~新見 錦~
登一郎は剣も相応に使ったが、それよりも筆を上手に使った。絵筆を持っても画人顔負けのものを描いたが、彼はたいてい毛筆に墨汁を吸わせて、せっせと文字を連ねた。
京の下京七条通での暮らしはずいぶんと落ち着いた。本光寺の鐘の音にも慣れた。京には寺が多い。京の生活に慣れるということは、つまり寺に慣れるということでもある。
登一郎の生地である武州多摩にももちろん寺はあったが、多くは多摩川沿いに伽藍を並べており、登一郎が過ごした多摩小田野には梵鐘の清浄な音色も、諸行無常の響きもあまり届かなかった。
そういったわけで仏縁には乏しかった登一郎だが、本光寺の小僧と顔なじみになったのは、登一郎の後生にとっては祝うべきことであった。
小僧はたいてい、本光寺の門前で箒を使っていた。朝の散歩を日課としていた登一郎は、本光寺の題目石塔の前で小僧と無駄話を交わした。仏縁といっても今のところその程度だが、寺の小僧に油を売らしていては、逆に菩薩の冷たい視線にさらされているかもしれない。
文久三年九月。肥えた秋たけなわである。
京の世相はますます殺伐として、尊皇攘夷を念仏のように唱える浪人連中が、志士と称し、天誅を叫んで恐怖主義の蛮行を繰り返していた。意見の合わない、もしくは意見が理解できない場合、言葉を尽くすよりも卑怯な暴力に訴えた方が手っ取り早いという風潮が、京の空気に漂っている。
空気が人を殺す、という不可思議な現象が起こっているように、登一郎には思えた。
そんな空気に公卿までが襲われ、この五月には、右近衛少将の姉小路公知が禁裏の朔平門外で暗殺されるという事件が起こった。この事件は若い公卿の非業として終わらず、八月に長州派公卿が京を逐われる八月十八日の政変へとつながった。
長州藩は関門海峡を通過する外国商船に砲撃を加えて厳しい報復を受け、薩摩藩は英国と戦って鹿児島の城下町を焼かれた。
狂気が時代を恫喝している。登一郎の目に、世の中はそう映っている。
ただ、登一郎の興味は時代になく、人にあった。脚本ではなく、演者に興味があるということだ。登一郎の興味というよりは、彼が持つ筆の興味かもしれなかった。
さて、空気は、普段は人から意識されないが、それが人の形を作ると、やれ幽霊だ、やれ物怪だと騒がれる。
壬生浪士組にも、そんな幽霊がいるらしい。
熟れていく秋空の白雲を楽しみながら、朝の散歩を延長した登一郎は、壬生村の八木邸まで足を伸ばした。そこは壬生浪士組の屯所になっており、近藤が古武士のような顔を幹部格として納めている。
実はこの頃、壬生浪士組は新たな段階に入っていた。
八月十八日の政変に出動し、宮中警護の働きを評価された壬生浪士組は、京都守護職の会津藩主から、
「新選組」
という新たな部隊名が下賜される旨の内示を受けていた。実際に新選組の隊名を用いるのは、もう少し先のことになる。
近藤はその新選組の局長となったのだが、局長は一人ではない。三人いる。
江戸幕府の職制の慣例として、重要な役職には複数名が就任することがあったから、局長が三名いようと、登一郎は特段の奇異を感じない。ただ、いずれ何らかの方法で指揮系統が一本化されることになるだろう、と予感しただけだ。
八木邸の門前まで来ると、門番をしている隊員がするどい眼光を投げつけてきた。この頃、隊員の第一次募集により、登一郎の知らない顔が増えている。だが、知らない顔を、すぐに知った顔に変えてしまうのが登一郎の不思議な性質だ。
「近藤さんのところへゆきます」
それだけ言うと、まるで懇意の出入り商人を見送るような顔で、門番は登一郎が門を抜けてゆくのを妨げなかった。
登一郎は案内も要さず、八木邸の玄関に上がり、すたすたと廊下を進んでゆく。
近藤の部屋に入ると、そこにあった顔が振り向いて、眉根を不機嫌に寄せた。登一郎が来た、ということは、銭が出て行くということでもある。
登一郎が遠慮もなく部屋の中央に座ると、文机に肘をのせていた近藤の右腕が動いて、しぶしぶ銭を置いた。
「俺のことを、あれこれとつねに書き送っておるのか」
つね、は近藤が多摩に残した妻の名だ。
「はい。そう命じられていますので。京の町のこともいろいろとお伝えしています」
