~平山五郎~
登一郎 は剣も相応に使ったが、 それよりも筆を上手に使った。 絵筆を持っても画人顔負けのものを描いたが、 彼はたいてい毛筆に墨汁を吸わせて、 せっせと文字を連ねた。
早朝のそぞろ歩きは登一郎の日課である。借家のある七条から二条くらいまでは行く。早勤めの奉公人や宵越しの遊び人とすれ違うことはままあるが、のぼったばかりのお天道様の下には、さすがに不逞浪士の姿はない。たまに小路の溝などに落ちているのは、不逞浪士だった者の成れの果てだ。公儀のお役目か商売敵の潰し合いかはしれないが、その屍が壬生や島原界隈に転がっていたのなら、まず新撰組の仕業だろう。ただし、この頃、と言うのは文久三年九月のことだが、まだ新選組という名は世間に知られていない。
地中に吸われたにしろ天に昇ったにしろ、その魂の持ち主が世の中のどのような役を演じてそこに斃れたのか、そんなことを空想するのも、登一郎の朝の楽しみのひとつだ。
秋色の空からの光をあびて公家邸や大名屋敷、大伽藍の築地塀は白々としているが、目を凝らせば尊王攘夷や天誅の血文字が浮かび上がりそうなほどに、京に吹く風は血なまぐさく、狂気などもはや祭囃子にすぎない。庭木や街路樹の色づきも、季節の移ろいか血しぶきかと、見る人の眼をふと惑わせる。
攘夷親征を企てる三条実美ら尊王攘夷の急進派公卿とその背後の長州藩を八月十八日の政変で一掃して以来、京の政局は治まるどころか混迷の度合いをますます深めた。人の病に喩えれば、皮膚の疥癬を起こす病虫が体内に潜って内臓の疾患に転ずるようなもので、非常に始末が悪い。
白昼堂々と不逞浪士が闊歩するのも鬱陶しいが、夜陰に紛れて蠢かれるのもまた煩わしい。
京の街は尊王、佐幕、攘夷、開国、どの賽の目がでるかわからぬ賭場のようなもので、切った張ったの馬鹿騒ぎに巻き込まれる町人にはまことに迷惑この上ない。
それでも人々は逞しく京の街で生きてゆく。そこに人のおかしみを登一郎は思うのだ。
清涼な秋風と歩調を合わせるように、登一郎はそぞろゆく。
二条あたりまで北上する路はその朝の気分次第だが、七条へ南下する路は油小路と決めている。出格子や垂れたよしずの町並に格別の趣きがあるわけでも、行きつけの茶屋が朝からやっているわけでもないが、馴染みの寺はあった。
本光寺という日蓮宗の寺である。といって、本尊の釈迦如来に仏縁があるわけではない。そこの小坊主に好奇の目を向けている。
「今朝も精をだしているな、日秀殿」
門前を塵芥の京とは別世界に掃き清めようとしている小さな姿に、登一郎は呼びかけた。
振り向いた日秀の目元に息を呑むような色香がある。
彼はいま十二才という年頃だから、あと二三年もすれば、女犯を固く禁じられている坊主どもの垂涎の的となりそうだが、登一郎にはそちらの道の嗜みはない。しかし、朝の澄んだ陽だまりの日秀の姿は、仏画の中の聖童のような清らかな趣があり、この瞬間は登一郎の絵心を疼かせる。いつかこの風景を描いてみたいと思っているが、より精緻なものに仕上げるには、もっと日秀を知らねばならない。]
ところで、日秀という法号は、日蓮宗の開祖である日蓮にあやかったものだろうが、その通字を授かるには、日秀に僧侶としての相当の素質があるか、彼の実家がそれなりの権門であるかのどちらかだろう。しかしながら、登一郎の関心は日秀の法号の由来にはなく、彼の人格にあった。思わず抱きしめたくなるような愛くるしさを持ちながら、その性格は至って辛い。初めて彼に出会ったときなど、一期一会の茶道の心得は仏道にも通ずるはずなのに、門前で佇んでいた登一郎を、塵芥と同様に掃き出そうとした。以来、日秀の登一郎への態度は変わらず素っ気ない。
「登さまは相変わらず手持ち無沙汰なご様子で」
