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頭上の空は今日も青い。  作者: めろん
◯第2章 黄昏時
12/26

2-4


「行け!」

 朱音の鋭い声にあおは弾かれたように走りだし、菅田と芹沢を追う。二人が曲がった角を折れると、幸い二つの背中はそう遠ざかっていなかった。しかしよかったと小さく息を吐いたのも束の間、あおと故人たちのあいだにまた別の黒い靄が現れる。

「――っ」

 間に合え。あおは駆ける。菅田も芹沢も、まだ背後のことには気がついていない。あおが追っていることも、魂を喰らうものが佇んでいることも。

 先に気がついたのは菅田だった。小走りで進みながらちらりと後ろを向いた菅田は、魂を喰らうものの姿を捉えた。眼差しが恐慌に染まって丸く見開かれる。菅田の違和感に隣の芹沢もすぐに気がつき、同じように背後を見た。スローモーションのように、その様がはっきりとあおには見えた。

 魂を喰らうものが輪郭を揺らがせながら手を伸ばす。恐怖に支配された二人の足が止まりかける。

「止まるな! 走って!」

 ギリギリで追いついたあおは警棒で黒い腕を散らし、二人の背中を力尽くで押しやって遠ざけた。警棒を逆手に持ち替え、動きを止めることなくそのままの流れで頭部を狙って振り抜けばざわざわと大きく形が崩れる。

 あおは踵を返した。

「行きます!」

 駆けだした勢いのまま、ぐいぐいと故人の背中を押して追い立てる。まだ状況に理解が追いついていない二人は混乱と恐怖でもたもたと足が重く、このままでは充分に距離が取れない。

 二人を急き立てながら振り返ると、黒い靄は再び人の姿を描き始めていた。次に備え、あおは汗の滲む手中で警棒のグリップを握り直す。

 耳につけた無線がザ、と耳障りな音を鳴らして鼓膜を引っ掻いた。

『――青、こっちは終わった』

「!」

 朱音の隙のない声に、あおは手早く状況を整理する。

「今もう一体現れて故人二人と逃げているところです。赤と別れた場所から約三百メートル、南東の方角」

『……ではそのまま北に向かって直進、コンビニがある十字路を左に曲がれ。その先で合流する』

「分かりました」

 まるで地図を見ているかのような淀みのない指令にあおは返事を落とし、故人二人にそのまま向かう道を伝えた。背後の魂を喰らうものが近づいてくるたびに警棒で払い、菅田と芹沢が捉えられないように立ち回る。そうして道を真っ直ぐ進み、やがて朱音の指示通りにコンビニが姿を見せた。

 背後を見やり、黒い靄と少し距離が開いているのを確認してからあおは二人より前に出た。先に角を曲がり、危険がないことを自分の目で確かめる。相変わらずの曇天模様だが、広がる道路の上には何もなかった。

「もうすぐ合流しますからね」

 曲がった先も淡々と走り続ける。菅田も芹沢も恐怖と疲れでぜいぜいと荒い息を漏らすばかりで、時折足がもつれそうになって少し危なっかしい。しかし走る速度が落ちようとも、魂を喰らうものとの距離がまだ安全圏だとも、完全に足を止めることはできなかった。

「……!」

 駆ける道の先、丁字路から飛びだしてきた影にあおは今度こそ安堵を覚えた。

「赤!」

 肩の上で切り揃えられた黒髪が神経質そうに揺れ、身体がこちらを向く。あおは思わず警棒を持った手を上げて大きく振ったが、朱音は冷静に一つ頷いただけだった。

 あおはその時、確かに気を抜いた。朱音と合流できた安堵、一人で二人を纏めて見なければいけない緊張感からの解放。張っていた気が、その瞬間、綻んだ。

「――種田っ!」

 朱音の鋭い声に一瞬身を竦めた。目から得た情報は鬼のような形相と怒気を孕んだ眼差しと走りだした朱音の姿で、あおは一拍を置いてからそれが焦燥と警戒を伴っていることに理解が及んで脊髄が凍りついた。

 振り返ると同時に駆けだす。あおの背後にいた故人の二人。まだ何も気がついていない。あおたち死神の反応にもしやと思ったのだろう、二人が後ろを見ようとするのが再びスローモーションのようにあおの目に映った。あおは警棒を握った腕を伸ばす。菅田の背中に今にも触れようとする黒い靄の腕。魂を喰らうものが故人たちのすぐ背後まで迫っていた。

 近い。危ない。間に合う? 分からない。届かない。触れてしまう。二度死んでしまう……!

