~殿内義雄~
登一郎は剣も相応に使ったが、それよりも筆を上手に使った。絵筆を持っても画人顔負けのものを描いたが、彼はたいてい毛筆に墨汁を吸わせて、せっせと文字を連ねた。
べつに詩や和歌や随想が脳内にあふれているわけではない。日々の細々としたことを記録しておくのが好きなのだ。
なかでも、日常で知り合った人の足跡を文字に残しておくことにこだわった。それは、まるで彼に与えられた義務のようであった。
文久三年、時世は大沸きに沸いている。さしも堅固であった徳川江戸幕府が、心柱を引き抜かれた仏塔のように、風にも雨にも震えている。風はイギリスやフランスなどの列強諸国であったり、雨は国内で狂気を渦巻かせる過激浪士であったりした。
街道を往来する町人や里で遊ぶ童子までが、まるで背中に時代の使命を負っているかのようであったから、人の行蔵に深い興味を持つ登一郎は、記録の対象に事欠かなかった。
京は下京七条通、本光寺の鐘が聞こえてくる辺りの一屋で、登一郎は今日も硯をすっている。
今日は殿内義雄のことを書こうと決めている。
殿内は文武両道に優れ、尽忠報国の志高く、幕府にも信用を得た人物でありながら、享年三十四の若さで横死した。
風聞で耳にしただけであれば、彼の死は登一郎の記録癖を刺激しなかっただろう。なにしろ、尊皇佐幕のいざこざで、毎夜、血風の舞う京の都なのだから。
しかし、登一郎は殿内と親しく言葉を交わす機会を持った。しかも彼の横死に、登一郎の近しい人間が絡んでいるとなれば、登一郎は筆をとらないわけにはいかなかった。
殿内と言葉を交わしたのはこの一屋ではない。中京は壬生村の富裕郷士、八木源之丞の邸である。八木氏は苗字帯刀を許され、始祖は戦国時代に北陸王国を築いた朝倉氏の血を引いているらしい。
都の一角にありながら、湿地と壬生菜という京野菜を産する以外、これといったこともなかった壬生村は、近頃、めっきり騒々しくなった。
文久三年二月、閑静な農業村に、突如として二百人を越す剣客が現れた。時あたかも、十四代将軍徳川家茂が上洛しようとしていた頃である。彼らは、将軍護衛を名目に幕府の許可を得て浪士団を結成し、わざわざ江戸から中山道を西上してきたのだ。
浪士団を統括していたのはそうそうたる顔ぶれの幕臣たちだったが、実質のところ、この浪士団の結成を企画し、実現させたのは清河八郎という名の庄内藩郷士で、浪士団を実際に把握しているのもこの男だった。
ところが、二百名を数えた板東の武者たちは、しばらくすると二十四名になった。どのような奇術や喜劇が披露されたのか登一郎には知れないが、浪士団が壬生村に到着したその夜、清河は彼らを新徳寺に集め、その大半を引き連れて江戸に帰ってしまったという。清河の本心は将軍警護にはなく、尊皇攘夷の先兵とするため浪士団を結成したらしい。
尊皇にも佐幕にもあまり興味のない登一郎としては、江戸京都をとんぼ返りとはずいぶんご苦労なことだ、程度の感想しか浮かばなかった。せめて壬生菜でも食したろうか、とも思う。
このように記せば、あたかも登一郎は根っからの京人のように思えるが、実は彼自身、浪士団という台風に引っ張られてきた板東人なのだ。もっとも、京に到着したのは台風一過の後、半月ほどしてのことだ。
登一郎は、姓は中島である。武州多摩郡の農家の長男だったが、農具よりも剣に興味を持ち、十九才で天然理心流を学んだ。その後、士に憧れ、八王子千人同心に所属したが、同僚と諍いを起こして逃亡することになった。逃亡先は、天然理心流の本山というべき剣術道場、試衛館である。
実は八王子千人同心の中に、かつて天然理心流二代目宗家の近藤三助が所属していた。登一郎の頃にはすでに他界していたが、近藤三助の高弟の一人に剣術を学んでいた登一郎は、逃亡を余儀なくされると、前後もなく試衛館に飛び込んだ。