つれなく言い返しながら、登一郎を登さまと呼んで甘えもみせる。日秀がもしも女なら、さぞ傾国の悪女となるところだろう。
日秀は日秀で、この剣呑のご時世に安穏と構えている登一郎が不思議に思えてしかたがない。二本を差していないから武士ではなさげだが、かといって商人でも奉公人でもなさそうだ。いまのところ日秀の認識では謎の風来坊と捉えざるを得ないが、妙に人懐こい。気を許せば、あっという間に胸の中に踏み込まれそうだ。大悪人は意外とそういうものだ、と日秀は日秀で用心している。
互いを未来の悪人と予感している二人は、今のところそれなりに仲が良い。しかしあまり立ち話が長くなると、日秀の箒が登一郎を塵芥として扱うようになるので、程の良いところで登一郎は退散した。
さて、この日、借家に戻った登一郎は、近藤の日常の暮らしぶりを書翰に書きまとめた。近藤の妻のつねから受託されたその仕事が登一郎の稼業であり、情報の多寡と質の良否が報酬額に反映されるので、自然としてその作業には熱が入る。とはいえ、文字を書くことは登一郎にとって娯楽と同じで、また妻から遠く離れた夫の遊び心に水を差すほど無粋者でもないから、隠すべき情報は巧妙に言葉の綾で包んだ。そうすると当然、婉曲な書きぶりに不満を持つつねが両替商に振り込む報酬額は少なくなるが、その差額は近藤から貰えばよい、というのが登一郎の思考である。もちろん、ただ金をたかるのは気が引けるので、近藤の用事を済ませてやる。その用事というのは大抵の場合、近藤が出す書翰の清書である。かくして登一郎は、娯楽の種を増やしつつ金も確保するという仕組みをずる賢く構築した。
登一郎は贅沢はしないが、全くの堅物というわけでもない。ある程度の金が溜まれば遊びにもゆく。遊び心の向かう先は花街だが、女を抱くわけではない。その世界の人情沙汰を観察したいのである。遊女の科、遊び人の粋というところを研究したいのである。風変りといえば、これほど風変わりな男も稀だろう。
ところで登一郎は、すでに女体を知っている。そのことは、武州多摩で済ませた。相手は、登一郎も一時属していた八王子千人同心の同僚の娘である。京の女に比べるとやはり野暮ったいその娘との一夜の情事が、登一郎が多摩を逃げることとなった同心たちとの諍いの原因となった。その娘に悪感情はないが、自身の初心さを自嘲することはたまにある。
その経験と無関係とは言い切れないが、登一郎の色欲はそれほど旺盛ではない。といって女に興味がないわけでもない。ただ登一郎の関心は女体にはあまり向かわず、その内面を優先した。このあたりの性嗜好は色好みの近藤とはおそらく意見が合わず、案外、土方あたりと馬が合いそうだった。
そういうわけで、登一郎は妓楼に昇っても、もっぱら酒肴を楽しんでいる。
島原に角屋という揚屋がある。広い宴会場を持つ料亭で、女と遊びたい客は置屋から遊女を呼んで部屋に揚げてもらうが、登一郎は酒肴を注文するだけだ。上客とはいえないが、それでも持ち前の人懐こさで、角屋の主も、さして金を落とさない登一郎にいやな顔は向けない。
馴染みの女中がいる。せん、という名で、まだ若い。美人ではないが愛嬌があり、気配りの所作のなかに時おり教養を見せるので、登一郎の好みだった。客を取ることはなく、給仕の女中だったから、登一郎は必ず彼女を呼んでもらった。
せんは仙と書くのだろう、と登一郎は勝手に思っている。だが彼女の名付け親は、彼女がくるくるとよく動くので、旋という字を想ったかもしれない。
「おせん、きたよ」
登一郎が店に顔を出すと、
「登さん」
と、はしゃいだ声を挙げて登一郎の席へ飛んでくる。
この宵も、そんな調子で半時ほど、登一郎はせんを相手に酒肴を楽しんだ。その帰り際、ひと悶着が起こった。
