2-6
「——痛い、」
ぽつりと落とされた声はあおの隣ではなく、背後からだった。ちらりと視線を向ければ、季黄が連れていた故人が立ち止まっている。季黄は戸惑ったように、控えめに手を引っ張った。
「……行こう、お姉さん」
「痛い、痛い、」
「ねえ、お姉さん」
「——ッ、痛い痛い痛い!」
彼女が季黄の手を振りほどき、荒い息をこぼしながら鋭い視線を向ける。行き先のない憎悪のこもった眼差し。季黄はらしくもなく少し怯えた様子で、不安げに視線を巡らせながらそれでも彼女を落ち着かせようと手を伸ばした。
「お姉さん、だいじょうぶだから……」
「あんたに何が分かんのよ!」
パン、と乾いた音が鳴り響く。故人が季黄の頬を平手で打った。自分の頬を押さえて季黄は凍りつく。
「何で私がこんな目に遭わないといけないの!? 事故って、は!? 何で私が乗った電車なの!? ねえどうして!?」
荒らげられた声に周囲の死神たちの視線が集まる。
「嫌だ、死にたくなんてなかった! こんな死に方したくなかった! 顔面も身体も全部ぐちゃぐちゃになって、そんな、誰かも分かんない状態で死にたくなかった!」
故人は警戒を全身に貼りつけ、挙動でほかの全てを拒絶する。固まってしまった季黄の代わりに落ち着かせようとあおは彼女へ一歩近づいたが、しかし故人の背後に黒い靄が現れたのを見つけて瞬時に思考を切り替える。
「黄色、お二人を連れて早く待機場所へ」
「っ、あおちゃん待っ……!」
季黄の呼び止める声を無視して故人のそばを駆け抜ける。混乱する故人と魂を喰らうもの、最優先は魂を喰らうものの排除だ。真っ赤な夕焼けを背負うようにゆらゆらと揺らめく輪郭が伸ばした手を、あおは懐に踏み込んで一閃、ステップを踏んで後ろに跳び、体勢を整えてから更に逆の腕を落とした。そしてもう一歩踏み込み、頭部を警棒で振り抜く。
いつもならこれで故人を連れて逃げるところだが、今日はそうもいかない。逃げる先がなかった。ここで核を叩いて払わなければ、どこへ向かっていくか、どの故人を喰らおうとするか分からない。時間がかかったとしても、ここは確実に。
ざわざわと崩れた輪郭が再び描かれようとするのを牽制しながら背後を確認すると、季黄は呆然と立ち尽くすままで一歩も動いていなかった。季黄の頬を打った故人はまだ泣きわめいて進むことを拒み、さっき落ち着かせた老婆もまた虚ろになってしゃがみ込んでしまっている。
季黄は何をやっているんだと思わず舌打ちが落ちた。初めての大きな事故現場でやはり委縮してしまったのか、普段の底抜けな明るさが見る影もない。こういう現場でこそ、季黄の天真爛漫な性格は助けになるのに!
