~芹沢 鴨~
登一郎 は剣も相応に使ったが、 それよりも筆を上手に使った。 絵筆を持っても画人顔負けのものを描いたが、 彼はたいてい毛筆に墨汁を吸わせて、せっせと文字を連ねた。
平山五郎の死に様を描き終えたとき、夜は白々と明けていた。いつもであれば日課の朝の散策にでかけ、本光寺の日秀につまらぬ四方山話を持ちかけては、竹箒でごみもろともに吐き出されて落ちをつけるところである。
だがこの日の登一郎は外気に触れる気が起こらず、鬱屈として過ごすうちに、夜になった。
ようやく空腹に気がついた登一郎は冷や飯に湯をかけただけの夕食を終えると少し気が晴れた。腹具合が気分の浮き沈みに繋がっている自分の俗っぽさを口の端で笑う余裕もでた。
登一郎の長屋には小さいながら庭が付随している。長屋の他の住人はそこで大根を育てたり、花を植えたりしているが、登一郎は鈴虫や火虫の楽土となるがままに放っておいた。
今宵はその楽土の不躾な闖入者となった登一郎は、枯れ葉の落ちた縁側の先客である蛾を一匹追払い、そこに腰掛けた。
月の弱い夜である。
昨夜は刺客の足音を掻き消すほどの雨であったが、夜空は今宵もその気配は失わず、雲が多い。月は十三夜あたりであろうが、雲間の月は波にあえぐような冴えない顔をしている。
平山も、時代という波に溺れて沈んでいったのであろうが、たとえそうであったとしても、平山は一途であった。刃抜きの剣とはいえ、対峙した登一郎には理解できることがある。常州、江戸、播州、相州と俗世の波間をさすらいはしたが、剣という一点をもって、平山はひたむきであった。
平山は死に登一郎は生きている。時代のわずか一幕の脇役とはいえ、その脇役を一筋に演じきった男に比べ、時代の傍観者を決め込んでいる己の生き様はどうなのか。登一郎は胸の内のけして浅くないどこかで、これまで感じたことのない疼きがあることを、弱い月明かりの下で知った。
登一郎の特徴のひとつは切り替えの速さである。このときも、そう言えばと、自問の話題を替えた。
平山と共に暴漢に暗殺された芹沢のことである。
芹沢鴨というどこか愛嬌のある名は変名だ。実名は下村嗣次というらしい。らしい、というのは、登一郎が芹沢本人からそう聞いただけで、余人からそれを裏付ける話を聞いたことがないからだ。
登一郎が芹沢と会話する機会を得たのは、ちょうど一月前、同じように十三夜あたり月の夜のことだった。
登一郎は例の角屋の女中のせんを肴に一杯やり、ほろ酔い気分で五条通をぶらりと歩いた。
登一郎の自己認識は曖昧である。元は武州多摩の百姓の伜だが多摩同心に属したこともある。しかし、武士という自覚を強烈に持っているわけでもない。そんなわけで、その夜、登一郎は長刀を腰に帯びず、草臥れた柄巻の脇差しだけを差すという中途半端な姿で、特段の恥ずかしげもなかった。
川面に映る月をすくってみてやろうと、風流を装った児戯心を起こした登一郎が鴨川の河原へ出ようとしたとき、争う声を聞いた。声量は抑えられているが、声には殺気が充ちていた。声よりもその殺気に、登一郎の肌が聞き耳を立てた。
河原に数人の人影があり、どうやら川面の月と戯れる風雅は持ち合わせていない様子だった。
昨今、珍しいことではない。攘夷志士を気取った不逞の輩が、善良に今を護ろうとする佐幕派の人物に天誅という音色の惨殺を働こうとしているのだろう。
常人であれば、ここで巻き添えは御免とばかりに退散するはずだが、その凶行を特等席で観てやろうと考えるあたりが、登一郎の好奇心のなせる技である。加えて、その場裡に卑怯な力の不均衡があるのなら、劣勢側に助力してもよいとする義侠心が首をもたげているのは、酔狂のせいである。
河原の葦をかき分けて、声が聞き取れる近さまで進んだ。人影は七つ。一人を六人が囲んでいる。この時点で、囲まれた一人に味方することを登一郎は決めた。とはいえ、まずは聞き耳を立ててみる。
「わいらは、あんさんらと手打ちしたつもりはあらへんで」
六人組の首領格と思しき男が、感情を喉奥に止めたというような重い声を出した。