登一郎がせんに勘定を頼んだとき、二階から武士の一団が降りてきた。廊下を荒々しく鳴り立てるその一団をちらりと見ると、その先頭の大柄な武士は芹沢であった。言わずと知れた新選組筆頭局長の芹沢鴨である。登一郎には軽い面識がある。
三百匁の鉄扇で肩を打つ厳つい風貌と傍若無人の振る舞いから、芹沢は悪評を派手に立てている。人は彼を怖れるが、登一郎はそうでもなく、芹沢をそれほどの悪人とは見立てていない。何かの拍子に精神の重心を喪い、捨て鉢になった世迷人と認識している。
ひと悶着は、芹沢が起こしたのではない。彼の左隣にいる男の名が平山五郎であることを登一郎は知っており、どうしたはずみか、せんが足をもつれさせて平山にぶつかった。
「無礼者」
平山が叱声を放った。その怒面の左目が潰れている。平山は叱声を浴びせただけでは腹の虫が収まらず、右の拳を鋭く振り上げた。その拳を滑らかに受け流した手が、せんを抱えて退いた。そのさり気ない進退は、一呼吸、その場に虚を生んだ。
「おめ、なにするが」
平山はなおも拳を振り上げようとしたが、芹沢がたしなめた。
「よしなさい。店に迷惑がかかる」
ここでの芹沢は分別をみせた。
「確が、中島ぐんだね」
芹沢は登一郎を覚えていた。登一郎が一礼すると、その場はそれで収まった。平山は登一郎を睨みつけたが、芹沢の顔を潰すわけにはいかず、そのまま角屋を出ていった。平山の左目は潰れていたが、その奥に、底光りするようなものを登一郎は見た。
「…登さん、もう放しておくれやす」
顔を赤らめたせんにそう言われて、ようやく登一郎は彼女を抱いたままでいることに気が付いた。登一郎がせんを解放すると、彼女は登一郎を振り返って頭を下げた。
「ほんま、すんませんどした。うち、なんや足がしびれてもうて」
「気にすることはない」
せんの謝罪を気軽に受け入れた登一郎だが、あの男のあの左目は気にしているだろう、と、事がこれで終わらないことを予感した。ただし、それは平山五郎というこの時代の役者を知る機会でもある。
さて、角屋を出て千本通りを北へ上ってゆくと、白い築地塀越しに壬生寺本堂の甍や塔頭が見えてくる。ここの伽藍は律宗の大本山だが、その境内の西北に新選組が屯所を置く八木邸がある。仏門における戒律の研究と実践に精を出す僧侶たちのすぐ隣で、不逞浪士とたいして風体の変わらない剣客たちが殺生の研究と実践に余念がない。神や仏の皮肉好きも、ここまでくれば滑稽に思えてくる。そんな罰当たりを胸中に隠したまま、素振りだけはさぞ有難げに壬生寺の築地塀を回った登一郎は、そのまま八木邸の門をくぐった。角屋でひと悶着があったあくる日のことだ。
勝手知ったる八木邸の母屋をすいすいと進み、近藤の居室に入った登一郎は、文机の前に座った。近頃多忙の近藤は不在であったが、すでに仕事は委託されている。近藤の悪筆の手紙を清書する作業を午前いっぱい続けると、細雨が落ちてきた。そのことを知ったのは近藤の居室を出て、玄関の土間に降りたときであったが、雨よりも煩わしい事態が登一郎を待っていた。
平山である。
登一郎が来ていることを嗅ぎつけた平山が、
「あいづ呼んでごい」
と、応接に出た八木源之丞に凄んでいた。
八木源之丞は苗字帯刀を許された壬生村の郷士であるが、その身分とは関係なくもともと腹の据わった人物である。その彼が只事ではないと身構えたのだから、平山の形相は巣をいぶり出された猛獣のようであった。
そこへ、ひょろりと登一郎が現れた。
「いだな」
当の本人を見れば、逆に冷静さを取り戻したようで、平山は顎をするどく左へ振って、付いてこい、と登一郎を強誘した。
従容と草履をはく登一郎を、八木源之丞が引き留めた。
「近藤様か土方様をお呼びになってはいかがですか」
