第三章 一、恋愛事情(八)
だが、クマと呼ばれた焦げ茶色のそれは、あまりに大きかった。遠くだから理解出来ていなかったけれど、三階建ての家くらいはある……ような気がする。何本もの光で射抜いたように見えたが、貫通していないのだろう。わたしに振り向き、とんでもない殺気を放ちながらこちらへ走り出そうとしている。
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(ガラディオ達が危ない!)
思うや否や、わたしは巨大熊に向かって飛んだ。その加速は、空気の圧を感じさせないのに景色の流れが凄まじかった。
「すごい速度だ。このまま剣と、羽の剣とやらで一撃……!」
飛行速度は目にも止まらぬ程だ。この速度とこの剣があれば、容易く首を斬れるだろうと思った。
(ごめんね。でも、人を襲うのなら――)
巨大熊は、わたしの速度に反応出来ていない。すぐに終わるだろう。
――だがそれは、大木にでも当てたのかと思う程の硬さと重さだった。
(これは、力を逃がさなければ手首が折れる!)
「くぅぅ……!」
ギリギリの所で刃すじを流し、掛かる力を逃がした。翼も、無意識の危機を感じたのか、手首や肘、肩の筋が傷む直前で減速した。お陰で、腕を傷める事は無かった。
「なんて硬さなの? 皮一枚を滑らせただけになった」
巨大熊のすぐ側を通過する間際に、翼から放たれた風切り羽が数本、剣のように同じ所をなぞっていたけれど、それも首を少し斬り進めただけで頸動脈には全く届いていない。
(悔しい)
これだけの兵器がありながら、純粋な巨大さと力に押し負けたのだから。
わたしは翼を翻して巨大熊に向き直った。十数メートル離れてしまったけれど、翼があれば一瞬で詰められる。
(もう一度斬り込んでやる。次は、目への突きなら……)
四つん這いのクマほど厄介なものはないけれど、弱い部分はあると言えばある。目と、その奥の薄い頭蓋を突き破って脳を斬る。
浮いたまま構えを取り、再び巨大熊に突進をかける――
「――嬢ちゃん! 離れろ!」
追いかけてきたガラディオが、もう来ていた。
「そいつの突進力はそこに届く!」
そう聞こえた瞬間には、焦げ茶色の何かが伸びて、わたしの視界に微かに入った。横から薙ぐような軌道で、飛び上がらなければと反応したけれど――
「――んうっ!」
がぎぎぎ! という不快な音と、凄まじい衝撃が同時に起きた。
どうなったのか、しばらく分からなかった。
体は、地面から数十メートルは浮き上がっている。いや、跳ね飛ばされたのだろう。体の芯に残る衝撃と、その力のベクトルが体を浮かせているのだと理解しだした。翼は、防御に間に合わなかったのだろうか。対艦ミサイルも防ぐと説明していたのに。
「……しぬ……の?」
通常ならば、最初の衝撃そのもので、体が千切れ飛んでいるだろう。
「……痛く、ない」
あまりの損傷があると、痛覚は全て遮断される事がある。
「……うそだ」
こんな。こんな所で?
せっかく、人を超えるような力を手にしたのに?
これからもっと……上手く使いこなせるように、練習もしたかったのに。
でも、どこかで諦めている自分が居る。あれは、人の体が……か細いこの体が、耐えられるような衝撃ではなかった。
あんなに可憐で、可愛い姿が、今はもう、無残にバラバラになっているのだろう。
下の方で、ガラディオがちょうど、巨大熊に接近した所が見えた。
少し距離があるけど、見える。彼の放ったハルバードの一撃は、あの硬い硬い熊の首を、容易く刎ね飛ばした。
「わぁ……やっぱり、ガラディオはすごいなぁ」
古代の兵器をもってしても、こんな目に遭っている自分とは違って……彼は凄い。拍手を送ろう。わたしはもうすぐ、息絶えるだろうけど。心からの賛美を。
程なくして、自由落下の力で、体が地面へと吸い寄せられていく。思いのほかゆっくりに見えるのは、死の間際だからだろうか?
「――何をしてる! 早く立て直せ! 飛べぇぇぇ!」
ガラディオが、こちらを見上げて叫んでいる。飛べと。
でも、こんな体では……。
悲しくなりながら、最後に自分がいかに無様な死に様なのかを、現実を見ようと思った。驕った戒めに。
「嬢ちゃん!」
見てみると、意外な事に全身がある。胴のどこかで千切れていると思っていたのに。
(――死んでない!)
