第三章 四、儚い現実 青い光(五)
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淡い月明かりの下で、馬の足音だけが耳に馴染む。
ただ、静まり返った戦場の痕には、血汗の絡んだ冷たい煙と湿気が、鼻に残る。
「ねぇ、ガラディオ。出来れば、早く抜けて欲しいのだけど……」
二人して黙々と帰路についていたけれど、たまらなくなって声を出した。
眩暈と吐き気が残っているせいで、本当にもどしてしまいそうだ。
「……そうしてやりたいが、馬も疲れているからだめだ。死骸を踏んで怪我をさせてしまうからな。もうしばらく我慢してくれ」
それに答える気力もなく、仕方なく彼に体を預け続けた。わたしを抱えてくれている腕に触れたけれど、甲冑に包まれたそれには伝わらない。
(わかったけど、吐いちゃったらごめんね)
「可能なら寝ていろ。……後一時間は掛かる」
戦争とは過酷だ。
全てを擦り潰し、それでも飽き足りなくて、生き残っている者からも命を削り取ろうとする。
(この惨状を作ったのは、あいつ――黒いトラなんだ)
そう思うと、あいつの願い事なんて聞いてやる義理はないと、憤りが湧き上がってくる。
ここにあるのは獣の死骸だけに見えるけれど、城壁や、破壊された街ではどうなっているだろう。平民達は避難が済んでいるとはいえ、貴族達は自分の屋敷を砦代わりに、平民達の盾として陣取っていた。もしもあいつが攻撃していたら、そうとうな被害が出ているはずだ。
逆にお義父様のお屋敷は、わたしとリリアナのお世話をする従者達しか残っていなかったのは幸いだったと言えるだろう。
お屋敷の侍女達、従者達は、あの襲撃から運よく免れているだろうか。それとも……。
(リリアナも、あの後どうなったかな)
もはや、疲弊を鑑みずに飛んで様子を見に行きたい。
でも、安全なのか分からない城壁の外で、ガラディオを一人残していく事は出来ない。勝手に飛び出したわたしを、単騎で追いかけて来てくれたのだから。
彼も疲れているだろうに、この暗い中を、死骸を避けながら激走して来てくれた。途中でトラの襲撃も受けて、それでもなお、わたしを護るために。
それは、彼にとっては仕事だからで、余計に過酷なものにしたのは……わたしだ。自分だけではなく、彼の命も危険に晒した。
前々から、わたしの行動のせいで誰かが死ぬだろうと怒られてきた。それなのにまた……同じことをしてしまった。
(どんなに怒られても、全部わたしが悪い)
ようやく、自分のした事の非常識さ、身勝手さに気が付いた。
「ガラディオ……いつも本当に、ごめんなさい」
体をよじるように彼の顔を見上げて、心から謝った。
「お前の謝罪は、信じない事にしている」
夜風と共に冷え込みがきつくなっているせいか、その言葉は、余計に胸に突き刺さってしまった。
まさか、こんなに無下にされる感じで返されるとは思わなかったから。
「……ごめんなさい。本当に。ほんとに謝ります。ごめんなさい」
どうしようもないから出撃した。けど、今思えば、あいつが城壁から出て森に走った時に、わたしは追わずに城壁に戻っていたら?
冷静に考えれば、他の手も思いつく。
それを、いつでも出来るようにならなければ……。
(出来るかな。わたしに……)
「まあ、今回は俺も助けられたからな。それに、黒いトラの注意を引きつけてくれたお陰で、仕留められた。そもそも深追いしなきゃ良かったんだが、結果は悪くなかった」
(慰め……られてる?)
