3-4
(三)
「——でもまさか、季黄ちゃんが辞めるなんてね」
季黄が辞めて数日、あの日いなかった人にも情報が共有されて以降、事務所内での話題はそれで持ち切りだった。
「わたしも本当にびっくりしちゃいました……」
桃香はその話をするたびに、何度だって目を潤ませる。一茶はどこか大袈裟にため息を吐き、寂しそうな色を横顔に乗せた。
「俺、聞いたの次の日だからね。もう本人すらいないっていうね。私物もその日のうちに纏めてたらしいから、結局会えずじまいで挨拶もできずだし。季黄ちゃんのお母さんがお菓子持ってきた時には居合わせたけど、本人来てなかったしなー」
一茶は共有スペースに置かれたお菓子を見て、「今食べようかな」と立ち上がった。
「みんな何か飲む? ついでだから淹れるよ」
「え、いいんですか? じゃあ、わたし冷たいミルクティーが飲みたい、です」
一茶は視線をこちらに移して首をかしげる。
「あおちゃんと未取は?」
「あー……じゃあ、桃香さんと同じのを」
「俺も、それで」
「ほーい了解。ちょっと待っててねえ」
にこやかにオーダーを受け取った一茶が簡易キッチンに向かう。一茶はお茶を淹れることが好きらしく、時間がある時にはよくこうして飲みものを準備してくれた。名前にお茶が入っているからですかと冗談で聞くと、俺本当はお茶の精なんだよと謎めいた笑みを浮かべるお茶目な人である。
「……それにしても」
一茶がかちゃかちゃと準備している音を聞きながら、桃香がお菓子の箱を眺めてぽつりと漏らす。
「季黄ちゃんが視えづらくなってたなんて、そんなの全然気がつかなかったな」
「……私もです」
「……」
あおは季黄から直接聞いた話を思い出しながら一拍遅れて返事をしたが、隣に座る未取は無言で視線を手元に落とした。未取は普段から物静かで雑談にも入ってこないことはよくあるが、そういえば季黄の話題に関しては口を開く回数が圧倒的に少ないなとふと気がつく。傍目から見ても仲が良かったにも関わらず、だ。
もしかしたら未取は知っているのだろうか。季黄が心底願っていたことを、その選択を。
「早い遅いがあるとは言いますけど、間近な人がそうなって去っていくと、やっぱりすごく寂しいです……」
「だねえ。俺も前に同僚が視えなくなって辞めていくのを何人か見たことあるけど、何とも言えないというか……」
背を向けたまま、手を動かしながら一茶は懐かしそうに記憶を紡ぐ。
「一人、仲の良いやつがいてさ。その時同じ支部にいて、年齢も近かったからよく話すし休みの日も遊びにいったりして。でもあおちゃんくらいの時かな、そいつはいきなり故人のことが視えなくなっちゃった。予兆とかは全然なくて、本当に突然のことでそいつがかなり混乱してたのをすげー覚えてる」
「……わたし、今視えなくなったら困るな。死神しかやってきてないし」
「ああ、そいつも辞める時に言ってた。やっと見習い期間が終わって、正式に死神になって慣れきたのにどうしようって」
一つのことしかやってきてない上に、死神は特殊とも言える仕事だ。死神として何年も働いたあとに、自分の意思ではないところで続けられなくなり転職の必要性に駆られるというのは確かに困るし不安だ。もちろん、それは死神という職に限らず言えることではあるが。
「そう思ったら、若いうちに視えなくなるほうがまだやり直しやすい、のかもしませんね」
「選択肢は間違いなく広がるだろうしねえ。それこそ季黄ちゃんは学校にも行ってるし、これから楽しい人生が待ってるね、きっと」
くつくつと鍋で煮立つ牛乳の音が聞こえてくる。やわらかくあたたかみのある音は一茶と桃香の会話に微笑みかけるようだが、あおは何も言えずに口をつぐんだ。隣に座る未取も同様に。
この場の年長者である二人は、あおたちの反応を気にも留めず話を続けた。
「まあでも、視えてる人が視えなくなった時の弊害って、仕事に関わらない部分でも影響が出るよね」
「影響ですか? 生活リズムとか?」