平山の属する芹沢一派の無道さは八木源之丞でなくとも知れ渡っている。迂闊についていけば、どんな災難に遭うやもしれない。
「それには及びません。まぁ、平山殿も、まさか命までは取らないでしょう」
登一郎は呑気に構えている。
平山はすでに母屋を出ている。彼の残した強烈な敵愾心をたどるように登一郎も外に出ると、平山の気配は細雨の下を通って、路向かいの前川邸に続いていた。
前川邸も大きな屋敷である。八木邸だけでは隊士を収めきれなくなったため、前川邸も借り上げた。京都六角にある前川本家は御所や所司代を相手にする掛屋であったが、分家にあたる前川荘司は八木家とも血縁がある。
前川邸の母屋は玄関に広い土間を持ち、ここが隊士の武術鍛錬の稽古場となっていた。平山は、そこで登一郎を待っていた。
登一郎が土間に入ったとき、すでに人集りができていた。新選組の芹沢一派、副長助勤の平山が真剣勝負をするらしいと聞きつけた隊士たちが見物に集まったのだ。その中に土方の姿もあった。
登一郎は鉢金と胴、そして二尺五寸ばかりの刀を一振り渡された。新選組の鍛錬では竹刀や木刀は使わない。刃引きした長刀で撃ち合うのである。むろん、下手をすれば大怪我をする。その緊張感が実戦で活きるのだ。
支度を終えた登一郎は、平山と向かい合った。平山は大上段に構えている。登一郎は青眼、切っ先はやや上を向いている。
(確か神道無念流、いやその前は鏡心明智流を学んでいたのだったかな)
どこで仕入れたのか、そんな平山の情報を思った登一郎は、不意に平山の潰れた左目を突いた。
間一髪その突きをかわした平山は赫怒して、裂帛の気合とともに上段から切り下ろした。
ひらりとかわした登一郎は、平山の小手を打つ。だが平山の振り上げは速く、次は小さく鋭く登一郎の面を狙う。それを登一郎は、鍔元で受け止めた。再び剣を振り上げた平山の隙に、登一郎は胴を払った。だがこれも、平山はすらりとかわした。その剣の交差を見ていた土方の目が細くなった。
その後も数合を打ち合ったが、勝負はつかない。見物の隊士も二人の技量に感心していた。だが血の気の多い平山のこと、いずれどちらかが大怪我をするのではないかと危ぶむ者もいた。
ところが、平山は突然、愉快げに笑い始めた。その笑いに怒りも暗さもない。
「おめ、ながなが使うな」
それは平山の賛辞である。
「どごで剣学んだ」
「武州多摩で天然理心流を教わりました」
「近藤先生ど同じが、道理でな」
すでに長刀を納めていた平山は、それを傍らの者に渡すと、険を取り払った顔で登一郎に歩み寄り、その肩を叩いて、
「まだな」
と、土間を出ていった。
勝敗なしに終わったことを残念がる隊士やら、怪我なく終わったことを安堵すら隊士やらがいたが、やがて土間には登一郎と土方だけが残った。その土方が登一郎にささやいた。
「三日後に島原の角屋で芸妓総揚げの宴会をやるからお前も来い」
「私がですか」
問い返しながら、しかし土方の魂胆は知っている。
芹沢一派を酔わせておいて、襲撃する腹づもりだろう。芹沢派の舵取りというべき新見錦こと田中伊織を始末した今、新たな参謀格を抱き込まれる前に片をつけたいのだ。芹沢の悪名が新選組の名を貶めないうちにという切実も、土方にはあるだろう。新選組を預かる立場の会津藩から、芹沢の密やかな処置を命じられているという噂も、登一郎は把握している。
「私は手伝いませんよ」
「なに、今はまだ必要ない。お前は芹沢先生たちの近くに座り、平山君に酒をすすめてくれたらそれでいい」
「平山さんが邪魔ですか」
「まぁなかなかな。お前も虎尾剣を見事にかわされてたじゃねぇか。こっちの流儀をよく研究してやがる」
虎尾剣は、相手の面打ちを誘い、振りかぶって空いた胴を打つ天然理心流の奥義である。
