第二章 六、成人の儀(三)
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「エラ様、お久しぶりです。お元気でしたか?」
畏まった挨拶と礼をして、白いメイド服風のドレスの裾を広げているのは、シロエだった。
「シロエ……シロエ!」
艶のある、栗色の髪の彼女は、それを左に束ねて肩から前に流している。四ヶ月近く会っていないけれど、その優しい笑顔を忘れた事は無い。
「もう。いつまで頭を下げているんですか? 早く顔を見せてください」
きっと、もったいぶって顔を見せずにいるのだ。そう思って催促をした。
「エラ様……涙が止まらなくて、頭を起こしたらメイクが流れてしまうんです」
まさか。と思ったが、たしかに雫が時折落ちている。
「ちょ、ちょっと。ハンカチ、これを使ってください」
慌てつつもそっと。シロエの目元に当てがった。
「エラ様ぁ、お手紙一通だけなんて、冷たすぎます。しかも、何度も命を狙われたって……」
シロエはわたしの手を掴んで――もう片方の手ではハンカチを両の目に交互に当てながら――手に頬ずりをした。めかし込んだわたしの、唯一触っても問題の無い所が『手』だと判断したのだろう。
「あぁ、シロエってば。手袋越しではレースが気持ち悪いでしょう」
黒レースの長手袋は、正直なところ着脱が面倒だ。なので、今は素手で触れる事が出来ない。
「いいんです。もうすぐ呼ばれると思いますから、面倒はおかけしません。ウィンお爺様がいらしたので、居ても立っても居られなくなって、私だけエラ様に会いにきたんです」
そんなに想ってくれていたんだ。会いたかったのは同じ気持ちだと思うけれど、我慢が出来るわたしはシロエよりも、少しだけ冷たいのだろうか。
「リリアナも居るんですよね? 今日、会う事は出来ますか?」
「お嬢様は、メザニンにいらっしゃるので直接会えないと思います。ゆっくりと時間を作れるのは明日以降になると思う。と、言伝を貰っています」
メザニン……確か、中二階のテラス席のような所だったはずだ。
「そうなんだ……じゃあ、そこから私の晴れ姿、見ていてもらいますね。シロエも見れるんですか?」
ようやく泣き止んだシロエは、少し寂しそうに「お嬢様のお側に居ますので、私もメザニンから一緒に見ていますね」と言った。
「そんなに寂しそうな顔をしないで。離れるのが、わたしも悲しくなるじゃないですか」
久しぶりに会ったシロエと、もっとゆっくりしていたい。
「フフ。そう言って頂けるだけで、私は嬉しいです」
彼女は本当に嬉しそうに笑うと、それでは戻りますと、下がろうとした。
「あ、待ってください。その……フィナもそちらに連れていく事は出来ますか?」
可能ならば、ずっとお世話をしてくれているフィナにも見てもらいたい。けれど、成人の儀の間は侍女は立ち入れない。終わった後の、簡単なパーティになってからしか会場に入れないのだ。
「あぁ、なるほど……ウィンお爺様がいらっしゃるので大丈夫だと思います」
「良かった……おとう様にお願いしようと思っていたのに、建物に夢中になってしまって。お聞きする前に行ってしまわれたので困っていたんです。ありがとう、シロエ」
扉の前の護衛に聞いてみようかとも思ったけれど、今から『完璧なアドレー家の嫡子』を演じようという所なので、イレギュラーな事を頼むのを断念していたのだ。
「エラ様のお心遣いを受けるフィナが、羨ましいです……」
嫉妬を隠そうともせずに暗い目でフィナを見るので、フィナはぎょっとしている。
「シロエ? どうしてそういう事言うの?」
こんな事を言う人では無かったはずなのに。
「わ、ごめんなさいフィナ。会えない間のエラ様の側に、ずっと居られたんだ。って思ったらつい本音が」
(毒はいつも通りなのに)
「シロエ。そんな事言ってたら、帰ってもお風呂一緒に入らないからね」
これが決め手にならないなら、どうしようかと思っていると、あっさりと折れてくれた。
フィナは、何の事だろうと首を傾げている。
「すみません……フィナもごめんなさい。きちんと許可をもらって、フィナにも一緒に見てもらいますから、それだけは……!」
割と本気でしょんぼりとして見えるから、これ以上は、もう問題発言はしないだろう。
「うん。それじゃあ、フィナをお願いね。二人にも入場から見てもらいたいから、行ってください」
そう言って促すと、シロエはフィナを連れて、部屋を出て行った。出る時にフィナは、「私にまで気を配って頂いて、ありがとうございます。エラ様の晴れ姿、しっかりと目に焼き付けますね」と、嬉しそうに言ってくれた。
二人が部屋を出る時に、一度こちらを向いてくれたので、ウインクをした。「見ていてね」という挨拶のつもりだったのだが、二人は一瞬よろめいて、口元を手で抑えながら去っていった。
(どういうリアクションなんだろう?)