「あ、ありがとう」
自己反省が終わると、また黙ってしまった。
でもそれは、先程までの沈黙よりも心地良い無言だ。
独特の匂いにも少し慣れ、馬の足音に耳を傾けていれば、身震いする夜風の寒さも我慢できた。
ガラディオに送られてお屋敷に戻ると、リリアナも侍女達も皆無事だった。
奇跡的に、黒いトラが破壊した近くには誰も居なかったらしい。それが分かると、本当に心の底から安堵出来た。疲れも眩暈も吹き飛んで、リリアナと抱き合って喜んだ。
ただ、城壁の戦いでは死傷者が出ているらしく、もろ手を挙げて勝利を喜ぶ事は出来なかった。
兵士達とその家族は、やはり誰もが粛々としているらしい。
平民達は避難が解除されると、揚々として勝利に酔いながら家路についたようだ。夜半頃まで家々の明かりが灯っていて、酒場では朝まで酒を酌み交わしていたという。
わたし達は、破壊されたのは一部だけなのでお屋敷に戻り、暖を取って眠りについた。各々で自然と寄り集まり、侍女達は結局、二人で一つのベッドで眠った。部屋が吹き飛ばされたわたしとリリアナも、代わりの部屋で同じベッドに入った。お互いに無事だった事が嬉しかったけれど、ほとんど何も話さずに、ただただ両腕を絡め合うようにして、向き合って眠った。
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一夜明けると、被害状況がはっきりとしてきた。
とりわけ話題になったのは、東側の王城近くの建物被害だった。これまで城壁内に突入されたのは、何世紀も前の事だったというから、それなりに混乱していた。
ただ唯一喜べるのは、王城近くの屋敷はどれも出撃部隊所属の貴族邸で人は出払っており、人的被害はほとんど無いだろうと言われている事だった。
それとは別に、南の城壁に近い広場では、失われた兵達を弔う準備が進められていた。
戦争の後の生活が動き出す。
それはやはり、非日常だ。
無事では無かった人達にとって、それは傷であり続けるし、いつまで経とうとも、傷は傷跡になるだけ。
何も元には戻らない、非日常の延長でしかない。そんな沈痛の日々が、彼らには始まっている。
お義父様への報告のために、そして状況把握のために、リリアナと二人で東側の視察と、城壁の南側を舐めるように馬車を走らせた。
「いつかまた、人同士の戦争でこんな風になったら……相手の国と和睦なんて、結べるのかしらね」
為政者としてリリアナは、そういう事も考えなくてはいけないのだろう。
もしかしたら、わたしもその傍らで、似た事を考え続ける日が来るのかもしれない。
「私なら……」
そう言いかけて、何も言えないでいた。
「フフ。エラはそんな事、考えなくていいのよ。いつかはそうなるかもしれないけど、今は、そんな事しなくていいの」
向かい合って座っていたけども、リリアナが両手を広げているので隣に移動した。抱きしめて欲しかったし、お互いに触れていたい気持ちは同じだった。彼女に寄り添うと、ぎゅっと抱きしめられた。
お揃いの、紫紺色の厚手のドレスが温かいのか、リリアナの体温が伝わるのか、なんだかとてもほっとした。
わたしは、国を治めるというよりは、きっと破壊する側だろう。手に入れた剣と、なによりも翼の持つ力で。敵対する国を、兵達を、焼く力を持ってしまっているのだから。
それを考えているのが、リリアナには分かったのかもしれない。彼女が寂しいから抱きしめているのではなくて、わたしをなだめるように抱きしめてくれている。そんな気がしていた。
(もっと、別の出会い方でなければ……あんな願い、聞いてあげる事なんて出来ないわよ)
わたしの中で、あいつの願いに対する答えはもう、ほとんど固まっていた。それについての報告と、どうしたらいいかを聞きに向かっているけれど……。
仮に、森に入ってトラの子を見つけたとして、どんな顔をして連れ帰るというのだろう。それに、もしも獣の本能を制御できなかったら、手を下すのはわたしの役目だ。
(……兵達の家族に会わせる顔も無いし、曲がりなりにも育てた子に手を下す事も、わたしには出来ない)
そんな責任放棄を、まず自分が許せない。
結局、砦に居るお義父様には、経緯を報告したまでになった。どうしたいも何も聞かれなかった。
わたしの目を見て、優しいお顔をされたまま、わたしの言葉を黙って聞いてくれていた。
見殺しに変わりない事をするのも、嫌ではあったけれど。
それでも、わたしはこの国で、この人達と一緒に生きていきたいのだ。
「そうか。報告ご苦労だった。屋敷は少々不便だろうが、警備を増やすからそのまま使ってくれ。後は、しばらく休養を取りなさい。ファルミノに戻るのは、十分に休んでからだ」
リリアナは少し不思議そうな顔をしたけれど、特に異論なく承諾した。わたしはそれに続くだけだから、同じく「はい」と答えた。
お義父様は忙しくてあまり会えないかもしれないけど、それでも近くに居るのだという安心感が嬉しい。そこにリリアナも居るのだから、それだけで十分過ぎる程に幸せだった。
今はとりあえず、そのほかの事は考えられない。疲れ切っているのだと思う。
考えてみれば、まだ年端のいかない自分には、荷が大きすぎる事ばかりだった。
少しくらい休んでも許されそうな時に、しっかりと休ませてもらおう。




