最後に笑ったのは
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神様。叶わない恋をすることは、いけないことでしょうか。
相手の望まない愛を押し付けることは、罪でしょうか。
私、エニシャ・ナヴァールは、ナヴァール伯爵家に生まれた一人娘です。
この国では、貴族の女の子は幼い頃から親に決められた婚約者が居るもの。私も例外ではありませんでした。
8歳の頃、私のお屋敷にいらっしゃったその人は、とても可愛らしいお顔をしたお人形のような男の子でした。
私、その方を見て、一目で好きになったの。
柔らかそうな金色のふわふわした髪の毛と、優しい色の翠をしたその人の目に映ったその時から。
心臓がバクバクと速くなって、病気になってしまったんじゃないかと思うくらい。
でも、物語でよく読んでいたから、知っていたわ。これが“恋”なんだって。
人を愛する、気持ちなのだって。
それが分かった時、とっても嬉しかった。
将来の旦那様になる人を、こんなにも好きになれたということが。
けれどその人、セシル・ロベリア様は、最初から私に嫌悪感を示していた。
だって、見るからにお顔が不機嫌なんですもの。眉を寄せて、嫌そうに頬杖をつきながら、初めての恋に浮かれる私を眺めていた。
後で聞いた話なのですけれどね。
セシル様には昔から、とてもとても愛していらっしゃる幼馴染が居たの。
その人は私なんかと比べ物にならないくらい、華奢できれいで可愛らしい女の子だった。彼のお屋敷に行った時に初めてお会いしたけれど、きらきらと光る長い金髪を見て、「彼とお揃いだわ」なんて感想を抱いた。
それが、とっても羨ましかったわ。
私なんて、地味で目立たない亜麻色の髪。茶色の瞳。自分が他よりも可愛くなくて、地味なだけの女の子だって、その時ようやく分からされた気分でした。
彼と並ぶ彼女、ミシェルを見て、なんてお似合いなんだろうと、悲しくて堪らなかった。
でも、彼の婚約者は私。将来、夫婦となって共に一生を過ごすのは、私とセシル様。
だから私、一生懸命、彼に好かれるように頑張った。
お菓子を作れば、ミシェルの作ったものの方が美味いと言われ。
ピアノを披露すれば、ミシェルの方が上手だと言われ。
ドレスを着てパーティーに一緒に参加すれば、何で僕の相手はミシェルじゃなくてお前なんだと吐き捨てられ。
何をしても、彼の頭の中はミシェル、ミシェル、ミシェル。それだけだった。何をしようが、何年経とうが、私にはそれを変えることができなかった。
ええ、分かっています。
セシル様が好きなのはミシェル。
結婚したい相手もミシェル。
私は、彼にとって不要な存在。
何度も何度も泣きました。
彼が要らないと言った手作りのお菓子を持って帰って、自分の部屋で泣きながら食べました。
ミシェルの方が上手だと言われたピアノに向かって、涙をひたすら流しながら練習を重ねました。
ドレッサーに映る自分の顔を見つめながら、どうして私はミシェルのように可愛くないのだろうと、どうすればあの人に可愛いと言ってもらえるのだろうと思いながら、必死に自分に合ったお化粧の方法を考えました。
それでも、セシル様は私を見ない。
私のことを、振り返ってはくれない。
いつも嫌悪するかのように、私を睨みつけるだけなのです。
「セシル様っ」
お昼の時間。私はセシル様の元へと駆け寄っていきました。
名を呼ばれたセシル様は不機嫌そうに振り返ります。もう、慣れたことです。だっていつもこうなのですから。
「あの、お昼を一緒に……」
