか分からないが、ぐしぐしと慣れた様子で涙を拭う桃香はちらりとあおを見て、そうして目を伏せた。
「——朱音さんの、死んだ時のこと」
「っ、」
息が詰まった。言葉に詰まった。思わず動きを止めたあおには気づかず、桃香は伏せた目の裏で過去を視て言葉を落とし始める。
「わたし、いたの」
それはあおも聞いていた。知っていた。
「わたし、目の前にいたの」
桃香の目の前で、朱音が死んだということを。
*
その時、光を視た瞬間に立ち上がって現場に向かったのはいつもの通りに朱音だった。桃香が口を挟む暇なく、朱音は「自分が行く」と宣言してキビキビと事務所をあとにする。この日、指導している未取はお休みだった。
いつも通りが変わったのは、朱音から無線で連絡が入ってからだった。
『——こちら赤、』
落ち着き払った朱音の声は、声音こそぶれていないが激しく動いているのが伝わってきた。空気が喉を鳴らすようにごろごろと雑音が響く。
『故人と接触しましたが、二人現場にいました。亡くなったタイミングが完全に重なっていたようです。うち一名が死を拒み逃走中、現在もう一人を連れたまま追っています。応援を頼めますか』
「こちらピンク、すぐに向かいます」
桃香はすぐに事務所を飛びだし、朱音から報告を受けた方角へ向かう。その日は酷暑日で、雲一つない空でギラギラと強烈な太陽が空気を燃やしていた。
朱音と密に連絡を取り合い、細かく向かう先を修正しながら桃香は合流を目指した。夏休みの昼下がり、道中には遊んでいる小学生たちの姿がちらほらと目立つ。
やがて路地裏の道に入ると、走る朱音の後ろ姿が視界に入った。
「赤!」
朱音は背後の桃香を赤いサングラス越しにちらりと捉えると、こちらには何も言わず連れている故人に話しかける。手で桃香を指し示しながら状況の説明をしているところに追いつけば、「では」と朱音が話を切り上げる。
「こちらは頼みます、ピンク」
「はい、分かりました」
故人を引き受ければ、朱音はもう一段階走るスピードを上げてぐんと桃香たちを引き離した。角を曲がった時、一瞬だけ追う朱音の先に逃げる故人の背中が見えたが、すぐにまた道を折れて二人の姿を見失う。
桃香は故人と会話しながら、一応朱音たちのあとを追った。このまま先に事務所へ連れて戻ってもよかったが、もし万が一魂を喰らうものが現れた場合、迅速に排除できるのは朱音より桃香だ。力になれることがあればと、そう思った。
それが正しかったのか、間違っていたのか、桃香には分からない。
故人を連れ、朱音の報告を受けながら裏道や近道を通って先を目指す。うまい具合に挟み込みができれば一番有難いが、せめて二人の姿を捉えられる場所に出られれば御の字だ。
やがて細い路地を抜けると、大通りに出た。夏休みの昼下がり、車の往来は普段より多いように感じる。その向かいの通り沿いを朱音たちは駆けていた。
「お姉ちゃん……!」
二人の故人は姉妹らしい。逃げているのは姉のほうで、妹はハラハラと不安そうに見守っている。二人は車に乗っている時に事故に遭って亡くなったのだと、朱音から無線で聞いていた。
大通りを挟んだ向こう側の様子を窺いながら並走する。朱音は桃香たちが反対側にいることを分かっているが、故人の姉のほうは逃げることに必死で恐らく気がついていない。
どうにかこちら側に渡ってきてくれれば捉えられそうなのに……。
そんなことを考えていたからか。
「あ!」
歩行者の信号は赤だったが、故人は横断歩道へ飛びだした。行き交う自動車に怯むことなくずんずんと進む。桃香たち死神が故人に触れられるのは視覚で認識しているからにほかならず、存在を捉えられない一般の人間は故人に指一本触ることはできなかった。だから、赤信号に飛びだした彼女が再び事故に遭うことはない。
追っていた朱音は信号を見やって足を止めた。故人の姉は振り返り、朱音が止まったことにほっと安堵するように走る速度をゆるめた。あとはこのままこちらまで渡り切った時に桃香が捕まえれば万事解決だ。
しかし。
「——!」
止まっていた朱音が弾かれるように横断歩道に侵入する。桃香は背中に仕込んだトンファー型の警棒を手に取り反応したが、行き交う車に気圧されて動けなかった。
音もなく道路上に現れた黒い靄。魂を喰らうものはその手をぬらりと故人に伸ばした。彼女は突然目の前に出現したそれに足を竦め、表情を恐怖に凍らせた。
「あかねさ……!」
耳をつんざく複数のブレーキ音。その奔流の隙間で、朱音は一瞬も留まることなく故人の腕を掴み、思い切り後ろに引いた。ぐらりとよろめく身体を入れ替わるように自らを魂を喰らうものの前に晒し、朱音は警棒を振り上げる。
「——……!」
瞬間、桃香の視界は大きなものに横切られた。腹の底から鳴り響くような重低音。大型トラックは恐らく、人の姿を見つけて止まろうとしていた。しかし、それは間に合わなかった。
エンジン音の隙間で、ぐしゃりと鈍い音がした。
鋭く上がった悲鳴は故人の妹のものでもあり、周囲にいた通行人のものでもあった。桃香は目の前で起きている現実を理解できずに固まっていたが、しかし間近で鮮烈に閃いた光に目を焼かれて我に返る。
嫌な予感がする。嫌な予感がする……!