ガラディオの声が、ようやく意識に乗った。
(落ちてる。飛ばないと!)
立て直さなければと思った瞬間に、翼が反応したのかふわりと浮いた。その浮遊感で、一瞬酔いそうになりながら。
「ちっ! 戦場でぼさっとするんじゃない!」
ガラディオの厳しい叱責が、自分に向けられたものだと分かった。
「まだ少し脳が揺れているの。怒鳴らないで」
不意に出た言葉は、ありがとうでもごめんなさいでもなく、逆切れの言葉だった。
「そんな憎まれ口が叩けるなら、大丈夫なんだろう。……よかった。無事で」
彼は怒りを抑えながら、そして、心からの安堵を口にしてくれた。
「……すみません」
浮いているので、初めてガラディオよりも目線が高くなっていた。
「あなたより、高い所ってこんな景色なのね」
この一連の出来事が、ようやく危ない橋を渡ったのだと実感して、心臓が破裂するのではというくらいにドクドクドクと、脈打っている。
「おい、頭を掠めたのか? 本当に大丈夫なんだろうな。確認しろ。どこも損傷していないか?」
怖い聞き方をする人だ。ただでさえ、体が千切れたと錯覚するくらいだったのに。
ペタペタと、手や頭、体や足を触ってみた。
「ある……ぜんぶ、あります」
怖かった。
そう思うと、体が震え出した。ブルブル、ブルブルと。抑えようとしても収まらない。
そこに翼が、「ガラディオ、私をそこに乗せなさい」と勝手に喋った。
(え?)
「ん? あぁ! こちらへどうぞ、エラお嬢様」
気さくな笑顔を作って、彼は手を伸ばして受け止めてくれた。
片手でわたしを上手に座らせると、その腕で抱きしめるように支えてくれた。
「ちっ、違うんです! この翼が私の声で勝手に喋るんです! 私、こんなに偉そうな言い方しませんから……」
と言うも、「ははっ、そうか、そうかもな」と聞き流された。
手綱を持つために片手で支えられ、思いのほかぎゅっと抱かれているので顔が近い。
戦った直後の鋭い眼光。引き締まった、精悍な顔つき。先程の彼の一撃を思い出して、かっこよかったなと思った。
(男の人って、やっぱり強いんだ……)
彼が、特別に特別なのだろうけれど。
そんな事を思うと、顔が熱く、赤くなっていくのが分かった。
「なんだ、顔が赤いぞ。熱でもあるのか? さっきので怪我してないか?」
「ち、違いますよ? 大丈夫です何でもありません」
ガラディオと居ると、いつも調子を崩される。シロエのそれとも違う。どこか悔しいと感じるような、近寄りがたいのに、少しだけ近寄ってみたいような。
「戻ったら、シロエとリリアナに見てもらえよ? 傷が無いか、絶対に確認するんだ。いいな」
そんな彼はまた、少し反発したくなるような事を言う。
「わ、分かっています。ばいきんが入ると、いけないからでしょう?」
そうだ。くらいの返事をくれればいいのに、彼はきょろきょろとしながら無視をした。
(くやしい……)
誰からも甘やかされてきたのに、彼は時折、粗野な接し方をする。それなのに、優しい。
(何だか苦手だ)
「おい、何か匂わないか」
突然そんな、毎日お風呂に入れてもらっているのに。
「し、しつれいな――」
「――違う。嬢ちゃんじゃなくて、この辺でだ」
言われてみると、さっきから少し臭うなと思っていた。
あの馬車からのような気がする。
腐敗臭を甘くしたような、気持ちの悪い臭い。
「たしかに……」
伝えようとした時に、突然そこから声がした。
「ヴうううううううううううううう!」
呻き散らす大きな声が。
「おい。馬車に何を乗せている!」
ガラディオは何かを察したようだった。そして馬車の持ち主は、まだ生きていたのか。
「びょ、病人だから、見せられない」
「隠すな!」
ガラディオはハルバードの切っ先で、馬車の天幕を切り裂いた。鉄の骨に幕を被せただけのそれは、容易く馬車の中を露わにした。
その中には、檻に入れられた人……のようなものが見えた。
「獣化人じゃないか! 感染したまま放置したな? これをどうする気だ!」
お読み頂きありがとうございます。
いつも同じ言葉ですみません。でも、コピペではありませんよ。
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第一章の入れ替え作業で、せっかく、いいねして下さっていたものを削除しています。これはもう本当に、申し訳ありません。あと一つ削除しなくてはいけませんが、どうかご容赦ください。




