第三章 一、恋愛事情(三)
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「こやつ、耳を塞ぎおった。これ、エラ。話を聞かんか。元はと言えばおぬしらの提案だろうが。一体どうしたというんだ……」
耳を塞いだところで、実際にはそれなりに聞こえてしまう。聞きたくないという姿勢を示したに過ぎない。ただ、わたし達の提案だったという事は、用無しになったという事ではないという事だろうか。
そんな事を思っていると、リリアナも側に来てわたしの頭を撫ではじめた。
「エラ……。私と一緒に、ちょっとした旅をしましょうと言っていたの、覚えてる? 私のお付きになってくれるという話は? お爺様の側に居る方が、良くなってしまったのかしら……。エラの気持ちを教えて。無理強いなんて、しないから」
彼女の碧い瞳は、少し寂しそうだ。わたしがその約束よりも、お義父様と居る事を選んだと思ったからだろう。
「ちがうんです……約束は、ずっと忘れてはいません。今も、リリアナに恩を返したいと思っています。そうではなくて……なぜかふと、私はもう用無しになってしまって、捨てられてしまうと思い込んでしまったんです。考えてみれば、おかしな話なんですけど」
耳から手を離して、お義父様のお膝元に座ったまま答えた。リリアナの碧い瞳を真っすぐに見て、思いのまま話した。
「ただ、わたしは……。私は、ちょっと昔の事を思い出してしまったみたいで、混乱してしまったんです。初めて知った幸せが、突然、失われてしまうのではないかと。親の愛というものも、おとう様から初めて頂戴しました。愛される喜びが、こんなにも甘美なものだったなんて」
それを知るまでは、『無いものを求めて何になるのだ』と、欲しいなどとは微塵も思った事がなかった。感情に抑揚も無く、ただ現実の中を生きていくだけ。唯一の喜びは、得意な武術の腕を磨く事だけだった。
ところが、この星に飛ばされて力を失った代わりに、人の優しさに触れた。生まれて初めて、理想を超えるような愛情を与えられ、その甘い幸せがたまらなく愛おしくなった。
それを失うのが……怖くなった。こんなに心が満たされた事はない。一度も得られなかったものが突然与えられると、また突然失ってしまうのではという恐怖が、急に胸の中で膨らんで恐ろしくなった。
「だから、もしかして急に、おとう様からもう愛してもらえなくなるのではと。わけの分からない事を思ってしまって、取り乱してしまいました」
伏し目になったわたしの視線に、その目を合わせるためにリリアナは屈んだ。下から見上げて、わたしに優しく、こう告げた。
「エラ。あなたから幸せを奪うなんてこと、誰もしないわ。だって、皆があなたの事を愛しているんだもの。私も、お爺様も、そこの変態のシロエも。だから、あなたのしたいようにして欲しい。皆がそう思ってるわ」
リリアナの手が、わたしの頬に触れて涙の痕をそっと拭ってくれた。
「ここに居たいなら、そうしていいのよ? 最初に出会った頃のあなたの目は、本当に昏くて今にも死んでしまいそうだったけど……今は、とても輝いていてとても素敵。それが一番嬉しいの。だから、あなたの生き方は、あなたが選んでいいのよ。エラ」
本心からの、優しくて強い言葉だった。
「リリアナ……ほんとうに、どうしてあなたは、そんなに優しいのですか? 私なんて……こんなに優しくして頂けるような、特別な人間ではないのに」
出会った当初は、この体は看護してもらわなければならず、動けるようになってからも何度も倒れ、健康に生きられるか分からない存在だったのに。
「あら、あなたはとっくに、私達にとって特別な存在よ? そう思うのは私達の自由だし、きれい事を聞きたいなら、民を護るのは私やお爺様の使命だからよ。でも、一緒に過ごすうちに、目が離せなくなったの。大好きになってしまったんだもの。エラが幸せに生きられるなら、出来る限りの事をしてあげたいと思う」
疑うつもりなど無かったというのに、この二年間の厚遇が、身に余る事だったのだと理解すればするほど、失ってしまうのかもしれないと不安がよぎる。