「それで、どうしてぇのが。面倒ぐせぇごと言ってはいげねぇぜ」
劣勢のはずの一人にはずいぶんと余裕があるらしく、どうやら夜空を見上げているらしい。ちょうどのそのとき、雲間から月が顔を出し、河原を夜底に浮かび上がらせた。
登一郎は目を見張った。囲まれている男は新撰組筆頭局長、芹沢鴨ではないか。新撰組隊士ではないから面識はないが、近藤のもとに出入りしている登一郎は、当然、その名と容姿を知っている。
芹沢を囲んでいる六人はいずれも恰幅が常人越えしており、晩秋の寒夜にも関わらず、筋骨隆々の上半身をさらけ出している者もおり、手に手に、八角棒やら短刀やらの得物を握っている。
新撰組の部外者のくせに新撰組隊士よりも内情に詳しい登一郎には、このときの場景だけで、ここに至った事情を了知できる情報があった。
この年の晩夏六月、大坂に群がりはじめて不逞浪士の取締りを、大坂奉行所だけでは到底おぼつかぬとて、新撰組への出張依頼があった。求めに応じた芹沢は、腹心の平山のほかに永倉や斎藤など二十名余りの隊士を率いて大坂に乗り込んだ。夏日のこととて、不逞浪士よりも暑さに辟易した一行は、一日、淀川の舟涼みに出ることになったのだが、その帰路に大坂相撲の力士一人といざこざを起こし、癇癪のまにまに芹沢はその力士を斬り捨ててしまった。面目を潰された大坂相撲の力士は当然のごとく憤怒し、芹沢らが登楼していた遊郭の一楼を数十人で取り囲んだ。多勢を前に怯むような芹沢たちではないから、そこで大立ち回りの乱闘となり、力士側に多数の死傷者が生じたが、この一件は、新撰組も大坂相撲も、相手を誰とも言わずに大坂奉行に届け出、大坂相撲側が折れる形で一応の落着はみていた。その手打ちの宴会で、新撰組を敵に回して後々の興行の不為になってはいけないと、大坂相撲の年寄は、清酒を献上するやら、金子を添えるやらして芹沢の機嫌を取り、一月後の京都興行の際には、新撰組のために放楽相撲を催すことまで約束した。
こうして大坂相撲との因縁は解消したかにみえたが、斬られ損となった力士の中には、年寄共のあまりの低姿勢に、憤懣を太鼓腹の中に納めきれない者もいた。
さて、相撲の京都興行は大盛況を呈し、約束通りの放楽相撲が壬生で催され、こちらも新撰組の面々大満足のうちに終わった。ところが放楽相撲が終わり、新撰組への恨みと年寄への苛立ちを持ち寄って酒盛りをした不満力士たちが酒場を出たとき、幸か不幸か、彼らの酔いどれ眼に、夜道を供も連れずに歩く芹沢の姿が映った。
憎き芹沢の姿を見間違えるはずはない。酒の酔いが力士らの血気を高めていたこともある。力士らは相談の必要もなく、芹沢を夜討ちすることに決めた。
だがこの芹沢、力士ら以上の鬼気を漂わせていたのである。
実はこの日、芹沢は、新撰組を預かる会津藩が、後に彼の処置を近藤らに命ずることになる決定的要因の暴挙を働いている。
壬生での放楽相撲に痛快の祝杯を挙げていた芹沢は、日が落ちると人が変わったように不機嫌となり、葭屋町通りで生糸などを商う大和屋に乗り込んで多額の献金を要求した。主人の不在を口実に献金を拒否されると、忿怒した芹沢は多数の隊士とともに大和屋を焼き払った。そのときの鬼気を引きずったままの芹沢を、力士たちは目撃したのである。芹沢がなぜひとりだったのかは彼自身に尋ねるしかないが、芹沢の側を離れない平山すらたじろがせる凄みの雰囲気があったのだろう。
ともかく、芹沢という人物は、病的な精神の不統合が、常に暴発の危険を孕んでいるという人間であった。今、豪快に笑ったかと思えば、次にはあたりを凍てつかせる怒気を放っているという具合で、あるいは多重人格者であったのかもしれない。
さて、そのような経緯で、芹沢は不満を暴発させた力士らに囲まれており、登一郎に葦原の狭間から覗き見られるという事態に至っている。
「なんもややこしいことあらへん。われを袋叩きにして、鴨川に放り込んだるだけのことや」
熱り立った一人の男が、八角棒を上段に振りかぶってにじり寄った。
「そうが。丁度よい」