「そういうのもあるけど、言い方は選ばなければ特権かなあ。その視えなくなったやつ、今でも連絡取っててたまに飲みに行ったりするんだけど、少し前に母親を亡くしてて。亡くなるのはまあ仕方がないことって分かってるんだけど、そいつ、今でも視えていたら、本当の最期の最後までその姿を目にして言葉を交わせたのにって結構悔しがってて。あんまり考えたことなかったけど、それは確かにあるなあって思ったんだよね」
「あー、そうですね。大切な誰かが亡くなった時、前は視えてたのに視えなかったら確かにかなりつらく思っちゃうかもしれませんね」
先日聞いた楓の話が頭をよぎる。近しい人間が死んだ時、視えない人間よりも共にいれる時間が長いのは死神の唯一の幸福と言ってもいいかもしれない。ギフトのような、ロスタイムのような、それが少しの時間だとしても。
「よし、もうちょっとでミルクティー入るからねえ」
「ありがとうございます、一茶くん。わたし、その前にお手洗い行ってきます」
桃香が席を立ち、一茶は背中を向けてミルクティー作りに意識を向ける。
だから、ぼそりと落とされた言葉はあおに向けられたものだとすぐに分かった。
「……季黄は、」
未取の無彩色を乗せた横顔を見やる。未取は自分の手元に視線を落とし、指先で整えられた爪を緩慢になぞった。
「あいつは、そこまで考えていませんよ。季黄は普通なんです。現状が嫌だった、自分の目が、死神が嫌いだった。ただ、それだけです」
あおにだけ聞こえる小さな声で、それでもしっかりとした輪郭を持って落とされる言葉は力強さを含んでいる。
「未取くんは、やっぱり知ってたんだね」
「はい、最初から知ってました。……怒りますか?」
こくりと頷いた未取は、珍しくおずおずとあおを見た。あおは首を振って視線を外す。
「ううん、別に怒りはしないよ。未取くんは沈黙することを選んで、季黄ちゃんはそれを望んだんでしょう? そこは二人の問題だし、それに何が正解なのは誰にも分からないから」
死神見習いという立場だけを考えれば、もっと厳しく本人を窘めることはしてもよかったのかもしれない。でも未取と季黄が死神という括りだけではなく友人関係を築いていたのなら、それはもう二人のあいだのことだ。部外者であるあおは何も言えない。
「最初、自分は視えなくなりたいって聞いた時、こいつは何を言ってるんだろうって思ったんです。季黄は規則ガン無視の格好してるし、あの通りヘラヘラしているので余計に。第一印象は最悪というか、俺とは考え方が違う人間だなと、仲良くなれる可能性なんて考えもしませんでしたし」
確かに、季黄の第一印象はなかなか強烈だ。あおだって季黄が配属された初日は目を丸くして驚いた。
「でも、季黄は真剣だったんです。死神の仕事は終始本気でやってなかったけど、それ以外のところ……特に、学校の課題なんかは真摯に取り組んでいました。季黄のほうが少し勉強が進んでいたので、分からないところは俺らが聞けば理解するまで教えてくれましたし、予習も復習も学校で課せられる以上のことを常にやっていました」
「へえ、季黄ちゃんが?」
「意外でしょう? 俺も、そういう部分を知ってからは季黄と普通に仲良くなれました。あいつ、人の懐に入り込むのが得意なのもあるし。だから段々……情が湧いたと言うと変ですけど、本気で普通になりたいって願う季黄のそれが叶えばいいと思うようになりました。見習いで季黄の本心を知っている人間は、たぶん全員そう思っています。そういうやつなんです、季黄は」
未取は一度目を伏せ、そして視線を持ち上げると遠くを見た。
「これからどうなるのかは分かりません。この時のことを後悔する時がいつか来るのかもしれません。でも、それでも俺は、大切な友人がこの先幸せに生きていければいいなと願っています」
先ほど一茶が話していた元死神の話や、以前楓から聞いた親が亡くなった時の話を思い出す。未取の投げられた視線の先を追うように、あおも脳裏の季黄の後ろ姿を見た。
「……そうだね。もしかしたら、いつか後悔する時が来るのかもしれないね。季黄ちゃん、未取くんも」
そして、私も。
「その時は甘んじて反省しますよ。それで季黄がぐずぐず言ってたら引っ叩いてやります」
滅多に笑わない未取が口角を吊り上げて挑戦的ににやりとする。
「……いい関係だね、二人は」
未取の珍しい表情に、思わずあおも顔を綻ばせた。
