第九章 二十七、エイシアの激憤
第九章 二十七、エイシアの激憤
エイシアの爪に力が籠り、おそらくはルネの首に狙いを定めたその時。
ルネは咄嗟の言葉を口にした。
「最後にお願い。エイシアなら出来ない? ダラスの想いだけは、私の代わりに救ってあげて欲しいの」
その身に委ねられた想いを、まだ叶えていない事を思い出したのだろう。
「ちっ……やはりか貴様。愚かしい。救えるかもしれんのは、生きているものだけだ。死者をどう救えると? その無駄な優しさで、さらに貴様が苦しんでどうする。その結果がこれぞ」
そのやり取りに入って、エラは叫んだ。
「おねえ様と話す時間を頂戴!」
「貴様……。よかろう。最後の時間だ」
それを聞いて、小鳥姿のエラはルネの方にまた、ぱたぱたと懸命に飛んだ。
深過ぎる傷痕が痛々しいルネの、その眼前に小さな体を寄せた。
「おねえ様……。おねえ様は、生きているのが辛かったのですね。それなのにいつでも、誰かのためにばかりで……ご自身のために何かなさったことは……ありませんよね」
姉の生き方の、その理由を知ったエラの目には、覚悟めいたものが滲み出ていた。
それを包み込むような、優しく慈しむような目で、ルネは見つめ返している。
「ここに来てからは、皆が居るから……それがとても幸せだった。私のためには、皆がしてくれるんだもの。だから自分のためにしたいことより、皆のために何かしたかったの」
「でも、この傷の憎しみは……消えないのですね」
「……うん。そのせいで、エイシアに目をつけられちゃった。そして実際に、手に入れた力で……やり過ぎちゃうところまで来ちゃった。自分が正しいと思ったら、それだけで大量殺人することを何も感じないんだもの。冷静に考えたら……とんでもない殺人鬼よね。笑っちゃう」
ルネは、何をもって世界の敵と呼ばれたのかを理解し始めていたらしい。
己が正義だと行き過ぎた者の、踏み切ってしまった末路はおおよそ、殺戮者となる。
それが、エイシアを調整者として、その役割を起こしてしまったのだ。
「……たしかに、それは……考え直して頂きたいですが……だからといって死んでほしくありません。私はこれからもずっと、おねえ様と一緒に過ごしていきたいんです。おねえ様がいない世界なんて、考えられません。だからそんな風に、死ぬことを受け入れないでください」
「エラ……。だけど、こんな私がいたらいつか、リリアナやおとう様に迷惑をかけてしまうわ。そんなの嫌よ。だから、突っ走って取り返しのつかないことをする前に……エイシアに止めてもらうのが良いのよ、きっと」
自制しようとも、いつかそれが効かなくなる。
なぜならルネは、人間というものを、生き物だと認識出来なくなっているからだった。
それは憎悪ゆえであるし、幼少の頃から心を殺し続けてきた、その弊害であった。
本当の味方か、味方ではないものか、それとも……敵対するものか。
敵であれば容赦する必要はない。
そういう価値基準、分類というだけで、人間というものが命という概念から外れてしまった。
ただ、その世界では殺人は法に触れる。
実害が己にも降りかかるゆえに、敵にも容赦していたというだけだったのだ。
それがこの世界では、容赦しなくても良い瞬間がある。
公爵令嬢という立場、明らかな国賊、そして敵国の人間。
明確な敵には、ルネの価値基準で命を刈り取る事が許されてきた。
その流れは、ルネをある種の殺戮者として、瞬く間に育ててしまったのだ。
暴走を己で止められないからこそ、エイシアにその身を委ねるというのが、今ここでの決断となった。
「だから……エラは私から離れて。私はここから、エラのことを見守っているから。ね?」
「……フフ。そういうところは本当に頑固ですよね……うん……分かりました」
エラは、姉の頑固さを好きでもあったけれど、こういう状況では嫌いでもあった。
特に、自分の命は簡単に投げ出すくせに、大切な人には生きろと言う時。
「エイシア。このまま私ごと殺して。そうすれば、おねえ様を一人にしないで済むから」
諦めの良すぎる姉を、少し懲らしめてやりたい気持ちと……どんな事になろうと、ずっと一緒にいたいという気持ち。
それが、この行動となった。
「貴様! よもや策を違えるつもりか!」
予想しなかったエラの動きに、ルネよりも先ずエイシアに動揺が見えた。
「何を言っているの! エラ!」
次いで発した姉の言葉には反応せず、エラはエイシアに皮肉気味に告げる。
「どっちか一人残る方が、大変そうだって言ってたじゃない。だから、二人とも死ねばあなたには問題ないでしょう?」
「……おのれ。我を力不足と愚弄するつもりか」
何らかの作戦があり、それを反故にしたのだろう。
そのエラの言動に対して、エイシアは苛立った。