「すまないが、他を当たってくれ」
冷たい声で切り捨てられます。
それでも私はめげません。
「セシル様の好きなメニューをお作りしたのです。ですから、どうか……」
手に持っているバスケットを差し出すと、不快そうにそれを手でバンッと払いました。
バスケットは床に落とされ、中にあったサンドイッチが数個、ころころと地面を流れていきます。
「あ……」
「僕はミシェルと昼食を摂る約束をしているんだ。邪魔をしないでくれないか。こんな所で時間を使っていたら、ミシェルを待たせてしまう」
約束。
私との約束は、守ってくれたことなんてありませんのにね。
私が先に約束を取り付けても、当日になって、「ミシェルとの用事ができた」とだけ言って、すぐにその場を離れていきますのに。
床に落ちたバスケットをどうしようもなく眺めていると、セシル様は小さな舌打ちをしてから、どこかへと去っていきました。
「…………」
サンドイッチ、拾わなきゃ。
包み紙に包んであるから中身は汚れてはいないけれど、このままではここを通る他の方々のご迷惑になってしまう。
心は悲しんでいるのに、頭は冷静にそんなことを考えているなんて、不思議ですよね。
しゃがんで落ちたサンドイッチを拾っていると、少し離れた先に落ちていた一つを、どなたかが拾い上げてくださいました。
「!」
そのまま、ぱくりと拾ったサンドイッチを口に食みます。
誰だろう……そんなことを考えながら見上げると、そこには見知ったお顔がありました。
「アラン様……」
アラン・バルテ様。
セシル様の幼馴染で、昔からのご友人です。
黒い髪をさらりと流しながら、口に含んだパンを咀嚼し飲み込んで、微笑みかけてくれました。
「美味しいよ、エニシャ。君は本当に料理が上手だね」
柔らかい笑みを向けられ、私もほんの少し、口角を上に上げます。
……わたし、いま、笑えているのかしら?
もう、笑うことなんてあまりしていないから、きちんと笑えているのか分からなくなってしまったわ。
「アラン様、落ちたものなど食べてはいけませんよ」
「紙に包んであるのだし、大丈夫だよ。それより、君の作った美味しいサンドイッチが食べられなくなってしまう方が耐えられない」
「まぁ、……お優しいのですね、アラン様は……」
そう。アラン様は優しい。
今もセシル様が去っていった方向を見ながら、眉根を寄せて怒りを顕にしている。
「あいつ、本当に一度殴ってやろうか」
「おやめ下さい。そんなことをすれば、お二人とも怪我をしてしまいます」
「いいよ別に。セシルは痛い目を見なきゃ分からない奴だ。君の献身を、あって当然のものだと思ってる」
「…………」
「……君が止めるから、俺は未だにあいつの顔面を殴り飛ばせていないんだよ。そろそろお許しをくれないかい? エニシャ」
私にねだるように仰っていますが、アラン様のお気持ちは、とうに分かっています。
……セシル様が、私への酷い態度を改めないから。私を傷付けているのに、平然とミシェルの所へ行くから。友人として、彼は怒ってくれているのだと。
アラン様は、お優しい方です。
それでも、その優しさに、甘えるわけにはいきません。
「……それは、出来ません」
「エニシャ」
「良いのです、アラン様。セシル様が私を見てくださらなくても、私が、彼を勝手に好きでいるだけなので」
だから、当然の報いなのだ。これは。
彼が望まぬ愛を、一方的な感情を、私がしつこく捧げているだけ。
それが返ってくることなど、期待する方がおかしいのだと。私はもう、理解している。
「……エニシャ、泣かないで」