横断歩道上は件のトラックが塞いでいるので、桃香は後ろから回り込んだ。周りの車は起こった現実に混乱して立ち止まっており、下りたドライバーたちが「事故だ!」「おい大丈夫か! 誰か救急車呼べ!」と口々に声を上げていた。
その中心。倒れた喪服姿を見て、そのそばに立つ透けた姿を視て、桃香は唇を震わせた。
「……朱音さんっ!」
朱音は桃香の姿を捉えると、淡く笑んで自分の背後——突然の事故に固まっている故人の姉を指差した。凛と佇む強い朱音だから、故人を無事に保護することを何よりも優先させる朱音だから、それだけで何を指示しているのか汲み取ってしまった桃香は嫌だと首を振りながら手を伸ばした。
しかし、朱音は桃香の手を取ってくれなかった。朱音が選んだのは、死の淵から伸ばされた輪郭の覚束ない手だった。
「——」
触れた手の先からはらはらと崩れていく。灰が散るように、花が舞うように、砂塵がこぼれ落ちていくように。失われていく朱音という人間の輪郭に桃香はどうすることもできず、ただただ喉を痛めた。何を叫んだのか、自身ですら分からなかった。
夏休みの昼下がり、暑い暑い酷暑日。強烈なまばゆい日差しに朱音の魂の残滓は微かに煌めき、そうして魂を喰らうものにずるりと飲み込まれた。
朱音が死んだ。目の前で死んだ。二度死んだ。
桃香は手中のグリップを握り締め、騒然としている一般人の隙間を縫って魂を喰らうものの懐に飛び込んだ。一度魂を喰らった黒い靄は満足げに佇むばかりでその動きは鈍い。こうなることが分かっていたから、朱音は自ら選んでしまったのだ。
ほとんどそれを視ることなく、桃香はトンファー型の警棒を突き立てた。金属が悲鳴を上げるような、甲高く硬質な音。崩れる輪郭を見届けるのも嫌だった。
桃香は歩道で立ち尽くす妹を呼び寄せ、そのまま呆然と立ち尽くす姉の元に歩いてその腕をやわらかく掴む。
「……お二人のことは、確実にお守りして送り届けますのでご安心下さい」
その言は二人に放ったもので、桃香自身に言い聞かせるもので、そうして朱音に聞かせるためでもあった。
桃香は振り返る。血溜まりに倒れ伏せている朱音から少し離れたところに、彼女がかけていたサングラスが落ちていた。
赤いレンズは粉々に割れていて、ああこれすらもかと心臓がひび割れるように強く軋んで、サングラスの内側で桃香はやっと涙を流した。
*
「……ごめんね。あの日からずっと、あの光景が頭から離れないの」
「桃香さん……」
灰二から聞いてはいた。朱音が亡くなったのは業務中のことで、そばには応援に駆けつけた桃香がいて、そしてその目の前で故人を優先して死んだ。身体だけではなく、魂自体も喰われて死んだのだと。
——私は故人の魂を確実に保護できるように動き方を変えた。例え自分が死んだとしても、絶対に。
それは彼女自身から聞いた言葉だが、彼女は正しくそれを体現したのだ。自らの命を省みず道路に飛びだし、そして一度魂を喰らうと動きが鈍くなる魂を喰らうものに敢えて自らを差しだして故人の元に向かわないようにした。文字通り身を挺し、朱音は故人を守った。
ぐすりと鼻を鳴らしながら、桃香は次から次へとぽろぽろ大粒の涙を落とす。状況が状況とはいえ、止まらないそれがやはり心配で眺めていると、光が瞬いた。
「!」
あおはすぐに立ち上がったが、それよりもトイレから戻っていた未取のほうが反応が早く、更に泣き暮れている桃香も素早く動いた。
「俺、行きます」
「桃香さん、私未取くんにつくので無理しないほうが……」
「ううん、大丈夫。仕事だからちゃんとしなくちゃ」
まだ泣いている。それでも桃香は無理やり笑い、サングラスをかけて涙に濡れた瞳を隠した。
「じゃあ行こうか、緑」
「はい。いってきます」
「……いってらっしゃい、緑、ピンク」
二人の背中は真っ直ぐにしゃんと伸び、毅然と前を向いて桃香と未取は事務室を出ていった。
どうしてか、置いていかれたとあおは思った。