この頃、試衛館の主で天然理心流四代目宗家となっていたのは近藤勇で、戦国時代から風雪を耐えてきた古岩であるというような風貌をした男だった。近藤は突然転がり込んできた登一郎に特段の驚きも見せず、登一郎が先々代と同じ八王子千人同心であり、しかも同流を学んでいると知るや、持ち前の兄貴肌で登一郎を受け入れた。
居候となった登一郎がある日、戯れに木刀を振っていると、その剣の筋に感心した近藤は門人になることを提案したが、同心仲間との諍いで無用の剣を振るってしまっていた登一郎は辞退した。しかし、ただ居候として過ごすのも心苦しく、登一郎は試衛館の出納や書類仕事を手伝った。登一郎には事務の才能があったようで、滞りがちだった道場の事務仕事はあっという間に片付いた。そのうえ、登一郎は文字も達者であったから、近藤は自分の手紙の清書を頼むこともあった。
その近藤が、清河の浪士団結成の檄に激しく反応し、土方や沖田などの試衛館門人を引き連れて参加することになった。試衛館の居候にすぎなかった登一郎に近藤は声を掛けなかったが、かわりに近藤の妻が登一郎を部屋に呼んだ。すでに近藤たちは多摩を出立していた。
登一郎は、近藤の妻から依頼をうけた。近藤との間に一女をもうけたばかりのまだ若い妻は、夫が激動の京都へ向かうことをひどく案じていた。しかも、尽忠報国に徹するあまり、自分たちのこともきっと忘れてしまうだろうから、登一郎も京へ行き、近藤の日常を手紙で知らせて欲しい、というのだった。さしあたりすることもないし、試衛館には多大の恩があるため、登一郎は近藤の妻の依頼を快諾したのである。
登一郎が京の下京七条通に居を落ち着けたとき、清河が京に連れ込み、その大半を連れ去った浪士団の残党は、壬生村の八木邸に腰を落ち着け、京都守護職である会津藩お預かりの壬生浪士組を名乗っていた。近藤は試衛館一派の領袖となり、壬生浪士組の幹部格に納まっていた。
住居の確保と京までの路銀で近藤の妻からもらった金子の大半を消費した登一郎は、壬生村に近藤を訪ねることにした。困ったとき、すぐに人に無心できるところが登一郎の性格である。もっとも、近藤に会わぬ限りは、近藤の妻へ手紙も書けない。
「登一郎ではないか」
八木邸にぶらりと現れた登一郎を、例によってさして驚きをみせない近藤は自室に招き入れた。人斬り騒動が日常茶飯事の京に半月早く着いていたからか、近藤にはどこか血の匂いがまとわりついているような精悍さがあった。もともと古武士の風格を有していた近藤だったから、対面したときに押し寄せてくる迫力は大いに増していた。しかしそんな近藤にも、登一郎は平気で金の話をした。
「つねがお前にそんなことを頼んだのか」
近藤は面白くなさそうな顔で言った。つねは近藤の妻の名だ。
「はい」
と、答えた登一郎は、あとは涼しい顔をして金が出てくるのを待った。金が必要な事情を説明し終えた以上は何も案じることはない、というのが登一郎の論法だ。金が出てこなければ、日雇い仕事でも探そうと考えていた。夜の物騒な京であれば、夜の仕事が簡単に見つかるだろうとたかをくくってもいた。
幸いなことに、登一郎の前に金が置かれた。このときの登一郎は知らなかったが、壬生浪士組はまだ会津藩お預かりとなったばかりで給金も少なく、近藤としてはかなり無理をした金であった。
近藤に来客ということで、登一郎は部屋を急き立てられた。入れ違いになった客というのが、殿内義雄であった。
登一郎は、殿内に興味をそそられた。すれ違ったときの、殿内から発したわずかな空気のたゆたいに、時代に役割を持つ者の風韻を感じたのだ。