銭は、当然のように登一郎のふところに収まった。
近藤を案ずる妻が、夫の日常を手紙で知らせるように、と登一郎に依頼したのだ。快諾した登一郎は、行きの駄賃はつねからもらったが、在京中の生活費は近藤からもらって当然だと思っている。粗略に扱えば、つねに何と書き送られるか知れたものではない、と恐れている近藤は、登一郎の生活費の面倒をしぶしぶ見ている。幸いにも登一郎は田舎暮らしに慣れているから贅沢はしないし、局長の給金はそれなりに高い。
「屯所に、幽霊が出入りしているとか」
と、登一郎は何気に切り出した。
「幽霊だと」
胡散臭いものを鼻息であしらうような近藤の言い方だった。幽霊よりも、銭を取っていく生身のやつの方がよほど面倒だ、と近藤は思っている。
登一郎は、仲良くなった八木家の息子の為三郎から聞いた話を披露した。その幽霊は侍の姿をしていて、八木邸の中庭でしょっちゅう遊んでいる為三郎が、門をくぐるのを見ていないのに邸内にいたり、門を出て行くのを見ていないのにいつの間にかいなくなるそうだ。あちこちの部屋の前にその姿があったかと思うと、いつの間にか、また別の部屋の前にいるという。
為三郎から聞いたその幽霊の風体を伝えると、近藤は思い当たったという顔で、
「ああ、そりゃあの人だ。新見君だよ」
と言った。
「近藤さんといっしょに浪士組の局長になったという新見錦さんですか」
登一郎の合点顔に、近藤は苦笑した。登一郎の地獄耳は、つねの間者にもってこいだろう。隊員でもないのに、どこでそんな話を仕入れてくるのか、人付き合いのうまくない近藤には不思議だった。
このとき、新見錦は二十八歳。近藤より二歳若い。若いが神童無念流免許皆伝の腕前で、同じ流派の芹沢鴨の片腕とも目されている。芹沢とは水戸浪士という境遇を同じくし、水戸天狗党玉造勢に加入して尊皇攘夷活動も共にした経歴を持っているので、芹沢の腹心中の腹心だと思われている。
だが、実際には、初期の局長が三人で、その一人に新見が就任しているとおり、彼は芹沢の派閥ではない。両者は親しい関係にあるが、新見は芹沢の片腕ではなく、自分の両腕を振って独自の行動をする人物だった。ちなみに、芹沢が筆頭格の局長で、新見と近藤は次席局長とでもいうべき立場だ。
「どんな人なんです、新見さんは」
登一郎は目を輝かした。登一郎は、人が好きなのだ。人というよりも、人の軌跡に興味がある。
「うん。まぁ、あれだ」
近藤は横を向くと、何かが喉に詰まったように黙り込んだ。逃げた近藤の視線を登一郎が追いかけると、底光りする眼に睨み返された。
「新見君は、あまりよくない」
その声に、静かな迫力があった。
なにが良くないのかを問い返す雰囲気を、近藤の声は持っていなかった。登一郎の聴覚が感じ取ったのは、近いうちに新見錦を粛正するのだな、ということだった。
近藤は芹沢のような凶暴性を持ち合わせないが、静かに、しかし心根を岩のように固め、人を殺めることすら躊躇しない。そこが空恐ろしくあり、頼もしいところでもある。
近藤の企図がどのようなものであれ、登一郎はそれを邪魔立てするつもりはない。誰もが時代の役割を演じているのだ。新見は近藤一派が主演する殺陣に没するのか、逃げおおせるのか、登一郎の興味はそこにある。
「せっかく来たんだ、少し手伝え」
自分の声が醸し出した室内の剣呑さを振り払うように、近藤は声を明るく変調して、文机を登一郎に譲った。
局長職ともなれば方々に出す手紙が多くなる。剣ほどには筆をうまく操れない近藤は、登一郎の来所を煩わしく思う反面、安心もする。登一郎に清書させれば、まず字面における局長職の面目は保たれる。
登一郎も字を書くのは大好きなので、菓子を与えられた童子のような顔で、嬉々として文机に向かった。
手伝えといったくせに、近藤はもう仕事を終えたような顔をして、しばらく障子の外を眺めた後、そのまま部屋を出て行った。
近藤の下書きの悪筆が、登一郎の筆にかかるとたちまち整然とした文列を連ねる。
清書すべき手紙は多く、文字を整列させるだけでなく文飾もそれらしく仕上げていると、またたくまに昼を過ぎた。
作業を終えた手紙を文机の上に整えて、登一郎は近藤の部屋を出た。