殺気に囲まれていると、かえって鬼気は鎮まるものらしいが、芹沢の両眼に灯る光には狂気が迸っている。人を斬ることに愉悦を覚える者の眼だ。
芹沢の右手が長刀の柄にかかったとき、登一郎は葦原から跳躍した。
「斬っちゃいけねぇ」
どこからか飛び出した声に突き飛ばされた芹沢は、川原を転がった。
目を血走らせた力士が振り下ろす八角棒を右手に流した登一郎は、力士の踏み込んだ右足をしこたま蹴りつけた。前につんのめった力士の横面を、左肘で殴りつけると、その力士は悲鳴もあげずに寝転がった。
「おめ、何すっか」
怒声を発した芹沢に理由を説明する暇はない。登一郎は、殺意とともに降りかかる棒や短刀を躱すのに精一杯だ。
力士は芹沢にも襲いかかる。登一郎に突き飛ばされた拍子に長刀を手放していた芹沢も、当然、徒手で力士と渡り合うことになった。
武士は剣術だけでなく、柔術等の格闘術にも秀でることから、芹沢は徒手でも強かった。登一郎も心得のある男だっだが、相手も歴戦の力士である。かなり手痛い目にも遭わされたが、何とか力士全員を叩き伏せることができた。
登一郎が腫れた左頬をさすりつつ肩で息をしていると、長刀を鞘に戻しながら芹沢は近づいてきた。
「ともかく、まぁ、何どがなったなぁ」
芹沢は花見の席がとれたとでもいうような長閑な声を出した。顔つきといえば、憑き物が落ちたような円やかな顔をしている。ひと暴れして、鬼気を発散させたらしい。
「それで、君はだれだ。どこかで見かけたような気がするが」
「お初にお目にかかりますが、あなた様のことは存じ上げてございます。壬生浪士組の芹沢局長様でございますね」
壬生の屯所にしょっちゅう顔を出す登一郎であるから、どこかで顔を見られたかもしれないが、近藤派と見られて態度を頑なにさせてはこの後の会話がつまらなくなると考えた登一郎は初見をよそおった。どうせならこの機会に、芹沢という人間を深く観察したい。
「おれを知っているのか」
「そりゃもう。壬生の芹沢様は、我ら庶民を不逞の輩からお護りくださるたいそう頼もしいお方とお聞きしております」
「それほどのものではないが」
芹沢ははにかんだ顔を隠すように顔を撫でた。その所作に愛嬌がある。
「ともかく、ここを離れましょう。所司代にはあとで手前が知らせておきます」
力士が息を吹き返せば面倒なことになる。長刀が芹沢の手に戻った以上、次に力士が襲い掛かれば、気を失うどころが首を失うだろう。武士に対する無礼とはいえ、京都の市中で新撰組の局長が不逞浪士でもない者を斬れば所司代の知る所となり、新撰組を預かる会津藩も面目を潰すこととなる。そんなことになれば、身を挺して介入した登一郎としては骨折り損となる。
「おい、大丈夫が」
横腹の痛みに思わず片膝をついた登一郎を、芹沢が支えた。不覚にも避けきれなかった力士の棒が横腹に入っていたらしい。骨は折れてはいないようだが、切った張ったの興奮が覚めると激しく痛み始めた。
「手前は大丈夫です」
「だが、ともかく顔を洗おう。お互い、血反吐で面を汚していては、せっかくの色男がもったいない」
芹沢は鴨川の汀に下りて顔を洗った。登一郎もその隣で顔を洗おうとしたが、どうも脇腹が痛む。芹沢は懐から出した手拭いを川水に浸し、十分に水の涼気を吸わせてから固く絞った。それを登一郎に差し出し、
「これで冷やすといい」
と、親切をみせた。そのときの芹沢の顔つきは、酔気も毒気もさっぱりと消え去った柔らかなものだった。泥中に蓮を見つけたような驚きが、新鮮な風を伴って登一郎の胸中を走り抜けた。
「さて、参ろう」
そう言って登一郎を促す声は、まるで伊勢参りにでも誘うような清々しさだった。
河原の叢中で気を失っていた力士共も、幾人かは目を覚まし、痛みにうめき声を立て始めた。
「こやつらのことは所司代に報せるまでもなかろう。夏の夜の戯れ事ゆえ」
力士共に聞かせるように芹沢は言った。武士への狼藉は忘れるが、なお手向かうつもりであれば次は戯れ事では済まさない。その脅しを含めたが、力士たちにはすでに争気を喪失していた。