当面の金を手に入れたことであるし、下京七条通に急いで帰宅する必要もないので、登一郎は八木邸の近くをうろつくことにした。殿内の風韻に今一度触れてみたい。できれば、言葉を交わしてみたい。それは、蘭語読みが新しい洋書を見かけたときや、俳句読みが風情を感じ取ったときに生ずるどうしようもない衝動と同じだった。
子供の声がしたので、そちらに足を向けると、数人の子供の姿に交じって、長身の男がいた。
「中島さん、いつこちらへ」
長身の男が人なつっこい目を向けてきた。
「沖田殿。あいかわらず童の人気者だね」
沖田総司という天然理心流試衛館の門人だ。当然、今は壬生浪士組試衛館一派の一人ということになる。登一郎よりも三つほど若い。
「総司と呼び捨てて下さいと言ってるのに。分からないお人だなぁ」
口は尖らせたが、目はほころばせたままだ。登一郎は笑っただけで、呼び方を改めるとも何とも言わなかった。
「中島さんが来てくれたなら百人力だ。これで水戸の人たちに偉そうな顔をされなくて済む」
沖田は声を弾ませた。水戸の人たちというのは、芹沢を領袖とする神道無念流一派のことだ。沖田が声を弾ませる限り、壬生浪士組内における主導権争いは神道無念流一派が優勢であるらしい、と登一郎は推測した。
「わたしは浪士組に加入するために京へ来たわけじゃないんだよ」
沖田の誤解を解いておかなければならない。それじゃあ何しに京へ、とは問わないところが沖田の無邪気さだ。ただ、つまらなそうな顔をした。しかし、すぐに目に元気を取り戻し、
「でも、何かあったら助太刀してくれるでしょう?」
もう決めつけたような沖田の言い方だった。そういう言い方をされた以上は否定できない。もちろん、近藤や沖田に助太刀を求められるような事態があれば、長刀ひっさげて駆けつける覚悟はある。なにしろ、試衛館には大きな恩がある。ただ、人を斬る感触は、あまり好きではなかった。
子供たちがごね始めたので、沖田と登一郎の会話はそこまでだった。沖田が子供たちとうまく遊ぶ様子を眺めていると、八木邸の門を人影が出て行った。
殿内だ。
登一郎は殿内の影を追った。
「もし。まことに失礼ではございますが」
登一郎は一度の殿内の前に出てから慇懃に腰を折り、物腰丁寧に呼び止めた。迂闊に後ろから呼びかければ、振り向きざま斬りかかれかねない狂気が、京の空気には当然のような顔で漂っている。
「そなたは確か、近藤君の先客であったな。話の邪魔をしてしまって悪かった」
体格はいかにも剣客らしく屈強に見えたが、顔にはやつれがあった。
「中島登一郎と申します」
と、登一郎は名乗った。元八王子千人同心だが、その以前は武州多摩の農家の息子だったと素性を明かすと、殿内の眉の根が開いた。殿内も、いまは歴とした結城藩士で、江戸の昌平坂学問所で優秀であったことから幕府の信用もあるが、もとをただせば上総の名主の息子である。
「近藤君とは親しいのかね」
「試衛館でお世話になりました」
居候であったことを、登一郎は殿内に話した。
「では、君も天然理心流か」
殿内自身は何流か明かさなかったが、かなりの手練れである事は隙のない立ち方を見れば感じ取れる。
「どうかね、少し、話すか」
殿内が誘うと、登一郎は丁寧に頭を下げた。
歩きながらの話になった。
登一郎は生来の聞き上手で、彼が相づちをうつだけで、話し手は言葉を吸い取られるように多弁になる。
殿内は上総武射郡の農村の名主の子として誕生した。彼の長閑な日々を破ったのは、嘉永六年の黒船来航だ。巨大な鉄の船が江戸湾の波頭を蹴立てる様に時代のうねりを強く体感した殿内はいてもたってもおられず、江戸に出て剣術修行に励み、昌平坂学問所で頭角を現し、結城藩から招聘を受けるまでになった。