「平山君は用心深いし、迂闊に死角をつけば蛇を出す男だってぇことは、お前もよく知ってるところだ」
登一郎は土方の策略に賛同するつもりはないが、邪魔だてするつもりもない。飲みに誘われたから行く。話の合う者がそこにいれば酒をすすめる。それだけのことだ。
「ところで、この一件が片付いたら、俺はお前さんを新選組に引き込むつもりだよ」
「お断りします。私は切った張ったは苦手ですから」
「どの口がいいやがる。お前さんほど、新選組に相応しいやつはいねぇよ」
土方はしつこい質だ。蛇を出す術に長けてるのは土方のほうだが、その毒を避ける呪文を登一郎は知っている。
「秋の長雨になりそうですね。豊玉先生、何か一句、浮かんだところじゃありませんか」
そう水を向けると、効果覿面、土方はそそくさと退散した。
登一郎も雨の下に出たが、雨はやがて止んだ。前川邸を出て千本通りに戻り、北へゆくと西高瀬川にあたる。そこへゆくまでに、雲間を抜けて日が射した。雨粒に濡れた草間を下りると、河原に人がいた。沖田である。
「沖田君、風をひくじゃないか」
どうやら傘は持っていなかったようで、沖田の髪は濡れていた。
「近くのこどもらと遊んでいたのですが、雨が降るとこどもらは帰ってしまいました」
すこしずれた言い訳をして、沖田はあっけらかんと笑った。
「普通はそうするものだよ」
沖田という若い剣術の天才は、小さい頃からあまり体が頑強でない。登一郎はそこを案じている。
「こどもたちのほうが躾が行き届いていますね。でもわたしは、雨が上がったあとの、日が射す川面が好きなんですよ」
「わたしも嫌いじゃない」
二人はしばらく、小波を運んでゆく川面を見ていた。
「芹沢先生を斬るのかい」
単刀直入に、登一郎は聞いてみた。土方がそれを企んでいることは承知だが、誰が芹沢を斬るのかと考えたとき、それができるのは沖田しかいないと思った。
「ええ、わたしがやります」
事もなげに、沖田は答えた。
「中島さんが手伝ってくれると、楽なんだけどなぁ」
川面に石でも飛ばすような言い振りだった。登一郎が無言でいると、沖田はさらに追い打ちをかけてきた。
「ねぇ、中島さん。新選組に入ってくれませんか」
思わず二つ返事で承諾しそうになるのを、登一郎はこらえた。沖田は甘えるのがうまい。
「まぁ、そのうち、な」
「へぇ、そのうちが早くくるといいなぁ」
沖田は無邪気に目を輝かせた。
本光寺の日秀には、男とは思えない強烈な色香があるが、沖田にも心の琴線をかき鳴らす愛らしさがある。土方がさっきしたように、今度は登一郎が退散した。
さて、文久三年九月十八日。芹沢、平山にとっては人生終焉の一日である。
暮れ六つの島原は、昼よりも明るい。角屋の格子窓から灯りが明々と漏れ、芸妓の嬌声と弦歌が流れてくる。
登一郎は二階に上がる前に、せんに顔を見せた。小走りに寄ってきたせんが不安を小脇に抱えたような顔をしているので、
「あのことなら心配ない。平山さんとは友だちになった」
といって、登一郎はせんを安心させた。
表階段から二階に上がると、大広間で宴会はすでに始まっている。登一郎が最後になるらしい。
豪勢な料理が並べられ、五十人ほどの隊士が陽気に酒を酌み交わしている。上座で芹沢に並んでいる近藤は、酒よりも飯を食うのに忙しい。土方なども、腹中の殺意など全く表情に滲ませることなく酒を飲んでいる。
「中島ぐん、こっちだ」
平山が奥から手招いた。
用意されていた空席に、登一郎は座った。さっそく平山が、一献、注いできた。ふと芹沢を見ると、すでに酔いが回っているようだ。もっとも、彼に関しては、素面でいるときのほうが珍しい。
「思い違いがあったようだが、許してくれるが」
きかん気の強い平山にしては随分な低姿勢だ。