「……ごめんなさい、こんな所で……私」
「構わない。でも、君が涙を流す姿を見るのは、つらいんだ。……昔から」
神様。叶わない恋をすることは、いけないことでしょうか。
相手の望まない愛を押し付けることは、罪でしょうか。
だとしたら私、きっと。
こうして今も昔も、正しき罰を、天から受けているのでしょうね。
*
その日は珍しく、セシル様が一緒に街へ遊びに行くことを約束してくださった日でした。
前日や当日になればどうせ……、と思っていたのですが、いつもの「ミシェルの所へ行くから約束は無しで」という伝言は、私の所へは来ませんでした。
私は嬉しくなりました。
ドレッサーの前に向かってお化粧をして、普段は中々クローゼットから出さない、可愛らしいワンピースを身に纏って。
自分に出来うる限りの、とびっきりのお洒落をして、セシル様との待ち合わせ場所に向かった。
けれど、待ち合わせ場所に立っていたセシル様の隣には、────ミシェルの姿が。
目の前が暗くなりました。
どうして? どうして? と、疑問と悲しみだけが私を支配します。
それでも待ち合わせ場所へ足を運ばないわけにも行かず。ふらふらと、まるで幽霊のように私はゆっくりそこへと歩いていきました。
「遅いぞ、エニシャ」
いつも通りの厳しい顔。
それに気を遣うことも出来ず、私は「どうして、ミシェルが……」と震える声で問います。
「ごめんなさい、エニシャ。セシルが「今度エニシャと街に行くから、ミシェルも一緒に行こう」と誘ってきて……。二人に悪いと思って断ったのだけれど、今日の朝、セシルが……」
ミシェルは申し訳なさそうに答えました。
ええ、そうです。私には分かっていました。きっとセシル様が無理矢理彼女を誘ったのだと。優しい彼女を無理矢理、寮の部屋から引きずり出して連れてきたのだということを。
ミシェルはとても優しい女の子です。
セシル様が私との約束を放って自分の所へ来た時や、私に酷い態度を取った時、必ずミシェルは怒って注意をしてくれた。
けれど、そんなことはお構いなしで、セシル様はミシェル一直線なのです。彼女の制止の声も聞かず、ただ自分が彼女と共に居たいからというだけで、勝手な行動を繰り返しています。
そこで、ふと、思いました。
…………私のやっていることも、ミシェルに対するセシル様のものと、何ら変わりないのでは? と。
相手が望んでいないのに、勝手に愛を囁いてくる。
要らぬ言動や行動をして、相手を困らせる。
……乾いた笑いが出てしまいました。
そうか。そうだったのね。
私達、こんな所がお揃いだったなんて。今まで全然、知りもしなかったわ。
「別に良いだろう? ミシェルとお前は昔からの友人なのだから。それとも、ミシェルがついてくることに何か不満でもあるのか?」
ギ、とセシル様が私を睨みつけます。
その目が、昔から怖かった。私を敵だと認定して、今にも酷いことをしてきそうな。私を傷つける、どんな言葉が返ってくるのか不安で不安でしょうがなくて。
「セシル! ちょっと、エニシャに対してその態度は何なの?! あなたの婚約者は彼女なのよ?!」
案の定、ミシェルが怒ってくれます。
途端にセシル様はあわあわと慌て出して「ち、違うんだよミシェル」と言い訳をし始めました。
「僕はミシェルも居た方が断然楽しいと思って……」
「どういうこと?! エニシャと二人じゃ楽しくないとでも言うのかしら!」
「だ、だって! 僕は誘われた時から、乗り気じゃなかったんだ! それをエニシャが……」
ああ、やっぱり。
予想通りの彼の本音に人知れず微笑んだその時。