「……ねえ、もしかして種田さんじゃない?」
「?」
後ろからかけられた声に振り向いたのがいけなかった。
休みの日、他支部の管轄地域。いつもより足を伸ばして出かけていたあおはその帰り、バス停でバスを待っていた。時刻表を見ればあと五分もしないうちにバスが到着するようで、待っている人混みに紛れてあおは佇む。
そうしてかけられた声に振り返る。背後にいたのは女性二人組で、一人は長くパーマのかかった髪をふわふわと靡かせ、もう一人は金色に近い明るさの短い茶髪が綺麗にセットされている。化粧も丁寧に施され、身に纏う服装もファッション雑誌のモデルのようにお洒落で華やかさがあった。
まさか、同級生にこんなとこで会うなんて思ってもなかった。
「ね、やっぱりそうだよね?」
「ほんとだ、種田さんだ! 久しぶりだねえ」
きゃっきゃと声を響かせる二人に、一瞬周囲の目がこちらに集中した。あおはそれを知覚し、思わず口角を引き攣らせる。
「……久しぶり、だね。二人とも」
「本当に久しぶり! あれ、いつぶり?」
「成人式来てたっけ? え、もしかして中学卒業ぶりとか言わないよね?」
「うーんと、どうだったかな……」
軽やかな声が囀る小鳥のように止まらない。あおは気持ち二人から身を引きながら、ただただ苦笑を浮かべる。
二人とは中学校三年生の時に同じクラスだった。別に仲が良かったわけでもなく、逆に悪かったわけでもない。いちクラスメイトという特筆するべきことは何もない関係だった記憶だが、顔を覚えられていたことにまず驚いた。それで普通に声をかけてくるという点にも。
「えー、でも元気そうでよかったあ!」
「そういえば、あれ去年だっけ? クラス会あったんだけど、種田さん来てなかったよね?」
「そうそう! 来てないよねーってみんなで話した覚えがある!」
ちょうど一年くらい前だったか、お盆の時期だった気がする。確かに実家に届いたクラス会の知らせが転送されてポストに入っていたが、出席欠席の連絡を返すことすらせずビリビリに破いて捨てた。
あおにとって、中学時代に対する思い出はそんな程度だ。楽しかった瞬間がなかったわけではないが、それを凌駕する圧倒的な息苦しさの記憶がほとんどを占める。
「それで確か、種田さんの話で盛り上がったんだよあの時。ちょっと不思議で変わってたけど、そこがミステリアスで独特な雰囲気持ってたよねーって」
「種田さんとしゃべってみたかったって子、実は多くてさあ。クラス会に来なかったの、残念がってた子いっぱいいたよ」
にこにことした楽しそうな笑顔で、いつあったのかも知らないクラス会の様子を告げられる。無邪気な二人に他意はないのだろう。純粋に残念だったと、そう思ってくれていることだけはあおにも伝わる。
でも、それでも。
あおはにっこりと笑った。かちり、自身の心のうちで扉に鍵をかける。
「あー、そうだったんだ」
今そうやって言うなら、じゃあの頃、何か一言でも話しかけてくれたらよかったのに。ちょっと不思議、の程度の印象だったなら、遠巻きにして「種田さんって……」と囁かないでくれたらよかったのに。「ねえねえ何か視えるってほんと?」「えーじゃあうちらに何か憑いてないか視てみてよ!」そう、からかい混じりの笑顔でなんか絡まないでくれたらよかったのに。二人の、記憶と変わらない笑顔が当時の感情を連れてくる。
彼女たちが無邪気であればあるほど、ふつふつと蘇るものがある。当時、あお自身がコミュニケーションを怠っていたのももちろん悪い。でも、それでも。そうやって思ってしまう自分自身が醜いと、分かってはいるけれど。
じゃあ何であの時、と、繰り返し思ってしまう。今更当時の周囲の気持ちを知ったって、あの時の自分が息をしやすくなるわけではない。今の自分にとって、そうやって向けられることはもう救いにはなれない。あの時のあおはずっと蹲ったままで、今のあおは手を差し伸べられた場所にはもういなかった。
「それは申し訳なかったなー。その子たちに会うことがあったら、よろしく伝えてもらってもいい?」
「もちろん伝えとくよお!」
「ねえねえ、今度遊ぼーって時に種田さんにも声かけていい?」