「こちらにも不躾がございました」
そう返した登一郎は盃を空けて、平山に酒を注いだ。
「そう言ってもらえるど、俺も気が楽になる」
平山は上機嫌だ。
登一郎は土方から平山の酒を進めるよう依頼されたが、登一郎が酒を注いだのは、結局、この一度だけだった。あとは、平山が勝手に飲んだ。
平山はよほど気分が良かったのか、饒舌に自身の来歴について話し始めた。登一郎が相槌を打ち、合いの手を入れると、相手は話さずにはおれなくなる。これが登一郎の無意識の特技であった。
平山は生れは常州だが、さる旗本家に仕え、江戸の鏡心明智流桃井道場で剣を学んだ。二十九のとき播州姫路で神道無念流を学び、相州に転じて直心影流の門もくぐったという。
平山の話題はもっぱら剣術で、京都守護職松平会津侯の御前で催された上覧稽古の話に及んでは特に熱心に語った。
傲岸不遜に振る舞っていた平山は、なんのことはない、ただ剣術に惹き込まれた一途の男にすぎない。左目は花火の事故に巻き込まれて潰れてしまったらしいが、その不幸にも屈せず、平山は剣の腕を磨き続けた。剣を語る平山の右目には、純粋な輝きすらあった。
まずいことに、登一郎は平山のことが好きになりそうだった。
「平山さん、酒はもうそのくらいにしてはどうですか」
それが登一郎のできる精一杯の好意だった。酔い潰れてさえいなければ、不意を襲われて醜態をさらす男ではない。
「何言ってる。今ほどうめぇ酒はねぇよ」
平山はそれからも何度も盃を空けた。
やがて、黙念と飲んでいた芹沢が座を立った。もう帰るのだ。死に場所へ。
残念そうに座を立った平山は、
「まだ稽古すっぺ」
そう言って、おぼつかない足で芹沢についていった。
「お帰りですか、芹沢先生。お足許が危ないようですから、それがしがお送りいたしましょう」
のうのうとそう言ってのける土方を、登一郎は静かに見つめた。この男もまた、この時代の見事な演者である。
土方のあとに沖田、山南などが続いた。
近藤は何も知らぬげに飯を食い、酒を飲んでいた。登一郎はただ平山が置いていった徳利を眺め、本当に何も知らぬ酔いどれ隊士からの酌を黙って受けていた。
芸妓は宴を盛り上げるために懸命に弦を鳴らし、唄を歌ったが、申し訳ないことに登一郎の耳には一向に入らなかった。いつ頃からか雨が降り出し、その雨足は土を穿つほどになったが、その雨音さえ、登一郎の想念を破ることはなかった。
翌日、ぬかるんだ土を踏んで、登一郎は八木邸の新選組屯所を訪れた。
屯所内は土のぬかるみよりも混沌としていた。血の生臭さが揺蕩っている。
近藤の居室に入った登一郎は、そこで白々しい顔の大きな口から、芹沢と平山が長州の賊徒に斬殺されたことを聞かされた。襲撃は昨晩遅く、雨に紛れて実行されたという。お梅という芹沢の愛妾が災難に巻き込まれたとも聞かされた。
「それで、平山さんはどのようなご最後を遂げられたのです」
「首をはねられた。一太刀だったようだ」
近藤は感興のない声で、淡々と答えた。
酒の酔いのせいで、潰れた左目の奥の蛇は、不意をつかれても飛び出てこなかったらしい。
近藤が登一郎の膝前に金を置いた。手紙の代筆などを頼んでいる給金である。
金がいつもより多く置かれている。そこからいつもの金だけを取った登一郎は、黙って部屋を去った。残った金を、近藤も黙って懐に戻した。
登一郎に特段の意趣があるわけではない。ただ、自分は何もしていない。それだけのことである。
借家に帰った登一郎は、絵具を揃えた。この夜は徹夜で絵を描くつもりだ。
夜明けすぎ、青白さの下の文机に置かれた一枚の紙に、血飛沫とともに宙を飛ぶ平山の首が現れた。その絵を見た者は、刮目された右目よりも、潰れた左目に恐れをいだくことだろう。