何事もなかったかのように、芹沢は五条通りを歩き始めた。屯所へ帰る足取りである。登一郎は、ごく自然に芹沢の後に従った。芹沢もまた、ごく自然に登一郎を道連れとして受入れた。
「おれは常州多賀郡の松井村の出だが、実は生まれは芹沢村でね」
足跡を残していくような口ぶりで、芹沢は話し始めた。その足跡を追っていく登一郎は、
「ほぅ、お国は常陸でございましたか」
と、なめらかにうなづく。姓が芹沢なのだから、芹沢村の出身というのは珍しいことではないが、芹沢に関する不知を、登一郎は装わねばならない。
登一郎の合いの手には魔力がある。共鳴するような言葉、感情を受け止める態度、なぜか同郷を匂わせるようなそぶり、承認要求を誘引する目容、それら全てに杳として呪文が潜んでいる。
「おれは産女取りの鬼子よ」
因縁からの解放を求めるように、芹沢は言った。
「ほう、それはどういう謂れです?」
その反応に芹沢は安堵したようだ。
「しかも畜生腹であったゆえ、母にはずいぶん嫌われたものだ」
吐き捨てたいような記憶が、芹沢にはあるらしい。
「労しいことでこざいましたな」
「まぁしかし、母の気持ちもわからぬではないのよ」
芹沢は夜の天を仰いだ。十三夜あたり月がそこにあった。
常州真壁郡の芹沢村で、水戸藩郷士芹沢又衛門以幹の次男として芹沢鴨は生まれた。自身が語ったように、彼は双子であり、弟がいた。その弟は至って普通の赤子であったが、芹沢には生まれながらに歯が生えていた。そういう赤子を、鬼子として忌み嫌う習いがあった。芹沢の父母は、その因循を振り払うほど愛情豊かではなかった。
さらに芹沢は幼少期から力が強く、気性も荒くて、些細なことで癇癪を起こしたから、父母が嫌うというより怖れたことも、あながち無理からぬことであった。
芹沢と弟が元服を迎えたとき、我が子の未来を案じた父は、思い余って、知己のある松井村の神官に相談をもちかけた。その神官は名を下村祐といい、人々から信頼されている人物であった。
下村は芹沢を一目見るや、ひとかどの壮士となりうる人物であると思い、婿養子として貰い受けることを提案した。
父母にとっては渡りに船の申し出であったが、長男を早逝させていたうえに、次男を神官に婿に出したとあっては外聞が悪く、水戸藩の上席郷士である芹沢本家とも相談したうえで、芹沢を三男であったことにして、婿養子にだす旨を藩庁に届け出た。諱も、弟のものと交換し、光幹と名乗ることとなった。双子であったことが、意外なことで役立った。
こうして下村家に入った芹沢は、名を下村嗣次と改めた。
芹沢は義父の庇護のもとで、真面目に神職の職務に努め、妻との間に子も設けた。事情を曲解する芹沢村の者たちからは、
「芹沢又衛門の鬼子は産女取りに取られた」
と、陰口をきいたが、それが芹沢の耳に入っても、癇癪を起こすことはなかった。ちなみに産女とは難産の果てに死んでしまった女の霊のことであるが、この霊に憑かれると怪力を得るという曰くがある。下村祐の妻が難産で命を失ったことに託つけて、意地の悪い者がそんな噂話を作ったのであろう。
そんな質の悪い誹謗が風化するほど芹沢は質実に暮らし、このまま鬼子は憑き物を落とすかに思われたが、時代は彼に甘い顔を向けなかった。
浦賀に黒船が来航して以来、東洋の島国を囲む海は煮え始め、そこに暮らす日本人の多くは熱病にうなされ始めた。
もっとも早く煮えたぎったのが、芹沢のいる常州水戸藩であった。時の藩主である徳川斉昭は開国に公然と反論し、そのために幕政の席を逐われるが、孝明天皇の信頼を得た。その信頼は一通の紙に託されて、水戸藩へと届けられた。いわゆる戊午の密勅である。
この密勅の取り扱いを巡って水戸藩の藩論は真っ二つに割れることとなるが、密勅の受納を強硬に主張したのが天狗党であり、その一派である玉造勢に、芹沢は加入した。義父の薫陶により浄化したかに思われた鬼子の魂は、尽忠報国の咆哮とともに再び蠢き始めたのである。
だが芹沢には、驍名を馳せるような活躍の場が与えられなかった。桜田門外の変には関与できず、横浜での攘夷決行の資金集めとして常総間の豪商に押し借りを繰り返しているうちに藩内論調の潮目が変わり、捕縛されて獄に入れられた。