それは疑問の形を取りながらほとんど決定事項のようだ、バッグから当たり前のように携帯を取りだした同級生はにっこりと笑んだ。ひくり、繕った笑顔の端が綻ぶ。
「あ、結構仕事忙しいから、なかなか日程合わないかも……」
「へー、そっか」
藪蛇だった、と思った時にはもう遅い。
「種田さんって、仕事何してるの?」
その何気ない問いに答えたくない。ただでさえ何それと言われる職業な上、中学時代のあおを「ちょっと不思議で変わってた」と捉える彼女たちが知ったらどうなるか。面倒ごとや無駄な消費になることをわざわざ蒸し返したくない。
「……ん-っと、」
何かいい誤魔化し方はないかと、あおは彼女たちから視線を外して逃げるように遠くを眺める。
あおが目を向けたのとほぼ同時に、四車線の道路を挟んだ向こうの歩道にチカチカと光を滲ませる故人が駆け込んできた。条件反射で一瞬ぴくりと動きそうになったが、そのすぐ背後に喪服に身を包んだ死神が迫っていたのでほっと爪先の力を抜く。以前よりも故人に対して焦燥を覚えるのは、間違いなくあの日の事故の残滓だ。
「種田さん? どうかした?」
「あ、ううん。仕事……何て言えばいいのかな……」
道向かいの故人と死神の動きを何気なく目で追いながら、あおはぐるぐると言葉を転がす。このままどうにかうまく言い逃れができないだろうか。連絡をもらったところで遊ぶ気なんてさらさらない。
故人が逃げる。死神が追う。その距離は目算で三十メートル前後と言ったところか。もうすぐ追いつくだろう。
それは、不意打ちだった。
「――っ!」
死神の声のない悲鳴が空間を震わせる。あおはその光景に息を飲んで目を見開いた。
逃げる故人の目の前に、魂を喰らうものが現れた。走っていた故人は止まることも避けることもできず、真正面から黒い靄に向き合う。死神が伸ばした手はその背中を掴むことはできず、そして深淵から伸ばされた手に故人は触れた。
触れられた箇所から腐敗が広がるように、恐慌に染まった故人の表情が散っていく。灰のように、砂塵のように、さらり、さらり。音もなく、悲鳴もなく、ただ、花が舞い散るように魂が散る。やがて人の輪郭を失い空に漂った細やかな魂の残滓を、ずるりと飲み込むように口を開けた魂を喰らうものの核に取り込まれた。あとには、何にも残らなかった。
生まれて初めて視る捕食の様子は、あまりに静かで、あまりに残酷で、あまりにおぞましかった。
故人に迫っていた死神が膝をついて慟哭する。バス停に佇む人たちが一斉に向かいの道路を見やった。
「……何、あの人」
「何か突然泣き叫びだしたんだけど……」
ざわつく無知の声音が心を抉る。何も視えていない人たちからすれば、あの死神は道端で突然泣き叫ぶという奇行を披露した変な人だ。人目を憚らず流す涙も、吐き出される謝罪と後悔も、その根底にある痛みなんて誰も分からず、ただ「普通じゃない人」と白さのある目線に突き刺される。
この場にいる人間で、あおだけが正しくその行動を理解できた。
「急にびっくりしたー」
「よく分かんないけど何かあったのかな。……種田さん?」
ぽんぽんと叩かれた肩にびくりとする。飛び上がるほどの過剰な反応に、叩いたほうも驚いたようで目を丸くする。
「えっと、大丈夫?」
「あ……わたし、」
じりじりと身を引く。まだ、向かいの道で膝を折る死神の泣き叫ぶ声が鼓膜を揺らしている。
「めちゃくちゃ顔色悪いよ?」
あおの顔を覗き込み、心配そうに伸びてきた手。伸びる手。重なる。触れる。散る。二度目の死。
「――っ、」
あおは向けられた手を避け、拒絶するように顔を伏せた。一歩、また一歩と後ろへ下がる。
「え、何……?」
「……あの、ごめん……私、帰るね――!」
そのまま駆けだす。背後から「種田さん!?」と名を呼ぶ二人の声と、死神の慟哭が追いかけてくる。
今更二人に何を思われようが、それが同級生たちに何と伝わろうが、既にどうでもよかった。
あおはただ、その場から逃げだしたかった。
これはあとから聞いた話だが、魂を喰らうものに食われてしまったあの故人は、高山支部のあの事故で保護できなかった二人のうちの一人だったそうだ。