払うまで動けないあおとしては、故人を連れてとにかく一刻も早くそこから離れてほしかった。
「黄色!」
早く行けと言外に含む。魂を喰らうものが輪郭を繋ぎ直したので、あおは背後よりも前方へ集中する。ざわり、ざわり。黒い靄が人型を象ってゆらりと揺らぐ。核が視えたりしないだろうかとあおはサングラスをずらして目を凝らすが、残念ながらこの目では捉え切れなかった。
伸びてくる腕を払い、繰り出される蹴りを往なしながら、頭や胴を思い切り振り抜く。削って、削って、それでも核は視えなくてうんざりとしてくる。逃げて振り切ったほうが早いのに、と手癖のようにいつもの手法が脳裏をよぎった。
その一瞬のことだ。
「——っ、待って!」
悲鳴混じりの甲高い声が響き渡った。あおがそちらを見るよりも、魂を喰らうものが素早く反応をした。黒い靄の動きを脊髄反射で追い、踏みだされた一歩を切り伏せて返す腕で胴体を一閃。これで何度目か、ざわざわと大きく形を崩す魂を喰らうものを目の端に捉えながら背後を振り向くと、さっきの故人が季黄から完全に離れて逃げていた。悲鳴のような叫びは季黄の声で、伸ばした手だけが空しく走る故人の背に向けられている。
さすがに周囲も見逃せなくなったのだろう、数人の死神が彼女のあとを追って走った。動けない季黄のそばを駆け抜け、腕を掴んで故人の動きを止める。泣いてわめいて暴れる故人に、駆け寄った死神三人が真摯に声をかける。それは、心からの誠実な言葉だったのだろう。やがてゆっくりと、彼女が周囲の話を聞き入れだしたのがここからでも見て取れた。表情から、纏う空気から、たゆたう残滓から、棘がぽろぽろと抜け落ちていくのが分かる。
ひとまずは安心した。老婆の故人も一応大人しくその場に佇み、ぼんやりと虚空を眺めている。あとは目の前の黒い靄さえ払えば、今この瞬間、束の間の平穏が訪れる。
あおは魂を喰らうものに向き直った。崩れた輪郭を再生するのが先ほどよりも遅くなっている。きっともうすぐだ。もうすぐ。核が視えて、それを叩けば。
それは慢心だった。それは不慣れだった。真正面からの戦闘を避けてばかりのあおは、魂を喰らうものの輪郭が何割形を作れば実体を伴うかなんて、すっかり覚えていなかった。
「……っ、!」
突然視界が揺れる。身体がふらつく。サングラスが吹っ飛んでいた。裸眼に、辺りに散らばる故人の残滓が強烈に刺さって鮮烈に痛い。しかし眼球よりも、もっと明確にこめかみが痛みを叫んだ。
勝手に浮かぶ涙で歪む視界に、まだざわざわとたゆたっている黒い靄が見えた。そうしてはっきりと形作られている腕も。
魂を喰らうものに、殴られた。遅ればせながら、その現実を認識した。
痛みを堪えながら体勢を整え、あおは警棒を構える。黒い靄がまた人型を完成させた。
「——下がって!」
「!」
死角から飛んできた声に反射的にバックステップを踏む。立ち位置を入れ替わるように駆けてきた死神が、魂を喰らうものの喉元に特殊警棒を突き立てた。
瞬間、キン、と。終息が音を上げた。
「大丈夫っすか」
その死神の腕章には「生野支部」の文字。
「……カエデ」
散っていく魂を喰らうものの黒い靄を背中に、楓が不機嫌そうにため息を吐く。無言で手渡されたのは殴り飛ばされたあおのサングラスだ。幸い傷は入っていないようで安堵する。
「ありがとう、ごめん」
「いえ。後輩ながらすみません。核が視えたんで割り込ませて頂きました」
チッと落ちた舌打ちに深く忌々しそうな気持ちが込められているのが分かってあおは肩を竦める。こんな時でも楓は分かりやすい。
「青……!」
「……つか、それよりも」
おずおずと駆け寄ってきた季黄に楓はずんずんと近づき、彼女の胸ぐらを掴んだ。
「っ、かえでちゃ」
「芽吹! 預けられた故人を窘めることもしない、かと言って魂を喰らうものを払う援護にも行かない、お前は一体何を考えているんだ!?」
突然張り上げられた楓の怒声にびりびりと鼓膜が震え、ぶつけられた当人でもないのにあおはびくりと強張る。そしてその怒気を真っ直ぐに向けられた季黄は丸い目をぱちりとまばたき、ほんの一瞬だけ泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。しかし次の瞬間には勝気な光を宿して楓を睨み、彼の手を乱雑に振り払った。