それを聞いたミシェルが私の手を取り、ずんずんと歩き出しました。後ろからは「ミシェル?!」と焦るセシル様の声が聞こえます。
「ミシェル……」
「……ごめんなさい。やっぱり、ついてくるべきじゃなかった。「ミシェルが来ないと僕はエニシャとの待ち合わせ場所には行かない」なんて言うから、仕方なくついてきたけれど……。もう許せないわ、私」
「……ごめんね。迷惑かけたよね……」
「全然そんなことない!! それよりあいつよ。セシルのこと。いい加減、何とかしないと。
自分の婚約者がエニシャだってこと、まだきちんと自覚出来ていないだなんて……、もういっそブン殴ってやろうかしら」
「そ、それはちょっと」
華奢でお姫様のような見た目に似合わず、ミシェルは豪胆な性格をしています。
今までに何度もセシル様から求婚をされていますが、それを全て突っぱねてくれています。それでも、セシル様はミシェルを諦められないのですって。
……本当に。私と、おんなじみたい。
「私、適当な所で別れて、学園の寮に帰るわ」
「ミシェル?! どうして」
「どうしてって、あなたまでそんなことを言うの?! このまま私が一緒についていくなんて、そんなの絶対おかしい」
「…………」
「いい? セシルが帰ろうとしたらこう言うのよ。『ちゃんとエニシャを楽しませて帰ってこないと許さないってミシェルが言ってた』って。
……こんなやり方、本当はしたくないけど。エニシャを放って帰ってくる方が、私には我慢ならないわ。折角、こんなにも可愛い姿で来てくれたのに」
「ミシェル……」
ミシェル、あなたは本当に、優しい子ね。
私のなけなしのお洒落にも気が付いてくれて。セシル様の態度に真っ向から怒ってくれて。
本当に、魅力的な女性だと思う。だからセシル様も、あなたを好きになったのね。
でも。
その優しさも、今は、とても痛いの。
「あそこの角を曲がって、そこで別れましょう。それまではセシルの目を誤魔化した方が────……」
────突然のことだった。
どこかで「馬車の馬が暴れてるぞー!!」だなんて叫び声が聞こえてきて。
大きな馬の鳴き声と足音を聞いた瞬間、もう、私達の前にはその暴れ馬の引く馬車が迫ってきていた。
(────あ、)
「ミシェル!!!!」
その声に、ふ、と、自分でもよく分からない笑みが、零れてしまう。
ああ。
こんな時でもあなたは、私ではなく、ミシェルの名を呼ぶのね。
それなら。それならば。
私は。
轟音が鳴り響き、馬車が道の壁に激突する。
突っ込んできた馬車を呆然とした表情で眺めていたのは、セシルと────ミシェル。
エニシャに咄嗟に突き飛ばされ、彼女は馬車の追突から逃れられたのだ。
対する、エニシャは。
「エニシャ?! エニシャ……エニシャッ!!!!」
「おい、女の子が馬車の下に潰されてる!! 早く助け出せ!!!!」
「ひどい……なんてこと」
泣き声と叫び声が周りを包んでゆく中、確かに。
(どうして、かしら)
────今までに無い、達成感を、感じていた。
*
目を覚ましたら、白い白い天井が視界に映りました。
状況が掴めないまま、何気なしに隣を見ると。
(あら?)
見知らぬ誰かが、私を驚いたように見つめていました。
知っているはずなのに、何故かどうしても、その人達の事を思い出せない。
「エニシャ!! 目が覚めたのね!!」
「ああエニシャ、よかった、良かった……!!」
エニ、シャ?
(それって、誰のことなのかしら)
前後の文章から察するに、これは、私のこと?
わたし、エニシャっていうの?