中庭の日だまりで、為三郎が遊んでいる。一緒に遊んでいる児が兄弟なのか、近所の子どもなのかは知らない。一つだけ子どもらしくない体格が混じっているのは、沖田だった。
「幽霊は、今日も来てるかい」
はしゃぎ声の輪に登一郎が割って入ると、まず嬉しそうな顔をしたのが沖田だった。
「渡りに舟ってのは、このことだなぁ」
沖田が開口一番にそういうので、登一郎はまた浪士組への加入を勧誘されるのかと思ったが、そうではなかった。
子どもたちと沖田は鬼遊びをしていたのだが、沖田がいっこうに鬼に捕まらず、さりとて鬼になることも頑なに拒否しており、まったくもって興ざめである、と子どもたちは沖田を責めていたのだ。では、丁度やってきた登一郎に鬼になってもらえばよい、というのが、沖田の言うところの舟だ。
いつの間にか鬼にさせられた登一郎は、なったかぎりは、と子どもたちが大喜びする鬼っぷりだった。
真剣に追いかけたが、やはり沖田は捕まらない。足の運びが遊びの域を超越している。その沖田の足の運びを見極め、予測し、ときに沖田に冷や汗をかかせつつ、子どもたちの興を冷まさせず鬼役を続ける登一郎はなかなかに忙しい。
為三郎を捕まえたときに、
「今日も幽霊を見たかい」
と尋ねると、為三郎は頷いて一室を指さした。そこの障子戸の前に、うかとすれば見落としてしまいそうな朧気さで、男が立っていた。
いた、となれば確実に視界に留まるが、いないと思えば風景に溶け込みそうな姿形である。
(なるほど、幽霊だな)
登一郎は鬼に勤しみがてら、幽霊の動きも目で追った。
幽霊も意外に忙しいらしく、あちこちの部屋を訪ねたり、廊下や柱の陰などで隊士と話したりしていた。
幽霊の顔形をはっきりと認識することはできなかったが、彼が訪れた部屋や話した隊士の顔はしっかりと覚えた。
子どもたちが遊び疲れると、登一郎はさっそく幽霊が訪れていた部屋や話を交わした隊士を回った。
登一郎は話を聞き出すのがうまい。日溜まりの中の仏像のような穏やかな彼の風貌は、その本質に秘められた鋭さをまったく悟らせずに、接する人間に安心感を無条件で抱かせる。得な特性だが、不思議なことに登一郎は、その特性を女性関係で活かすことはあまり考えなかった。
幾日かをかけて、登一郎は新見の情報を集めた。本人に尋ねるのが一番手っ取り早いのだが、幽霊を捕まえるのは困難である。
登一郎は、隊士から聞いた幽霊いきつけの料理屋なども回ったが、たいした情報は集まらなかった。
まず分かったのは、幽霊にはいくつか名前があるということだ。まずは新見錦。新家粂太郎という名もあり、どうやらこれが生来の名らしい。他には田中伊織。錦山という号もあるやらないやら。
どうやら新見はある目的を持っていて、その達成の便宜にあわせて複数の名前を使い分けているらしかった。変名を用いるのは珍しいことではないが、胡散臭さがつきまとう。その胡散臭さは、近藤などのまっすぐな人間には、あまりよくないこと、として映るのだ。
壬生浪士組は、もともと詐欺師清川の献策で結成された将軍護衛の集団だったが、清川の詐欺に乗らずに京に留まった近藤や芹沢らは、京都守護職会津松平家の預かりとなり、近頃ではもっぱら京の治安維持を業務としている。
京の治安を乱す者といえば、長州毛利家の下級藩士を中心とした尊皇攘夷の輩がそれである、と京雀やら京烏やらに認識されている。
壬生浪士組にとって、長州毛利家は仮想敵国なわけである。
新見は、どうもその長州毛利家と壬生浪士組を橋渡しするという無理難題に挑んでいるらしい。新見錦という名は、浪士組次席局長を指しながら、実は長州系公卿や浪人の間で通りが良いらしい。
新見が、なぜその無理難題に情熱を注ぐのか、そこまでは登一郎の話術でも聞き出せない。それは新見本人しか知らないことだからだ。登一郎が推察できるのは、新見は近藤や芹沢などの類いではなく、清川に近い生き物らしいということだった。
新しい時代の到来を望んでいた志士である、ともいえる。朝廷と幕府、そして毛利家などの諸侯が一味同心して、西欧列強に負けない国を創るという理想を抱いているのかもしれない。崇高な理想は、愚直な人間には許されざる悪行と捉えられる危険性を伴っている。