「あたしは視えない! 楓ちゃんが視えるよりももっと視えていない! だからあたしがあおちゃんとこに行っても何もできなかったもん! できないんだもん! あのお姉さんもあたしの声なんか聞いてなかったもん!」
「できないことをしろとは言ってねえ、やれることを精一杯やれって言ってるんだ! おれは去年から!」
「去年のほんのちょっとだし楓ちゃんに指導されてたわけじゃないし! それにあたしは今一色支部にいるんだもん! 楓ちゃんは関係ないでしょ!」
季黄の言葉を受けて、楓の中で何かがぷつんと切れた。そんな音が、聞こえた気がした。
楓は季黄の後ろ頭を手荒に掴むと、「見ろ」と周囲の状況を見せた、落ち始めた夕焼けは空の端っこに燃えるようなオレンジを残して月を交代しようとしている。薄暗くなった事故現場はあちこちで大きな照明が焚かれ、凄惨な光景がはっきりと浮かび上がっていた。未だにめちゃくちゃに潰れた一両目の中の救助は追いついておらず、重機や救助隊が慎重に救出の入り口をこじ開けている。ほかの車両も損壊の激しい箇所にはまだ取り残されている人がいるのだろう、励ますような大声がここまで聞こえてくる。救護所は救急隊が駆け回るあいだから泣き叫ぶ声や悲鳴が時折響き渡り、救急車のサイレンがまた近づいてきていた。そうして同胞である死神たちも黄昏に溶け込むように動き回っており、あおが宥めた老婆や先ほど季黄から逃げだした故人も、どこかの死神が保護して待機場所に連れていっているところだった。
「お前が一人で抑えておけなかったからほかの死神が対処することになった。あのうちの一人は高山支部の人間で、事務所へ先導している要員だ。あの故人が暴れて逃げた時、思わず捨て置けなかったのか走っていった。おかげで数分前には事務所に向かって出発しているはずだったのに、多くの故人が待機場所に留まったままだ。今、あそこに魂を喰らうものが現れたらどうする? 誰か一人の行動次第で全体に支障が出る。こういう大規模な現場はそれがより顕著だ」
サングラスを外した楓が、季黄の子供じみた睨みなど比べものにならないほど迫力のある眼差しで彼女を射抜く。
「それでも関係ないと、お前はまだ言うか?」
「……でも、だって」
季黄が悔しそうに眉を寄せて俯く。握り締めた拳が小刻みに震えていた。
「……部外者がすみませんね、勝手なこと言って」
言葉とは裏腹に、楓は今度はあおを睨む。楓の視線は雄弁で、こちらを非難する意図が透けて見えた。あおは小さく首を振る。
「ありがとう、カエデ」
全部、言おうと思っていたことだった。朱音に言われたからは関係なく、季黄にちゃんと伝えなければと思っていた。
「――カエデ、出発する! 来い!」
「! はい、今戻ります!」
見覚えのある生野支部の死神に呼ばれ、楓が従順に返事をする。遅れてはしまったが、今から故人を連れて事務所へ向かう一団が出発するようだ。
「じゃあ、おれは行きます」
ぶっきらぼうに小さく頭を下げると楓は駆け足で戻っていく。残されたのは泣いてはいないが俯く季黄と、あおだけだ。
あおは息を吸うと、季黄の背中にぽんと手のひらを添えた。
「まだ終わってない。行くよ、黄色」
季黄は頷かなかった。返事を寄越さなかった。けれどその腕を掴み、あおは再び凄惨な現場へ故人の迎えに向かった。
とっぷりと日が暮れても救助活動は続いた。季黄はあれからも調子を変えず、あおのあとをただついてくるだけだった。指示をすれば従うが、自発的に動くことはない。季黄はずっと、帰るまでそうだった。
途中、事故現場に桃香と未取が到着し交代した。二人が使ったタクシーに入れ替わりで乗り込んで帰途につく。
その車内は言の葉が散り沈黙が滲んだ。運転手がかけているラジオの、場違いに明るい声だけが空しく響き渡る。現場を少し外れれば世界は何事も起こっていないように普通の日常が流れていて、たった今まで目にしていた光景とのギャップで少しだけ眩暈がした。