あら、どうしたことでしょう。
わたし、私のことを、なんにも知らないわ。
お医者様と名乗る方に言われたのは、私が「記憶喪失」だということ。
馬車に轢かれて、生死の境を彷徨っていたこと。
損傷が酷かった下半身には後遺症が残って、この先、自分の足で歩けるようになるかは、根気強いリハビリ生活にかかっていること。
そんな話を、どこか他人事のように聞いていた。
いえ、他人事のように、ではないですね。私にとって「エニシャ」は最早知らない人なのですから、この言い方に間違いはありません。
私が目を覚ました時、一緒に居てくれたのは私の両親らしい。
けれど、どれだけ名を呼ばれても、どれだけその泣いている顔を見つめても。彼らとの思い出は、何一つ、出てきませんでした。
それは悲しいことなのでしょう。だって私に会いに来る人、みんなみんな、泣いているのですから。
誰かが泣くことは悲しいことです。それは分かります。
でもどうして泣いているのか、そんな態度を取ってもらえるような価値が、果たしてこれまでの私にあったのか。
もう、分からなくなりました。
「エニシャ」
ああ、この御方は知っています。
私が目を覚ました時から、毎日この病室を訪れてくれている人ですから。記憶はなくとも、新しい知識がありました。
「アラン、様」
片目も包帯に巻かれているから、視界はまだぼんやりとしか見えないけれど。
この人がとても優しい顔でいつも私を見ていてくださっていることは、何となく分かりました。
「調子はどうかな」
「はい。だいぶ、良くなりました」
「そうか、本当に……よかった」
アラン様が私の包帯ぐるぐる巻の手をそっと撫でます。
「君が事故に遭ったと聞かされた時……生きた心地がしなかったよ。もし君が死んでしまったなら、その時は俺も……、……なんて、考えもした」
「それは、よろしくありません。アラン様はお元気なのですから、生きていていただかないと」
「ははっ、分かってるよ。全く、君は記憶が無くなっても変わらないなぁ」
どうしてでしょう。この人の笑顔を見ると、胸の辺りがぽかぽかと温かくなります。
身体の不調でしょうか。お医者様に一度、この症状をお尋ねした方がいいのかしら。
そんなことを考えながら、暫くの間、アラン様と楽しく談笑をしておりました。
ですが。
「……エニシャ……」
その声を聞いた途端。
ドクン、と、心臓が嫌な跳ね方をしました。
バッとアラン様が後ろを振り向きます。
私も同時に、そちらへ視線を向けました。
「まぁ、ミシェル」
知っているお顔を見つけてパッと心が明るくなりました。
あれはミシェルです。金髪に青い目の、まるでお人形さんのような可愛い女の子です。
どうやら私、彼女を庇って馬車に轢かれたらしく。毎日毎日病室へ来ては、「ごめんね、ごめんね、私のせいで」と泣きながら謝られたのを覚えております。
それを見ていると辛くて、大丈夫よ、あなたのせいじゃないわ、と、必死に彼女の涙を止めようとしたのですが。そうすると更に泣いてしまうので、毎回降参する他ありませんでした。
「そちらの、方は……」
…………誰、でしょう。
金色の髪に翠の瞳。綺麗な男の人です。
でも、思い出せません。
……いいえ、これは……。
「エニシャ、すまない。僕が悪かったんだ」
腕いっぱいの花束を持って、その方は涙を流しながら私に謝罪をいたしました。
けれど、私には何故謝られているのか、さっぱり分からない。
アラン様は私を庇うように、腕を広げて前に立ってくれる。
「セシル、何をしに来た!! 今更エニシャに謝ったところで、貴様の行いが無くなるわけではない!!」
「アラン、君は黙っていてくれ。僕はエニシャと話をしたいんだよ」
セシル。その名を聞くと、心臓の鳴りがより一層速くなります。
ああ、ああ、いやだ、いやだ。
その名は、その声は、ききたくない。
「……ごめんなさい、セシル? 様……」
「! エニシャ!!」
名を口にするだけでもぞっとした。
何だろう、この感覚は。自分でもよく分からないの。
でも、一つだけ、はっきりしていることがある。
「……それ以上、わたしに、近寄らないで……」
「は……、」
「あなたが、近くに居ると、心がざわざわするの」
