第三章 三、悪夢の続き(十)
**
――マチくたびれたぞ。
頭の中を殴りながら響かせるような、強い頭痛を伴う声が聞こえた。
「痛ッ……。何? だれ?」
――サクジツ、スコしハナしただろう。おマエはネンネしていたがな。サイゴは、おマエとケッチャクをツけようじゃないか。
地面にかかる大きな影が動いた。建物の夕影だと思っていたそれが動くのは、まだ眩暈が続いているせいかと思ったけれど、違った。
ぐるる。という動物の唸り声が頭上から聞こえた。まるで、こちらだと呼びつけたかのように。
「エラ……こんどこそ、逃げなさい……」
リリアナが怯えを隠せないほどに、声が震えている。
――ヒサしいな。よくミておくがヨい。おマエのテキであるワレのスガタを。
見上げると、巨大な黒いトラのようなものがわたし達を見下ろしていた。真っ黒い体に、虎柄の輪郭だけが薄く青く、光っている。目も瞳も真っ黒で、夜になると月夜でも視認できないだろう。
それは少し横を向いていて、片方の目でわたしだけに視線を合わせ、リリアナの事は無視している。
「こいつは、私とじゃれたいみたいです。リリアナが逃げてください。……動けますか?」
足は治ったのだろうけど、動けるほどの回復なのかは分からない。
――それをミオサめたか? そろそろヒがクれる。おマエのメではトラえられんようになるだろう。フ、フ。
黒い巨大なトラは、いたずらした事をわざと教えるような様子で、自らの足元を見た。
黒鉄の大木のような足の下には、侍女たちが踏みつけられている。
「お前! 彼女達を……」
――ようやくキヅいたか。イケニエにしてやろうとオモったが、ニゲるモノをカるのはキョウがソがれた。まだイかしているぞ? カンシャするのだな。
そいつは、深い切れ込みの口の端を、引きつらせるようにニイっと笑んだ。
「……足をどけなさい。お仕置きをしてあげるわ」
眩暈など気にしていられない。この獣は、絶対に倒さなくてはいけない。
「エラ、もしかして、その獣と喋っているの? 何も聞こえないけど……」
リリアナは、まだ起き上がれないようだった。体を引きずるでもなくその場に居るので、逃げる事を諦めてしまったのかもしれない。
「そうです。痛いくらいの声が頭に響いています。それより、動けそうなら少しでも離れてください」
リリアナに答えつつ、トラはすぐに襲ってくる様子ではないので、周りの状況を見渡してみた。辺りの建物は、あちこちが大きく破壊されていた。騎士達も駆けつけてくれていたけれど、わたし達と侍女達が人質になっていて動けずにいる。
「皆さん! そのまま逃げてください! 私がこいつを倒しますから!」
わたしの力を知らない人からすれば、世迷い事に聞こえるだろう。それでも、今下手に動かれて、侍女達を踏みつぶされてはかなわない。
「お二人を助けに来たのです! お二人がお逃げください!」
ややこしい事になってしまった。この巨大トラに暴れられたら、あの騎士達が周りの建物のように粉砕されてしまう。
「ねぇ、黒いトラ。場所を変えたいと言ったら、呑んでくれるかしら」
問いかけに、それは少しだけ首を傾げると、ふいと顎を上げた。
――ブジンのナサけだ。ヨいだろう。
「そう。いい子ね。王城の外ならあなたが選んでいいわよ」
黒いトラは、顎を上げたまま見下すような視線を落として、こう言った。
――オモいアがりめが。ツいてくるがいい。
それは、侍女達を踏んでいた足をそっと上げると、彼女達を咥えるそぶりをした。
「――やめなさい!」
――どけてやるだけだ。
トラはそう告げると、彼女達をベロンとすくうように舐めて、まるで子猫を動かすのと同じように、その鼻先と舌で転がすようにどかした。
「……感謝しておくわ」
――ふん。