鮮烈な光を見続けて過敏になっているのか、窓の外を過ぎていく街灯がやたらと眩しかった。逃げるように車内に視線を戻し、あおはそうっと隣に座る季黄を見やる。楓に怒鳴られたあとのように、季黄はただ俯いていた。
「……季黄ちゃん」
返事はない。顔も上げない。季黄は下を向いたまま、重力に従う前髪が表情を覆い隠し、今何を考えているのか全く分からない。
「ほっぺた、大丈夫?」
「……まだ痛いけど。あおちゃんこそ、殴られたとこ大丈夫なの」
「私もまだ痛いけど、まあ」
「ふーん」
「……季黄ちゃん」
あおは、言わなければいけなかった。
「改めないといけないところは分かってる?」
「……例えば?」
愛想のない声だけが返ってくる。あおは息を吐き、自分の手元に視線を落とした。
「まずは、サングラスを忘れたこと。私ずっと言ってるよね? こういうこともあるから、普段から絶対に忘れないで。今かなり痛むでしょ、自分の目を守るためだよ」
「……」
「指示を受けたことしかやらなかったこと。任された故人を一人で落ち着かせられなかったこと。そのあと、立ち止まって追いかけなかったこと。凄惨な現場に飲まれてしまうのは分かる。でも動く術を、やるべきことを、季黄ちゃんはもう充分に知っているはずだよ」
「……」
「それと、既知とはいえ他支部の人間への態度。かえちゃんは季黄ちゃんよりも年齢も経験も上だよ。生野にいた時の二人の関係性を私は知らないけど、でもあの場でああいう態度を取るのはよくない。それにかえちゃんの言っていたことは全部正論で正しかった。忙しいあの状況で叱ってくれたのはかえちゃんの優しさだよ」
何を言っても季黄には届かないのかもしれない。あおの言うことなんて聞き流されるのかもしれない。
それでも今日は伝えなければいけない。ちゃんと見て、ちゃんと考える。それは具体的にどうすればいいのか分からないが、でも、今日だけは。言いたかったほとんどのことは楓がぶつけてくれたが、それでもちゃんとあおの口から、あお自身の言葉で。
「……ふーん」
季黄が身じろぎ、さらりと流れた前髪の隙間からあおを捉える眼差しが覗く。痛むのだろう、意識的なまばたきは季黄の眉間に皺を寄せる。
悪態を吐かれると思ったが、しかし季黄は意外にも冷静だった。
「あおちゃんも、案外普通のこと言うんだね」
起伏のない平坦な声は感情が読めなかった。あおは季黄の目を見返して肩を竦め、わざと明るい声を出す。
「一応、これでも普通の社会人だからね」
「あたしもだよ」
季黄が顔を上げ、うーんと両手を伸ばす。やっぱりあおの言葉は聞き流されたのか、彼女はケロッとしていた。
「あたしも普通だよ。これが普通なの。あおちゃんはもしかしたら分かってくれるかなって思ってたんだけど、あたしの勘違いだったんだね」
「……ごめん、何の話?」
話の流れが読めなくて首をかしげると、季黄はふるふると頭を横に振った。
「ううん、いいの。何でもないの。……あたしは普通になるんだもん」
そこで初めて、あおは季黄の様子がいつもと違うことに気がついた。現場の空気に飲まれたせいだと思っていたが、それにしてもいつもの季黄らしくないところが多くなかったのではないか? よくも悪くも今日の季黄は大人しかった。
「……季黄ちゃん、もしかして何かあった?」
少しの疑念と心配を込めてじっと季黄の顔を見つめると、彼女はぱっとあおを向いてにこりと笑った。
「何で?」
「いや、何となく……」
「アハハ、別に何にもないよお。まあ、さすがに事故現場は色々衝撃だったけどね!」
けたけたと笑う季黄はわざとらしくもあり、でもいつも通りにも見えた。あおの予感は杞憂だったかと、一瞬で空気と気配に思わされる。
「なら、いいんだけど」
「あー早く帰りたーい! ねえねえ運転手さん、法定速度無視して爆速で帰ってくんない?」
「こら、運転手さんに絡まない。……すみません、気にしないで下さい」
ミラー越しに苦笑を浮かべる運転手にあおは頭を下げ、いつもの調子を取り戻したらしい季黄の脳天に軽い手刀を落とした。