それはさておき、新見の活動は決して空回りしておらず、幕府の旧態依然の職制にならった浪士組に、小隊制や隊規制定を導入させるという近代化の成果をあげている。その近代化が完成するのは鳥羽伏見の戦いの後のことになるが、新見はそのときまで生きてはいない。新見が浪士組にもたらした近代軍制は、中途半端な形で文久、元治、慶応の時代を過ぎていくことになる。
新見は精力的に活動しているようだ。
水戸藩士や公卿とも交流しており、六月には攘夷監察使の任を受けた正親町公董の陪従として長州に下ってもいる。
浪士組としての活動ではめざましいものはなく、四月に大坂商人から百両を借り受けた際に、芹沢、近藤と共に名前を添え書きした程度だ。ただしこのとき以降、露骨な長州贔屓の言動に眉をひそめる芹沢や近藤の反発を避けるため、新見は、浪士組での活動には変名の一つの田中伊織を用いるようになる。
どちらかといえば長州派としての活動が多く、浪士組に対しては懐柔的な活動が多い。それを、長州に指嗾された調略活動と捉えることはできなくはない。
九月の上弦の月が肥えてゆく夜の道は明るいはずだったが、あいにくの雲が京の町を暗く閉ざしていた。
登一郎の持つ提灯が、ひとつ、夜の町を進んでいく。いつもより長く飲んだ帰り道だ。
鈍い白光を含んだ雲を見上げる。雲がなければ、九月十三夜の月を待ち望みたくなる上弦の月がかかっているはずだ。
提灯の明かりの隅に辻が浮かぶと、登一郎は足を停めた。
辻の角のひとつに、人影がある。
物騒な世情だから辻斬りの一人や二人が潜んでいても決して不思議ではない夜だが、その類いの気配はない。
思い当たった登一郎は、人影に声をかけた。
「新見殿、ですか」
登一郎が一歩、後ずさったのは、人影がのそりと角から出てきたからだ。
「僕のことに興味があるらしいからね」
長州派志士に流行の一人称を、新見は使った。声に水戸なまりはなく、垢抜けている。そのまま新見は、提灯の明かりの中にずかずかと入ってきた。一足一刀の間に二人は対峙していることになる。
「中島君は、近藤さんと親しいようだね。僕のことを誤解していないといいが」
役者でやっていけそうな鼻筋の通った顔が、明々と照らされている。昼間にははっきりと見えないのに、夜になれば鮮明に現れる不思議な人物だ。
「誤解を招くようなことをなされておいでなのですか」
誘うような言い方を、登一郎はした。新見は聡明さをたたえた目の底で微笑んだ。
「聞いていたとおりだ。不思議な人だね、中島君は。まるで海原のように心を語りかけたくなる」
新見は視線を登一郎から外し、そこにあるはずの上弦月を追って、目線を上げた。
「僕にはね、道が見えるんだよ。新しい時代につながる道がね。僕はね、その道を太く長くしたいんだ。そのためには、この京におわす帝の号令のもと、徳川も、毛利も、島津も、山内も一致協力して地ならしをしないといけない。でも、帝の号令を実あるものにするには力が必要だ。僕はね、浪士組をその力の根幹にしたいと思っているんだ」
思想は尊王で、本質は革命家なのだ。登一郎は田中伊織の人物をそう描いた。
「ずいぶん、乱暴なこともなされたそうですが」
登一郎の耳が仕入れた話には、新見の民家や商家への強請りや、酒が絡んでの暴力騒ぎなどが多い。
「近藤さんが僕の誤解をなかなか解いてくれなくてね、僕を貶めるためにいろいろ言っているんだよ」
「芹沢局長も、新見殿の乱暴狼藉には手を余らせておられる、とか」
登一郎は、新見の本心を弾くようなことを言った。視線を登一郎に向けた新見は、一瞬眼光を強めたが、すぐにその強さをすぼめた。
「芹沢さんもね、天狗党の玉造勢で一緒にやっていたころは僕と同じ道を見ていたんだよ。でもね、残念だな。人から担がれるようになると、腰が重くなる反対に志は軽くなるらしい」
孤高に立つ人間の寂しさを、新見はにじませた。
「さて、と」
わざとらしい言い方をしたのは、新見なりの登一郎への好意だった。本心を吐露した近藤派の人間をこのまま帰す人間ではない、という危険性を登一郎に悟らせようとした。