「ふむ……エラよ。お前の功績を直接感じてみるのも悪くなかろう。お前は立派なワシの家族であるし、もはや逃れたくても逃れられん状況でもあると、それを知るのが早かろう。食事はもう良いなら、すぐに応接室に行くとしよう。すでにうんざりするほど、人を待たせてある」
それまで優しい顔でわたしを見ていたお義父様が、話し終わる頃には元の険しいお顔になり、さらには天井を見上げて、大きなため息をついた。
「一体……どういう……」
メンタルが落ち込み過ぎて頭の回転が悪くなっているだろうわたしは、何が待ち受けているのか、全く分からなかった。
「エラ、悩み事は、どんな環境でも付いて回るものなのよ? だから、今は目の前の事に集中するように頑張るといいわ。ま、今日はほんとに、うんざりすると思うから。それだけは覚悟しておくのね」
リリアナは、その白くてきめの細かい手で、わたしの頭を柔らかく撫でた。その表情は少しいたずらな微笑みをしていて、妙な不安がよぎったけれども。
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――一階の応接室では、すでに三人が、見て左側のソファに並んで座していた。
細長いテーブルを挟んだ、一対の長い、革張りのソファ。大人が三人座っても、少し余裕がある。部屋を二分するように相対して置かれたそれは、どこか歓迎の様ではないような配置に見えた。向かいのソファも同じものだけど、大きなクッションが置かれている。なぜか、それはわたしのために置かれたものだと分かった。
「エラ。ワシと一緒に、そこに座りなさい」
示されたのは、やはりクッションの隣だった。くつろげる雰囲気ではないけれど、それがあるだけでも愛情……温もりを感じる。手触りの良いフカフカのクッションを一度撫でてから、向かいの三人を見た。
身なりはどの人も良いけれど、貴族が好んで着るものとは違う個性の無いスーツだし、質が劣る気がした。従者の偉い人……執事長のような、従者を束ねるくらいの地位の人なのかもしれない。
「さて……お待たせしたようだが、こんなに早くからの訪問とは、何か急ぎの要件かな?」
お義父様の低く通る声は抑揚がなく、歓迎していないのは明らかだった。威圧するほどではないけれど、相手にするつもりもない。そんな様子が見て取れたし、向かいの三人も感じ取っているようだった。今のお義父様の言葉ひとつで、三人の頭が下がっていく。
「大公様、そしてご令嬢のエラ様。今日は突然の訪問というご無礼をお許しください。家長から急ぎの手紙を預かっておりまして、何卒直接お渡ししたく、参上いたしました」
端に座っている人がそう言うと、他の二人も続いた。
「右に同じでございます」
そして各々、綺麗な装飾の封筒をテーブルに置いて差し出した。
「大公様とエラ様への、お食事のお誘いでございます。参加してくだされば、家長はじめ屋敷の全員でおもてなし致したく、是非とも……お越し頂きたく存じます」
「当家も同じく、是非に、ご一考くださいませ」
「当家においては、特別で珍しい見世物もご用意しております。ぜひにお越しくださいませ」
言う事は同じらしく、三人とも少し違う言葉を選ぶのが大変そうに見えた。先に言った人が有利なのに順番は決まっていたようで、それは家の差なのだろう。
「ふむ、要件は以上か? ならば受け取った。考えておこう」
まるで決まりごとのような文句を、何の感慨も無く淡々と述べるお義父様は、すでに少し疲れた様子だった。
「そ、それでは失礼致します。何卒、ご一考くださいませ」
「よろしくお願い致します」
などなど、席を立った直後まではアピールするものなのか、彼らは必死に念押しをして帰っていった。
「あの……私って、座っているだけで良いのでしょうか。ものすごく、目で訴えかけられて圧が凄かったのですが……」
やはり疲れた様子のお義父様を見上げながら、ああ、これはこの後もしばらく続くのだと察した。