江戸における文武両道の殿内の評判は、例の清河八郎の耳にも入り、清河は意中を秘めたまま、殿内に接触した。上洛する将軍警護を名目とした浪士組結成に殿内の賛同を得た清河は計画を実現へと進めていくが、殿内を動かしたのは清河の弁舌ではなく、実は幕臣の鵜殿鳩翁からの依頼であった。
昌平坂学問所での学術修行中に鵜殿の知己を得た殿内は、結城藩士の籍を得る際にも労を取ってもらっている。恩を感じた殿内は、鵜殿が浪士組取締役の一人に任じられると、その一助ともなればとの思いで、浪士組に参加した。ちなみに殿内はこの段階で結城藩士であり、幕府の、とりわけ鵜殿の信用による募集側の人間であったので、浪士組の名簿には記載されていない。
二百名を超すくせ者揃いの浪士団は無事に京に就いたが、清河の演説で、その大半が攘夷の先兵として江戸に帰ってしまった。その責任を負って取締役を辞職した鵜殿は、江戸への帰り支度を整えていた殿内の肩に手を置いた。
「清河はとんだくわせ者であったが、ここには京に残り、上様への忠義を果たそうとしている者がいる。彼らはそろって田舎者。武士の礼儀も弁えておらぬ。彼らを教導し、立派に務めを果たせるように助けてやってはもらえまいか」
殿内は、恩義のある鵜殿からそう頭を下げられたのだ。
こうして殿内は、壬生浪士組の取締役の一人となった。
ところが、誕生したばかりの壬生浪士組は、さっそく近藤らの試衛館派と芹沢らの水戸派に分かれ、主導権争いを始めた。
我の強い田舎武士を教導すべく、殿内は両派を行き来して融和に努めたが、芳しい成果はなかなか上がらなかった。
殿内は試衛館派の天然理心流ではなく、水戸派の神道無念流でもなかったが、心情的には水戸派に近かった。なぜなら芹沢ははみ出し者とはいえ元水戸藩士であり、結城藩士である殿内は、同じ士分であるという身分上の仲間意識があった。二本差しながら百姓にすぎない近藤には武士への憧れが強かった分、士としての言動を見せる殿内がひどく尊大に見えた。もとはてめぇも百姓の倅じゃねぇか、という反発が近藤にはあった。
百姓から士分に取り立てられた者への嫉視に気付かなかった殿内は、両派の仲介の不調に悩み、悩んだ挙句、一つのことに思い至った。つまり、自分には自分の言葉に重みを持たせる集団の力がない、ということだ。要するに、殿内自身の派閥がない。幕府から信用を得ているとはいえ、殿内は幕臣ではない。そこで殿内は一旦江戸に戻り、仲間を集めようとした。この日に近藤を訪ねたのは、しばらくの留守を詫びるためであった。
「近藤君は、わざわざ送別の宴を設けてくれるそうだ。彼も一派をまとめる者だから難しい話をするが、根は親切な男なのだろう」
殿内は上機嫌であった。
「随分と余計なことを話してしまったな。中島君、近藤君と親しいのであればよろしく伝えておいてもらいたい」
登一郎は快諾した。恩義に応えようと努力する人間は、登一郎にとって好ましかった。
「申し遅れたが、わしは殿内という。次に京に戻ったときには、一献、酌み交わそうではないか」
そう約して、殿内は登一郎と別れた。
その後、殿内が登一郎と酒を酌み交わすことはなかった。殿内が江戸に帰ることもなかった。
登一郎と会話した日の夜、殿内は四条大橋で斬られ、死んだ。
下手人はわからない。
一流の剣客であったはずだが、旅姿であった殿内は、刀を刀袋に収めたままだった。
近藤であろう、と登一郎は思う。実際に凶刃を振るったのは、沖田であるかも知れない。しかしそのことを近藤にも沖田にも問い質すつもりはない。近藤も沖田も、時代に配された役者である。歴史舞台の上で、それぞれの役柄を演じているだけのことだ。
筆を置いた登一郎は、絵筆を揃えた。
しばらくして、和紙に、四条大橋に横たわる殿内の姿が描かれた。