「そんなこと思ってない。でも、おねえ様は……ひとりぼっちになってしまうもの。そんなのダメ。だから、私も一緒に居るの。私はそれで幸せだから。だからいいでしょ? ね? おねえ様」
エラはエイシアに反論し、そして姉には、ねだるように共に居たいと言った。
「……エラ……いやよ。エラは幸せに生きてほしい」
「だめです。おねえ様をここに置いて、私ひとり楽しくなんて生きられません。それに……私も似たような人生だったんですから。二人なら分かり合えると思って」
「でも、エラの仇は、リリアナがとってくれたでしょう?」
「はい。でも……最初はおねえ様が、夢で助けてくれたんですよ? それからおねえ様の仇は、私の仇でもあります。ずっと一緒に過ごしたんですから、もう、それも同じなんです。だから……仇が居ない憤りも、半分こしましょう」
「だめよ。エラはそんなこと思ってくれなくていいの」
そのやり取りを、エイシアはいつまで見ていればいいのかと苛立っていた。
考えてみれば、この二人の会話を待ってやる意味などないのだと。
なぜか興味を持ってしまったせいで、二人と時間を共にし過ぎたせいだとエイシアは思った。
「お話とやらは、もう終いとしてもらおうか。後はここで、仲良く寄り添っておるがいい」
改めて爪に力を籠め、身を低くして飛び掛かる態勢を取った。
ちょうど、小鳥のエラが、深い傷を持つルネの頭の前に重なっている。
薙ぐように爪を払えば、容易くまとめて切り裂けるだろう。
「あまり待ってくれないのね、エイシア。分かった……するなら一撃で決めてね。痛いのは嫌だもの」
エラは、ルネよりも果敢に覚悟を決めていた。
それは、エイシアの力への、信頼でもあったが。
しかしルネは、大切なエラを失う覚悟は出来なかった。
「待ってエイシア。エラはだめ! 絶対に! そんなことしたら、許さないから!」
「許さぬだと? そのボロボロの姿で何が出来る。もう茶番は終わりだ。世界の敵となる種は、やはり二つとも摘んでおこう」
このつまらぬ問答も、これで最後だ。
とでも思ったのだろう。エイシアは少し上機嫌に答えた。
「ええ。さよならエイシア。おねえ様、一緒だから、寂しくないですからね」
「まって! 待ってよ!」
二人を完全に捉え、後は薙ぐだけのエイシア。
「思えば、初めからこうしておれば良かったな。我も興味など持ってしまったがゆえの過ちであった。その恥ごと、ここに置いて行こうぞ。――さらばだ」
「おねえ様……愛しています」
「だめ! もう何も憎まないから! 兵器なんて使わないから! やめてええええええ!」
エイシアは容赦なく跳躍し、その前足を振るった。
鋭い爪に、念動の力を注いでいるから撫でるだけで事は済む。
しかし――。
大切なエラを護りたいという一心に染まったルネのゴーストは、叫びと共に太陽のように輝き、そしてその光は四散した。
――エイシアは、ほんの僅かに怯んだが、その爪の軌道だけは変えなかった。
だが次の瞬間には、周りの星々からまた光が集う。ルネの深い傷跡の中に入り、やがては全身を包んだ。
眩い光が収まったそこには、巨大な猛禽類のような虹色の大鳥が居た。
その煌めく翼を広げ、可憐な小鳥を懐に抱いている。
「ちっ! こけおどしなど!」
エイシアの放った鋭い爪の一撃は、それでも確かに二人を薙いだ。
爪の切っ先には、得物を仕留めたはずの手応えが残る。
だから本来は、分断された小鳥の死骸と、首を断たれた猛禽類の姿がそこにあるはずだった。
そのはずなのに、そこには何枚かの七色の羽が散っているだけだった。
見た事もない虹色の大鳥。
その七色の翼によって、爪が弾かれてしまったのだ。
「記憶の残骸どもが! 我の邪魔をするな!」
エイシアは激高し顔を歪め、記憶の網にある星々に対して猛烈に吠えた。
そして、憎々しく二人を睨んでいる。
「おねえ様……お姿が……」
「……エラ。大丈夫? よく分からないけど、この姿……」
「綺麗です。おねえ様」
優美な虹色の羽が揃い、凛とした大鳥の姿にエラは見惚れている。
ルネ自身も、首を傾けては己の変容した姿を確認した。
「そっか、ここの皆が……」
「おねえ様。今ので私……一緒に死ぬ覚悟が…………抜けてしまいました」
「うん……そうね。そのままでいて頂戴。私はやっぱり、エラを死なせたくないから。だから……私ももう、怒りに身を任せたりしない。憎しみも忘れるようにする。だからずっと、エラと一緒に生きていきたい! ごめんねエラ。だから一緒に死のうだなんて、もうしないで……」
虹色の大鳥は、その紅い瞳に涙を浮かべた。
「おねえ様……言葉になりません。でも、そうですよ。一緒に生きてください。それに思ったんです。おねえ様が兵器を使いたくなったら、私に言ってください。私が敵を全て魅了してしまえば、おねえ様が殺戮する必要なんてないじゃないですか」
それは、また別の覚悟を決めたらしかった。
姉と共に、世界と戦うという覚悟を。