 あおは懸命に警棒を振るった。足がもつれて体勢が崩れる。瞳孔が開いた視界の中で、辛うじて形作られた腕が霧散するのだけは見えた。しかし魂を喰らうものがそれで止まるわけではなく、すぐに反対の手が伸びてくる。

「っ、」

 体勢が戻せない。間に合わない。魂を喰らうものの手が、あおの目の前で、菅田の背中に――。

 瞬間、キン、と。

 ガラスの割れるような音がした。甲高く、耳の奥が軋んでざらつくような硬質な音だ。

 見開いた眼差しの中、一閃。伸びてきた警棒が吸い込まれるように黒い靄の核を捉えて砕いた。赤いサングラスのレンズの向こう、鋭い視線がやたらと鮮明に見えた。

「あか……」

 そこから世界は時間を取り戻した。あおは尻餅をついて地面に転び、菅田と芹沢が完全にこちらを振り向き、朱音がはあと大きく息を吐き出す。魂を喰らうものだった黒い靄は曇天の下に残滓が漂っていたが、それもやがて完全に霧散した。

「……お二人とも、何ともありませんか」

 滞っていた空気を破ったのは朱音だった。動き回って少し着崩れた喪服を整え、サングラスをかけ直してから投げられた、固く隙のない声音に故人二人がぴっと背筋を伸ばした。

「え、ええ」

「大丈夫、よ」

「青は」

 そのままの流れて平坦な声を向けられ、あおは慌てて立ち上がった。

「わ、私も大丈夫です」

「そうか」

 朱音は首筋をさすり、もう一度大きなため息を落とした。

「……芹沢さん、菅田さん」

「は、はい」

 身を固くした二人の正面に立ち、朱音は真っ直ぐと故人たちに向き合った。

「我々は故人の魂を守り、安全に冥府へと送るのが仕事です。また次の魂となって世界を巡るために、世界を渡れるように。それが仕事でもちろん完璧に遂行することを心がけてはいますが、しかし、ご本人たちの協力が得られなければ難易度が跳ね上がってしまうのもまた事実です。難しいことは言いません。こうして合流することにしたのは我々の判断ですので、会話をして頂くのも構いません。ただ一つだけ、お願いを申し上げてもよろしいでしょうか」

 朱音はそこで言葉を切り、深く頭を下げた。

「私たちから勝手に離れないで下さい。守れるものも手遅れになってしまいます」

 あおは身動きを取ろうとして、しかし動けなかった。朱音の表情は見えなくて分からない。声の調子はいつもとそう変わらない。けれどそこには、真摯で真っ直ぐな慈愛が確かに滲んでいた。

 あおの代わりに慌てたのは菅田と芹沢で、互いにわたわたと手を動かした。

「か、勝手に動いてごめんなさい」

「私も、本当にすみませんでした。だから、あの、顔を……」

 慌てる二人を知ってか知らずか、朱音がすっと姿勢を元に戻す。踵を鳴らして背筋を伸ばし、見慣れている隙のない空気を纏った。

「ここから事務所まではそうかかりませんが、頭の隅にでも留めておいて頂けると我々も助かります。……では、改めてとなりますが出発しましょうか」

 そうして隊列が自然と元に戻る。先頭に朱音、あいだに菅田と芹沢が並び、しんがりにあおがつく。

 歩きながら、その真っ直ぐに伸びた背中を眺め、そうしてあおは視線を落とした。


「……そっちも終わったか」

 菅田の手続きを終えて待機部屋に入れてから事務室に戻ると、先に終わっていたらしい朱音にそう声をかけられた。あおは一拍を置いて「はい」と頷き、ちらりと向けた目はすぐに逸らす。デスクに座って菅田に記入してもらった書類を確認していると、

「二人ともお疲れでしたねえ」

 カランと氷の涼やかな音を立てながらグラスが置かれる。冷たい飲みものがありがたく、あおは早速アイスカフェラテに手を伸ばした。

「……生き返る。ありがとうございます、一茶くん」

「いいえ。俺、留守番してただけだし」

 一茶はカフェラテのような色をした髪の毛を揺らし、ふわりと笑んで「朱音さんもどうぞ」とグラスを置いた。季黄の髪色は人工的なものだが、一茶の髪色は紛れもなく地毛だ。色素の薄い家系らしく、身内はほとんど薄茶の髪と透けるような瞳、真っ白な肌を持っているそうだ。そうした外見的な雰囲気と元来の性格も相まって、一茶はあおよりも朱音よりも年上だが年齢を感じさせなかった。