「そうだな。お前も疲れるだろうから、適当にそれにもたれて休みなさい。今日は姿勢を崩しても誰も文句は言わんからな。……頑張れ」
「えっ……?」
「まあ、そのうちに分かる」
その会話が、午前の最後のものとなった。
扉が開けば数人が通され、帰ったと思えば入れ替わりで数人が通された。同じ会話の繰り返しで、変わるのは人の顔だけだった。それもいつしか、同じように見えてくる。
一体、何人が目の前で入れ替わっていっただろう。少なくとも二十回以上は入れ替わっている。果たして、そんなに貴族というのは多いのだろうかと疑問に思うほどに。しかし、それもそのはずで、同じ家の別の執事が、多くて三度は訪れるというのだから当然の成り行きだった。
これらは、全て私への交際申し込みの手紙らしい。食事に招くのが最初のきっかけ作りで、選んでもらいたいという一心で手紙を持参するのだそうだ。これらの手紙は、貰った家によってはまとめて放り投げて、遠くへ飛んだものを選ぶ。といった事もあるようで、数が必要だと考えて何度も渡す事があるらしい。
ただ、一応は目を通す家には逆効果で、『二通程度なら目を瞑ってやろうと思うだろう』という心理戦を含めた数の応酬なのだそうだ。ちなみに、成人の儀から一日空けて持参する事は、休息を取ってもらうための礼儀という事だ。手紙だけの送付は前日からもあるようで、そのチェックに、お義父様は昨日も大変だったそうだ。
そこまでの事になるのは、人気の令嬢ならでは。という事を、昼食の時に聞いた。それほどわたしの人気は高く、貴族の求婚史上でも最も多いのではないかと、お義父様とリリアナは話していた。
「チッ。うんざりする暇もないくらいに、ぞろぞろとやってきおる。庭に集めて全員一度に済ませてやりたいのに、時間をずらしよるから面倒この上ない。腹立たしいやつらめ」
お義父様の様子は、うんざりから怒りに変わっていた。これが午後も続くらしいので、わたしも疲れたけれど……これから来る人は、お義父様の殺気を中てられる事になるだろう。少し可哀そうだ。
けれど、わたしも正直飽きてしまった。人気なのだと言われて嬉しい気持ちと、うかうかと外出できないのだなという、怖さを感じる。ただでさえ、襲撃を受けるかもしれないと気を張っているのに、これまで以上に人の動きに気を向けなければならない。
(でも、そっか……わたしの護衛の人達は、常にそういう感じで護ってくれていたんだ)
そもそもお義父様は、ずっとそうして護ろうと……いや、護ってきてくれているのだ。
(やっぱり、お側を離れるのは……つらい)
リリアナとの約束よりも、自分を護ってくれる人の側に居たいだなんて、なんて子供じみた心になってしまったんだろう。体力的な弱さよりも、ずっと酷い。
「さて、エラよ。午後も頑張るか? 疲れたならもう、部屋で休んでいなさい。対面しなければならない決まりなど、無いからな」
ひと時の休みを取り終え、応接室に向かおうかという所だった。
「おとう様だけに、このような事を押し付けるのは嫌です。クッションに頼る事になっても、一緒に居ます」
それに、リリアナとの約束を守るなら……お義父様と居る時間は、刻一刻と失われていくのだから。
「そうか。まあ、これも家の仕事だと思ってくれ。体面を最低限保つというのは、確かに大切な事だからな。偉いぞ、エラ」
そして午後からも、同じような挨拶を貰い、こちらは同じ答えをした。
しかし途中で、珍客が訪れた。交際の申し込みではなく、貢物の持参と、公爵家私設騎士団に入団したいという男が。
その男は、初めて見る顔つきだと思った。誰かに似ているような気もしたけれど、お義父様を見ても、「誰だこいつは」という顔をしている。箱入り娘のわたしならばともかく、お義父様が分からないのならば、珍しい人に違いない。そもそも、今日のこのタイミングで来る事が変わった人であると、そう告げているに等しい。
食後の眠気に誘われていたので、興味を惹かれて丁度良いとは思ったけれど。
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