────理由もわからない、嫌悪と悲しみ。
セシルが近くに居ると、心がそんなものに支配されてたまらなくなる。身体も思うように動かせないのに、心までそんな不自由になりたくない。
私の言葉を聞いたセシルは顔面蒼白で、手に持っていた花束をバサリと病室の床に落とした。
「……エニ、シャ……」
「酷いことを言っているのは、わかっています。ごめんなさい。
でもどうしても、わたし、あなたの傍にありたくないの」
「……エニシャ……」
アラン様が心配そうに私を見つめてくる。
対するセシルは、美しい金髪を掻きむしってその場に崩れ落ちた。
「エニシャ、ごめんなさい。セシルは私が連れて帰るわ」
「ミシェル、もう行ってしまうの?」
折角来てくれたのに、もう帰ってしまうのか。
そんなことを思いながら出した声は予想以上に残念そうなもので、それを聞いたミシェルはクスッと笑って言った。
「後でまた来るから、安心して。その時はゆっくり二人でお話をしましょう」
「本当? うれしい。ありがとう、ミシェル」
「……ううん。私は、あなたにお礼を言われる資格なんて無い……」
「……?」
「……いいえ、何でもないわ。それじゃあ、お邪魔しました」
床に蹲るセシルを無理矢理引っ張るが、華奢なミシェルの力だけでは動かせないらしい。
ミシェルの眉間に皺が寄ったところで、アラン様が助け舟を出し、一旦3人全員が病室を出た。
「…………」
ベッドの枕に頭をより深く埋め、息を吐く。
(あの感覚は、何だったのだろう……)
セシルを前にすると湧き上がる、あの感情。
とても一言では表せられない、けれどこれは、決してよいものでないことだけは分かる。
「……そういえば、あの人。
……結局、私とは、どういう関係だったのかな……」
呟いても、答えは返ってこなかった。
*
それから数ヶ月後。私はようやく退院することが出来た。
それでも下半身の後遺症は一生残る。私は当分、車椅子での生活になりそうだ。
久しぶりの我が家に帰ると、何となくだが、覚えのある感覚がした。
それを両親に言えば泣いて喜ばれ、「そうやって少しずつ思い出していければいい。焦ることはないんだよ」と優しく抱き締められた。
……私の周りには、こんなにも優しい人達が、たくさん居たのね。
今更だけれど、そんなことにも、今まで気が付けていなかったのだ。私は。
自室のベッドで休んでいた時、ドアの方からバタバタと何やら騒がしい声がする。
(…………?)
ふ、と目を開けると同時に。
バァン! と勢い良く自室のドアが開かれ、私が思わず身を震え上がらせた。
「だ、だれ……?」
「エニシャ!」
私の問いに、あの声が返ってくる。
────セシルだ。
「エニシャ……、退院、できたって聞いて、来たんだ」
髪や服装が何やら乱れている。何があったのだろう。
すると遅れて入ってきたのは私のお付きであるメイドのメル。
「セシル様!! あなたはもうこのお屋敷には来ないようにと旦那様から命じられているはずです。それを破るばかりか、勝手にお嬢様の部屋に入るなど……ッ、今すぐお帰りください!!」
メルがとても怒っている。しかし、セシルはそんな叫びも聞こえていないかのように、床に這いつくばって頭を垂れた。
思わぬ行動にぎょっとしてしまう。
「エニシャ! 僕が悪かった、本当にすまなかった……!! これからは心を入れ替える、君だけを愛すよ!! だから、婚約を破棄するなんて言わないでくれ!!」
「婚約……破棄?」
身に覚えがありません。
というか、私はこの人と婚約していたのですね。
……心がまた、ざわざわと嫌なざわめきを立てます。
「セシル様、お帰りください」
「!!」
「私はもう普通の人間のように歩くことすらままならない身体。このような状態で、あなた様を妻として支えることなど出来ません。
お父様もそれを考え、あなたとの婚約を破棄することになさったのでしょう。私もそれが宜しいかと存じます。ですので、もうこれ以上お話することはありません」
「エニシャ!! そんなことを言わないでくれ、君はあんなにも僕のことを愛してくれていたじゃないか!!」
「……愛……?」
首を傾げます。
愛。愛とは、一体何でしょう。
人を思いやる心? 他人に優しくできること?