明敏にそれを察したわけではないが、違和感を感じて一歩を下がった登一郎の首元を、ふわりと風が通り過ぎた。柔らかげでありながら、肉も骨も断つ風である。
「よかった。中島君も、なかなか使うようだね」
抜き打ち。それに気づいたときには、新見はもう背中を向けて提灯の明かりから立ち去っていた。鍔音も残さない。
「近藤さんには十分に気を付けたほうがいい、新見殿」
登一郎も好意を返した。
「忠告ありがとう。ところで僕はね、今は副長に降格なんだ。芹沢さんと近藤さんに叱られてね。しばらくは新見錦をやめて、田中伊織で大人しくしておこうと思うんだ」
提灯の明かりの外からの声は、それきり聞こえなくなった。
新見錦をしばらく寝かせておくことにした男が溶け入った夜闇を、登一郎はしばらく凝視していた。近藤はその程度の擬態で決心を解く人間ではない。登一郎は心の中でそう呟いた。
それから数日して、九月十三日。夜には十三夜の月が楽しめる日だ。
その日も壬生の八木邸を訪れていた登一郎は、凄絶な気配を衣服のようにまとった男と出会った。土方歳三だ。
「登の字か。いつ浪士組に入るんだ」
「同志の方々を募集されて、ずいぶん人が増えたご様子ですが」
「馬鹿をいっちゃあいけない。俺はね、棒振りの上手が欲しいんじゃないんだ。人を斬り殺せる人間が欲しいんだよ」
「私にそんなことはできません」
「なに言ってやがる。八王子じゃ、同心相手にずいぶん暴れただろう」
「でも、殺してなんかいませんよ」
同心だろうと士のはしくれ、農家の長男あがりに打ちのめされたとあれば、士としては死んだも同然だろう。土方はそう心の中で悪態をついたが、口には出さなかった。
「ところで豊玉先生。近頃はどうです」
登一郎がそう言った途端、土方の顔色が変わった。豊玉というのは、土方の俳号だ。
「あれはよかった、『梅の花 一輪咲いても 梅は梅』でしたっけ」
揶揄心を言葉裏に隠しながらそう言うと、土方は何かが貼りつきでもしたように顔を撫でた。
土方の俳句を良いと思っているわけではない。ただその話題を持ち出すと、土方が退散してゆくことを知っているだけだ。
案の定立ち去った土方の後姿を見ながら、ずいぶんと殺気立った顔をしていたな、と退散する前の土方の表情を思い起こした。
ああ、そういうことか。登一郎は合点がいった。今夜、田中伊織こと新見錦を斬るのだろう。
新見は近藤を甘く見ている。近藤その人よりも、その影となって働く土方の凄味を理解していない。土方は、幽霊だろうと捕縛して斬り捨てる男だ。
その夜、登一郎は下京七条通の借家で、十三夜の月を肴に軽く飲んでいた。同じ夜に、新見錦は、祇園新地の料亭で土方を中心とする近藤一派に取り囲まれ、詰め腹を切らされていた。
翌日その顛末を知った登一郎は、土方は意地が悪いな、と思った。
新見は斬殺されたわけではなく、隊規違反を咎められ、その責任で腹を切らされたのだ。士道に背いてはならない等と謳われるその隊規はまだ草稿段階の漠然としたもので、どのような解釈もできるし、そもそもそのような隊規を定めるよう提案したのは新見なのである。その適用第一号としたところに、土方の底意地の悪さがある。
それにしても、新見はなぜ抵抗しなかったのだろう。神道無念流免許皆伝の腕を持ってすれば、あの柔らかくも強靭な風を巻いて、数人は道ずれにできたはずだ。しかし登一郎はすぐに思い至った。新見は、彼の眼中になかった土方に囲まれた時点で、自分自身の限界を知り、時代における役割の終焉を知ったのだろう。存外、爽やかに腹を切ったのではなかろうか。
ところで数年後、鳥羽伏見の戦いで薩長の近代銃器の前に成すすべもなく敗れ去った土方は、新選組を徹底して洋式化する。西洋戦術を学び、実戦で習得した土方は、函館五稜郭まで戦い続ける。幕府瓦解と共に新選組は解散したが、土方にとって彼が率いている部隊は最後まで新選組だった。その新選組を近代洋式兵団に育て上げた土方は、実は知らぬ間に新見錦の系譜を継いでいたのである。
勝ったのは、果たして土方歳三か新見錦か。
その答えを登一郎は出すことができなかったが、とりあえず登一郎がしたことは、絵筆を揃えたことだ。
筆が和紙の上を走り、目を大きく見開いて腹を割る新見錦が描かれた。