「ありがとう、工藤」

「いいえー。それより、大変だったみたいですね」

 一茶が浮かべた気遣いの苦笑に、あおはぎくりと目を伏せてカフェオレの水面を見た。

「ああ、まあ、そうだな」

「たまにいますよねえ、勝手に離れてっちゃう人。俺、肝を冷やしたこと両手で数え切れないくらいありますもん」

「……種田」

 ——ああ、やっぱり。

 かけられた声にあおは観念して立ち上がる。正直、朱音とはあまり話をしたくなかった。

「今日のことだが」

「あの、最後、すみませんでした」

 朱音の言を遮り、あおは先に頭を下げた。朱音が言わんとすることは分かっている。気を抜くな、ただそれに尽きる。故人たちが離れていったこと、それは仕方がない。問題はそこからどうカバーするかで、あおは完璧にこなせなかった。最悪の状況には陥らなかったが、しかし最善ではなかった。

「分かっているならいい、次からは頼むぞ。逃げる手段がリスクも伴っていることを忘れるな」

「……はい」

「それと先日、芽吹が故人と揉めたそうだが」

 やっぱり来たかとあおは目を伏せる。心臓が早鐘を打ち胃の底がぐるりと回って気持ち悪くなる。

「花井がうまく本人に言って聞かせたらしいな」

「……季黄ちゃんの扱いには慣れているからと、未取くん自身は言っていました」

「芽吹の指導員は誰だ?」

「私、です」

「指導の仕方は問わん。厳しくしようが優しくしようがそれはどっちでもいい。だが種田、もう一度言うが逃げるな。ちゃんと見て、ちゃんと考えろ。直接の原因は芽吹本人だが、今回のことはツケが回ってきたと思えよ」

「……はい、すみませんでした」

 逃げてはいないつもりだった。しかし朱音に言わせれば、「つもり」とついてしまう時点でそれは不十分なのだろう。ちゃんと見て、ちゃんと考える。それはどうすればいいのか、今のあおには分からない。

 口の中が苦い。あおはストンと力を抜くように椅子に座り、苦さが溢れる口内にアイスカフェラテを流し込んだ。冷たいカフェラテは苦味の中にふんわりとやわらかい甘さが混じっているはずだが、苦さばかりが感じられた。

「そういえば工藤、先週の報告書だが数点不備があった」

「え、まじっすか」

「今日中に直して再提出」

「うえー、はーい」

 一茶が渋々と朱音から書類の返戻を受け取る。朱音は玲瓏な氷の音を響かせながらカフェラテを口に含む。あおはそれを、ぼやりと眺めていた。

「——っ」

 視界の片隅で強烈な光が明滅する。真っ先に立ち上がったのは朱音で、あおと一茶は顔を上げて反応をした。

 この短時間のあいだで、三件目のどこかの誰かの死。

「私が行く」

 朱音がカフェラテを飲み干し、胸ポケットに引っかけていた赤いサングラスを装着して名乗りを上げた。

「え」

 声にならない声で呟いたのはあお、実際に声に出したのは一茶だ。

「や、ここは俺が行くところでしょ!? 朱音さんは、あおちゃんもですけど、今行ってたじゃないですか。休んでて下さいよ」

「工藤、お前あと十分で退勤だろ。それまでに書類仕上げて私のデスクに置いとけ」

「え、あ、あー……」

 一茶が時計と書類を見て、尻すぼみに声を消して眉を下げる。

「種田、警察に連絡だけ頼む」

「あ、はい……」

 あおが何か言葉を発する隙もなく、朱音がヒールの音を響かせながら颯爽と事務室を出ていく。とりあえず言われたことをとあおは受話器を手に取り、警察へ連絡を入れた。

「——はい、ではよろしくお願いします」

 電話を切れば、あとは待機だけだ。あおはと大きく息を吐いて背もたれに深くもたれる。

「……朱音さんは、」

 一茶が向かいのデスクに座り、あおを見て、やわらかい苦笑を落とした。

「すごいねえ」

「……はい、本当に」

 一茶につられてあおも苦笑いを浮かべる。ひやりとする立ち回りを終えてからまだ一時間も経っていない。だと言うのに疲弊の片鱗も一切見せずにまた次の案件へ、自ら名乗りを上げて向かった。一茶の予定を把握していたとしても、手が空いているあおに任務を押しつけてもよかったにも関わらず。

 ……私が行けばよかった。

 そう、思いはする。しかし咄嗟に動けなかったことも事実だ。朱音との反応の差は、そのまま性根の違いだ。

 あおのそういう性分は朱音にバレている。だから自分が行った。それはあおの意を汲んでのことではなく、単純に朱音自身が行ったほうが早いし確実だと判断したからだ。

 朱音はすごい。朱音は強い。本当に、心底そう思う。


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