今の私には、愛と言われても、何をどう指すのか不明でしかない。
「僕は、君の愛に胡座をかいていた。どんな扱いをしたって君は僕の後をずっと追いかけてきてくれていたから……」
「……セシル様は、ミシェルのことを大層愛していたと、周りの方からお教えいただきましたが」
「……ああ。確かに僕はミシェルが好きだった。昔から、何より一番の女の子だったさ。
けれど今は違う。気付いたんだ、君がどれだけ僕にとって大切な存在だったのか……。君を失いかけたあの時、僕はようやく、自分の真実に気が付いたんだよ」
「……真実……?」
「エニシャ、僕は君を愛している。ミシェルを好きだと思っていた気持ちは、幼い頃のものに引き摺られていただけだった。本当はずっと、君と一緒になることを夢見ていたんだよ!」
何を、言っているのか。
そんな風に捲し立てられても、本当はどうだったかなんて力説されても。私の頭には、上手く入ってきてくれませんのよ。
「セシル様は、私のことを、愛しておいでだったのですか?」
「そうさ!! 何をしても君は僕の元を離れない、そんな風に勝手に考えて、君を今まで蔑ろにしてきてしまったけれど……。失いかけたことで、やっと自分が真に愛していたのは誰だったのか、わかったんだ!! それはエニシャ、君ただ一人だ!!」
「それは、おかしいです」
「…………え?」
セシルが目を見開いて私を見つめる。
「わたし、あなたに愛されている感覚なんて、一切味わったことがありませんもの」
その言葉に、彼はそのままの姿勢で固まった。
目を丸くして、口を半開きにして……、なんだか、すごく滑稽だと思う。
「ねぇセシル様、私、あの時とてもよい気持ちになったんです。馬車に身体を潰された時。
なぜだか分かりますか?」
「…………」
「かつての私は、きっとあなたに恋していたのでしょう。必死にその想いを守っていたのでしょう。
でも、あなたからの愛を感じたことなんて微塵もなかった。この身体にそんな記憶はありません」
「……えに、しゃ」
「でもね、そんな中で────唯一、幸せだなと感じられた瞬間がありました。それは、ミシェルを突き飛ばして、彼女の身体を馬車の追突から守れた時。
『ああ、私の好きな人の大事な人を、私は守れたのだ』と。そう思った時ようやく、幸せで、得も言われぬ達成感に包まれた」
セシルは何も話さない。ただ、生気が抜けたように私の話を聞くだけ。
「私、あの時になってやっと、たった一度でも「セシル様のためになること」が出来たと思ったの」
────でも、そこで。
私の愛は、枯れてしまったのだと思う。
何もかもを投げ捨てて、好きな人のために動けて。
その達成感を得たことで、私の中にあった愛の残量が、きっと0になってしまったのね。
それでも、後悔はしていない。
あなたの大事な大事な女の子を守れて、大切な私の友人を守れて、わたし、心底うれしかった。
愛って何かしら。
愛していたら、その気持ちは無限に出てくるものかしら。
私には、もう、よくわからない。
愛を持っていないから。
「──そこまでだな。セシル」
ドアの方から落ち着いた低い声が聞こえた。
「アラン……」
「エニシャの両親は、お前がエニシャにしていた行いを既に知っていた。それでもエニシャがお前を好きだと言って、一心に慕うから、婚約を継続したままにしていたんだ。
だが、それももう無い」
「……うそだ、エニシャは、エニシャは僕とッ」
「往生際が悪いぞ。まだ分からないのか」
アラン様がセシルの頭を掴んで無理矢理上げさせる。
彼の翠に映るのは、私の姿。
「もう彼女は、お前を愛してくれていたエニシャじゃない」
パッ、と放されたセシルの頭は、そのまま床に勢い良く落とされた。
そして、セシルの慟哭が部屋の中に響き渡る。
どうして泣いているのかしら。
どうして悲しんでいるのでしょう。
これであなたは、私の邪魔が無い空間で、愛しいミシェルを一心に想えるというのに。
なぜ、この人は喜ばないの?