と言うと、黒いトラは目で追えないほどの俊敏さで、あっという間に城壁の上まで跳ねて行った。
「もう、日が暮れてしまう……」
夕日はすでに、半分以上を地平の向こうに姿を隠したらしい。薄明かりだけが残る空は、星が見え始めていた。
「エラ! 追いかけちゃだめよ! 分かっているわよね? ガラディオが来るのを待つの!」
リリアナは、わたしがあれについて行くと察したのだろう。わたしの足にしがみついて、怒っているかのように言った。
「リリアナ……ガラディオは今どこですか? どうやって連絡を取るのですか? 私が行かないと、あれはまた戻ってきて……今度は皆殺しにされます」
「でも! いくらその武器があっても、あんなの無理よ!」
リリアナは涙を流しながら、必死でわたしの足を離すまいと、痛いくらいにしがみついている。
「リリアナ。わたしは上空から一方的に攻撃出来るんです。安心してください」
そう言うと、きつく締め付けていた彼女の手が、ふわりと緩んだ。
「本当? 絶対に、安全に勝てるのよね?」
すがる様な、祈る様な目で、リリアナはわたしを見上げる。
「ええ。だから、少しだけ待っていてください。ね?」
わたしはそう告げて、離してくれたリリアナに小さく手を振って、そして一気に上空に飛んだ。
もしかすると、この嘘がリリアナとの最後の会話になるのかと思うと、胸の奥が痛んだ。
「ごめんね。リリアナ。……もし戻れたら、怒らないで、褒めて……ほしいな」
涙が出そうになるのをこらえて、城壁の上に堂々と居座るトラを見た。
――見張りは、殺されてしまったのかな。
この城壁は、東側になる。正門の南側に兵が集中しているにしても、誰も居ないのはおかしい。でも、よく見ると王城に向かうほどに街の破壊が酷い。一度そちらの方まで壊してから、わたしの居るお屋敷に来たのだろう。そこを邪魔されたくないから、王城付近に兵を散らしたのだ。
道理で、お屋敷に集まっていた騎士達の数が少なかったはずだ。様子を把握するための先遣隊だったのだろう。
(どれだけ機転がきくの? それとも、陽動を使いこなすだけの知能を持っているとでも?)
そう思いながら城壁に寄っていくと、トラの足元にはまた、人が何人か踏まれていた。
「一応、あまり殺さないようにはしてくれているのね」
……いや、そうではないのかもしれない。
あのトラは『逃げる者を狩るのは興が削がれた』と言うほどだ。ただ、彼らは恐怖で背を向けたのではなく、逃げてでも、皆に知らせようとしたのだろう。
(そうしてくれて良かった)
踏まれて、怪我などをしていなければいいけど。
「あんなに強くて賢い獣、逃がすわけには……絶対に倒さないと」
――オソい。
「あなたが街を壊したからよ。状況を確認していたの」
――ツギは、ヒマツブしにミナゴロしにしてやる。
トラは苛立ちを隠さずにそう言うと、城壁から瞬く間に、森林街道の北方へと走り去っていく。
「やっぱり、森に入るわよね」
確信した。
あのトラは、獣の思考ではない。
作戦も練るし自分に有利な場所も選ぶ。何よりも、『武人の情け』だと言っていた。明らかに、人の言葉も情操も知っているし、理解しているのだ。
「冗談じゃないわ。自動制御と自動戦闘、アテにしてるからね……」
何も応えない翼と剣に念を押して、黒いトラを追った。
お読みいただき、ありがとうございます。
ブックマーク下さった方、ありがとうございます。久しぶりに増えました!(笑)
こんな人気のな……いや、ニッチに刺さる系の小説なのだろうと思う事にしました。
これからも、読んで「面白い」と思って頂けたらば、ぜひとも他の人に紹介して頂いて、広めてくださると嬉しいです。
「つまらん!」という方も、こんなつまらん小説があると広めてもらえると幸いです。
ぜひぜひ、よろしくお願いします。