一旦は斬罪梟首の沙汰となり、己の不運を嘲笑いながら死の覚悟を決めた芹沢だったが、再びの潮目の変化により死を免れることとなった。
ところが、玉造勢の他の面々はすぐに出獄を許されたにも関わらず、芹沢と、後に同志となる新見ら数名は、なおも釈放をためらわれた。その理由が、常総間での蛮行の甚だしさにあると知り、芹沢は愕然とした。
天狗党の諸派を思想的に主導した武田耕雲斎の主義に共感し、国の行く末を憂え、義憤をたぎらせて立ち上がったはずの芹沢は、結局、ただの危険人物としか評価されなかった。
(鬼子は、所詮、鬼子に過ぎぬか)
絶望した芹沢は、獄中で己の小指を噛み切り、辞世の句を血で書いた。そのまま食を絶って死のうとしたが、待てよ、と思い直した。
世間に翻弄されたままでは、どうにも腹の虫がおさまらぬ。たとえ一時であろうと、勝手気儘に生きてこそ、この時代に生まれてきた意義がある。それこそが、己をこの世に産み落とした何かにとって好都合なのであろう。時代なのか運命なのか。その何かの思惑通りに葱を背負ってやろう。
「よって、われは芹沢鴨どなったのよ」
簡潔に半生を語り終えた芹沢は、なぜか晴れやかに見えた。しかし、それは諦観でもあろう、と登一郎には思えた。時代が芹沢に与えた役柄がそれであり、常であれば時代の演者に物申さぬ登一郎であるが、さすがにそれでは寂しすぎると感じ、つい、
「道の道とすべきは常の道にあらずと申します。とかく人の運命は見え難きもの、どうかご自愛ください」
と、言ってしまった。芹沢は少し驚いたようであるが、その驚きをすぐに微笑に収め、
「忠言、痛みいる」
と、軽く頭を下げた。
もっと話を聞きたいと登一郎は思ったが、芹沢のつま先が向きを変えた。
「家に着いた。おれは帰るとするよ」
そう言った芹沢は、暗夜に煌々と灯る提灯に向かった。新撰組が屯所とする八木邸の門がそこにあった。
提灯の明かりに、芹沢の背が明々と浮かび、すぐにその向こうの夜陰に消えた。その光景が芹沢鴨という人物の一生であるように、登一郎には感じられた。
それから数日が経って、登一郎は八木邸を訪れ、土方と話していた。そこへ、廊下の床板を鳴らしながら芹沢が通りかかった。
「その節はどうも」
目が合ってしまった登一郎は、狼狽えをみせずに頭を下げた。
「お主は…」
芹沢は眉宇に驚きを点したが、すぐに微笑に収めた。
「以後、見知りおいてくれ」
それだけを言って、芹沢は立ち去った。土方は何かを言いたげだったが、芹沢の背中を見つめる登一郎の目が拒否していた。
その二日後、世にいう八月十八日の政変が勃発し、芹沢は近藤と共に隊士を率いて出動した。御門を護っていた会津藩士は壬生浪士を知らず、槍を構えて芹沢の前を遮った。
芹沢は並んだ槍の切っ先を扇で悠然と煽ぎ、哄笑しながら押し通ったという。その剛胆さに周りの者は驚嘆した。それが、芹沢がこの世という舞台で演じた最後の晴れ姿であった。
政変から一月後に、長州の賊徒に斬殺されたとして処理された芹沢鴨が、ただの凶暴な悪漢ではなかったことを、登一郎は知っている。
芹沢は、もしかしたら精神的な疾病を抱えていたのかもしれない。彼の数々の暴挙に苦しめられた者は多いが、芹沢は、無頼に飾った己の世界に臆せず踏み込んでくる人間には、無類の愛情をみせた。剛腹であり、人を容れる度量もあった。だからこそ、己の腕だけが頼りの平山五郎のような利かん坊が、芹沢のもとで静かだったのである。
追懐を終えた登一郎は、長屋の裏庭の叢に埋もれていた視線を上へ向けた。いつの間にか月は沈んでおり、枡形に瞬く星の象が、ひときわ明るく見えた。
登一郎は腰を上げ、小さな縁側を秋虫に譲った。文机に向かい、絵筆を取る。
星の灯りが衰えぬうちに、和紙に、槍衾を前に悠然と扇を開く芹沢の姿が鮮やかに現れた。
空が白めば散策に出るのが登一郎の日課であってが、二夜続けて夜を徹したため、さすがに深い眠りに落ちた。眠りの寸前、芹沢があの愛用の扇を大きく広げ、閻魔を大喝しておらねばよいがと案じた。