でも、その後ろに居た護衛の一人もウインクを見ていたようで、二人が去った後に、わたしは護衛とばっちり目が合った。なかなか扉を閉じてくれないので、微笑みながら小首を傾げると――彼は確かに「可憐だ……」と、呟いた。小声だったので、後の言葉は聞き取れなかったけれど。
(あなたにしたわけじゃ、ないんだけどなぁ……)
そんな事を思っていると、彼は慌てて振り返って、ビシっと敬礼をした。
――来たんだ。
開いたままの扉に、前に居る護衛とはどこか違う鎧の彼が、ノックをしてから部屋の中に数歩入ってきた。
「失礼いたします! アドレー家ご息女、エラ様! どうぞご準備ください!」
大き過ぎない、絶妙に張りのある声で呼ばれた。
「ええ。行きましょう」
わたしは短く答えて、お臍の辺りで手を組んで歩を進めた。それを見て、呼びに来た彼は踵を返した。扉を護衛に開けさせた状態で、彼は通路へと進んだ。私が護衛の前を過ぎると、彼は会場へと進む。数歩の距離まで近づくと、彼はまたその先へと進む。まるで、磁石の同極同士が反発して離れるように、一定の距離でそうなる力でも働いているかのようで可笑しかった。
しかし、その小さな楽しみは、大きな白と金の扉の前で終わった。重厚なアーチ型の扉には、大きな手すり状の取っ手が縦に付いている。扉自体は白く、そこに四角い意匠の金細工が施されていて、いかにも立派な造形をしている。
その左側には護衛が一人居て、右側に彼が立つと、二人は大きな観音開きの扉を同時に、ゆっくりと開いていった。
「アドレー家ご息女! エラ・ファルミノ様! ご入場です!」
彼がまた、今度は会場に響く様に声を張り、わたしの入場を伝えた。
開いた時にはガヤガヤとしていた会場が、一気にシン、と静まり返った。まるで会場そのものが、固唾を呑んでわたしが入るのを待っているようだ。アーチ型の大きな口の中に、怯えながら無様に押し込まれて来い、という圧があるような、黒い熱気をはらんでいる。
(すごいプレッシャー……貴族派連中はよっぽど、わたしを貶めたいんだ)
でも、あの二日月の夜に感じた殺気に比べれば、何の危険も感じない。汚されるかもしれないおぞましさも、体を失うかもしれない恐怖も、どちらも無い。これは、まるでおままごとだ。
(そうか、戦陣の中に常に居るという事は、こうした場はぬるま湯みたいなものなんだ)
そう思うと、笑みが漏れた。
(あまり不敵になっても良くないかな)
感情を小さくして、少しだけ微笑んでいるような柔らかな表情を作った。正面を見据えて、呼吸を深く細くして、意識を全身に巡らせる。どんな罵詈雑言を浴びせられようと、微動だにしないように集中した。そしてゆっくり、悠然と歩を進める。
アーチ型の扉を抜けると、一気に人の視線が集まるのが分かった。興味や悪意。殺気は無いとはいえ、様々な『目』を沢山向けられると、さすがに一瞬、空気が重いと感じた。会場全体が敵なのかと思える程には、圧を感じる。
広い会場は、異様な熱気に包まれている。中央のレッドカーペットを境に、左右には貴族たちが列を成している。自分の目線を正面から動かしていないので、正確な数は把握できないけれど、数百人は居るような気がする。