いくら考えても答えは出ず。私は何の感情もない瞳で床に這いつくばって泣く彼を見つめる。
お父様達が来てセシルを連れて出るまで、私はその「得体のしれない生き物」の泣き声を、静かに聞いていた。
*
「どうだ、エニシャ。綺麗だろう」
「ええ、本当に……」
あれから私は、アラン様と共に屋敷の近くを散歩していた。
当然私は車椅子状態なのだが、アラン様が快く車椅子を押して移動してくれている。
屋敷の近くに、こんな花畑があったのね。
この屋敷に生まれた人間なのだから知っていたであろうに、私はとても新鮮な気持ちでその景色を眺めていた。
なんだか、目が覚めたあの日から、世界が急に色をつけたようなの。
まるでそれまで、灰色の世界をひたすら歩いていたように思えるわ。
……どうしてかしら。
「アラン様、ありがとうございます。こうして、歩けない私の相手も快く引き受けてくださって」
「礼なんて要らないよ。俺は俺がしたいようにしているだけだ」
アラン様が背後で笑う気配がする。
この人の笑顔は、いつも胸が温かくなる気がして、私も嬉しくなってしまう。
「────エニシャ」
すると。
アラン様は車椅子に座る私の前に跪き、私の手を取った。
何事かと驚く私を真っ直ぐ見据えて彼は言う。
「今の君も、過去の君もきっと知らないだろうけれど。……俺は、ずっと君が好きだった」
「え?」
「セシルを一生懸命に想う君の姿がいじらしく、可愛らしいと思えて、いつしか自分がその涙を拭ってやりたいと思うようになった。……好きな人のために、ピアノも料理も頑張って練習していた君は、とても頑張り屋で素敵な女性だ」
「そんな……」
私にそんな風に思ってもらえる価値はない。……記憶はないのに、心がそう叫んでる。
どうしてこんな気持ちが生まれてしまったのだろう。記憶を失くす前の私は、どんな思いで、毎日を過ごしていたのか。
「いつか、あいつに全面戦争でも仕掛けてやろうかなと思っていたんだけれどね。君があまりにも献身的にセシルを想っていたから、この想いは封印しようかとも考えてたんだ。
そうしたら、……あの事件が起きた」
「…………」
アラン様が悲しげに瞼を伏せる。
「あの時、病室で眠る君を見て、俺は自分の気持ちに正直になろうと決めたんだ」
「…………」
「エニシャ、君を愛している。
たとえ歩けない身体でも、こうして僕が車椅子を押して共に歩こう。寝たきりになったとしても、僕が外の楽しいものや美しいものをたくさん持ち帰って、君に渡そう。何があろうと、俺は君と共に在るよ」
その言葉は、優しく優しく、私の心に染み込んできた。
……胸の辺りが、ぽかぽかと温まる。
まるで、中身の無くなった入れ物に、温かくて素敵なものを注いでもらっているかのような。
アラン様の手を握り返して、私は呟いた。
「私、愛って、分からないんです」
「うん」
「私の中の愛は、きっともう枯れてしまった。これから先、新たに生まれてくるかも分かりません。……それでも、あなたは、私と一緒に居てくれるのですか?」
「勿論だ。君が愛を分からずとも構わない。俺が勝手に君を愛するだけだから。
……迷惑かな?」
「そんな! そんなことは、ありません! 絶対に」
「そうか」
アラン様の嬉しそうな微笑み。
どうしてそんなに嬉しそうに笑えるのだろう。彼の愛に応えられるかもわからないのに、彼はそれでもいいと言った。勝手に私を愛するだけだから構わないと。
神様。叶わない恋をすることは、いけないことでしょうか。
相手の望まない愛を押し付けることは、罪でしょうか。
何度も何度も、心の中で考えたのを覚えている。
愛がわからない今の私には、答えなんて到底出せないものだけれど。
「あ」
すると、アラン様が立ち上がり声を上げた。
「エニシャ、見てごらん。日が沈んでいくよ」
彼の指差す方を見る。
綺麗な夕日が、少しずつ沈んで行く様が、そこにはあった。
(…………ああ)
あまりの眩しさに、目を細める。
「アラン様」
「ん? 何だ」
「私、今まで知りませんでした。
…………世界はこんなにも、美しかったのですね」
────そう言って、エニシャは笑った。