入ってすぐに一度立ち止まり、アドレー家だけに許された会釈程度の礼をした。
貴族令嬢の礼は、ドレスの裾を軽く持ち上げた時に、手の平を皆に見せる仕草と共に、膝と腰を曲げてお辞儀をする。
しかし、アドレー家だけは違う。ドレスの裾を持つ手は、手の甲を向けたままだ。そして膝だけを少し曲げて目を軽く伏せ、それを礼とする。
これが許されるのはアドレー家だけで、それ故に不遜だと敵視する貴族も少なくない。国王や王族に対してだけ、普通の貴族令嬢の礼を行う事で忠誠の表現としている。それも、他の貴族には気に入らないのだという。
その礼を見て、近くからは舌打ちや「なまいきな」という声が聞こえる。でも、想定内の事は気にならない。むしろ予想通りだと楽しくなってくるのは、何故なんだろう。
それ以外は、会場は静かなままで、こんなものかと歩を進めた時だった。
『おおお…………!』
『わぁ……』
などなど、会場がどよめき始めた。それは、進めば進む程に広がっていく。このドレスのように、まるで闇夜から日が明けていく様を、皆の声で演じているかの如く、ゆっくりと。
(なにごと?)
周りを確認したくても、正面から目を動かすとかっこ悪い。という想いがあるせいで視線を左右に振れない。ただ分かるのは、少し前の方から、後ろにかけてどよめきが起こり続けているという事だけだった。予想していた罵詈雑言は、その感嘆にも似た貴族たちの声にかき消されているのか、聞こえて来ない。もしくは、誰もが呻いているかだ。
耳を澄ませば、かすかに文句らしきものが聞こえなくはないけれど、ささやかなものばかりだった。『帯剣しているなど生意気だ』とか『古代種がどうの』とか、ただの感想しか聞こえない。
(何がどうなって、皆はどよめいているんだろう……)
それよりも、この広い会場は、正面のメザニンまでなかなかの距離がある。全体が巨大なアーチ状天井なのは分かったけれど、向こうまで五十メートル近くあるような気がする。横幅も、三十メートル以上はあるだろう。
(これはもう、広い体育館だ……)
壁や窓、天井の装飾を見てみたいのに、目線を動かさないと決めているので観察できない。皆のどよめきを引き連れるようにして、国王が居るメザニンを目指して優雅に、そして悠然と歩を進め続けるのみだ。ただ、国王は奥に座しているのか、陰になっていて誰かがいるのかさえ分からない。
(あぁ、そういえば、国王は待たせるのが好きなんだっけ)
でも、リリアナはどこかで見てくれているはずだ。シロエとフィナも。そして、お義父様も。
早く一目見たいという気持ちを抑えて、ゆっくりと歩くのがもどかしい。その反面、この晴れ姿を、皆の目に見せつけるのだという目的を思い出した。
会場の真ん中を超えても、『ぅぉおお……!』といったどよめきは、同じように広がっていく。
地球では、芸能人などにはキャーキャーという黄色い声援が飛ぶけれど、これは一体どういう感情のものなのだろうか。それだけが不確かで、不安だった。どう聞いても、良い方の声だ。とは思うけれども。
(着飾ったわたしを見て、感動して言葉が出ない。という事なら嬉しいのに)
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