第九章 二十六、ルネの傷痕
第九章 二十六、ルネの傷痕
ルネは、不利な状況にありながらも、違和感を察知したらしかった。
エラによって頭の働きを抑えられている事で、その本能がより強く残ったせいかもしれない。
「エイシア……。怒りを、鎮めろですって?」
「そう言った」
エイシアは、ルネの存在を脅かすように振舞ってはいても、容赦をしている。
それを見逃していた事に、ルネは気付いたのだ。
「簡単に言ってくれるわね……あなたに私の気持ちなんて、分からないわよ。ずうっと、理不尽に蔑ろにされた子どもの気持ちなんて」
過去に、幼少の頃より受け続けた不条理に対する怒りが、より鮮明に浮かび上がる。
だがそれは、いま見せ過ぎてはいけないのだと、ルネは察していた。
「そうか、その理不尽を、今度は貴様が世界に振り撒きたいということか。なるほどなるほど……貴様は、その親もどきと同じことをする。そういうことか。おそろしく愉快なことだ」
「はぁ? あんなやつらと同じですって? ぜんぜんちがう!」
エイシアにおいても、ルネの反応に妙なわざとらしさを感じた。
そう。ルネはこのような感情の起伏を嫌うはずだと。
エラの力の作用かとも考えたエイシアだが、直感はそうではないと告げていた。
ルネは新たに何かを探っているし、その本来の怒りを隠したようだと、そのように感じ取った。
「何が違う? 建前の話か? 己には復讐する理由があるだとか、まさか……そんなくだらんことは……言わんよなぁ?」
「復讐……は、ダラスの分よ。私は……この国の、大切な人たちを護るためだもの。あんなやつらとは、ぜんぜん違う」
ルネが復讐を否定した。
つまりそれは、その怒りや憎悪を嫌っている事を察した証だと、エイシアは捉えた。
ルネもまた、それが正しいのだろうと確信に変えてゆく。
なぜなら、エイシアが自分の怒りをわざと煽っているように思えたから。
「ほう? ほう? それで? 貴様や、その金属片の想いとやらで、罪のない人間どもを焼き尽くすには……十分な理由なのか? それは、理不尽な力ではないのだな?」
「罪……」
理屈じみたことを、エイシアがこれまで語った事があっただろうかと、ルネは考えていた。
むしろ言葉少なく、干渉するつもりはないという態度だったはずだと。
「そうよなぁ。攻めて来た国が悪いのだよなぁ。無理矢理戦わされたとしても、逆らわなかったそいつらが悪いのだし……その他の人間どもも、戦争を良しとする国に逆らわず、是とした罪があるものなぁ」
「いじわるな言い方しないでよ! でも、そうよ……仕方がないの。私たちの怒りと、皆を護るためだもの」
ルネは怒りを隠し、建前を、さも全ての動機の根源であるように語った。
怒りは完全に否定しない。
だからこそ、建前が生きてくるのだと確信して。
逆に、エイシアはそこで完全に気付いた。
ルネの持つ本能の怒りを、今この最大のチャンスを持ってしても、暴き出せないのだと。
ならば、白々しい演技はこれで最後にするほかない。
エイシアは、くだらない煽り文句だと思いながら、その言葉を吐き出した。
「はっはっは。本音を言えばよかろう。……憂さ晴らしを、したいだろう? これまで溜め込んだ憎悪を、吐き出さねば辛かろう?」
ルネはそれに答えなかった。
ボロボロの鳥の姿でさえ、妖艶な姿のエイシアを睨むようにじっと見て、押し黙っている。
**
ひと時、エイシアは記憶の網から戻った。
エラに失敗の報告をするために。
「……おねえ様はやっぱり、強敵ね。じゃあ……次の作戦に移りましょう。私も記憶の網に入って、私がおねえ様の怒りを引き出します」
エラは、膝にのせた姉の頭を、ずっと優しく撫でていた。
姉は一筋縄ではいかないと、どこかで分かっていたのかもしれない。
「言っておくが、最終的にどうしようもないと判断すれば……我はあやつを排するぞ。恨むなよ? 貴様も人魔の役割を、少しは全うする時だと諦めるのだ」
「嫌よ。私は絶対に失敗しない。エイシアこそ、わざと失敗したんじゃないでしょうね」
エイシアは、このまどろっこしいやり方に、いい加減うんざりとしているらしかった。
ルネの額に置いた爪に、ぐっと力が籠りそうになっている。
「疑うか。だが今は協力すると、そう言ったはずだ」
その爪に初めて殺意が出たのを見て、それまで耐えていたのだなと、エラは疑うのをやめた。
「……分かってる。それじゃあ、入るわね」
**
エイシアの姿が歪み、本来あった神獣のごとき巨大な銀毛のネコへと変わった。
淡い青のトラ柄が、いつもより一層、神々しく眩い。
「あら、やっぱりエイシアはその姿がお似合いね。私を挑発するなら、その方がきっといいわよ」
ルネにはどこか、余裕が見て取れた。
エイシアには、焦げ付いた憎悪を見せなければ大丈夫だろうと。
「貴様の可愛い妹が来たぞ。少し話してやるがいい」
高圧的とはいかないまでも、その突き放した感じは、この記憶の網では初めての事だった。
「おねえ様! こんな姿ですが、私です。エラですよ!」
ふと現れた可愛らしい小鳥が、パタパタと一生懸命に羽ばたきながら、ルネの後ろからふわふわとやってきた。
「エラ! そういえば、ここではその小鳥の姿だったわね」
大きさだけはある鳥姿のルネへと、エラはその首に寄り添うようにめがけた。
なんとか辿り着くと、猛禽類のような顔立ちの姉を見上げて告げる。
「おねえ様。エイシアが見ているから、率直に言いますね?」
お伺いを立てるように。
けれど、小鳥のエラが小首を傾げ、まん丸の瞳で見つめられては、逆らう気持ちなどルネには起きなかった。
「エラの言うことなら、なんでも聞いちゃうわよ?」
ただ、この記憶の網の中に呼び込むきっかけを作ったのは、エラだったこともルネは思い出していた。
エラとエイシアは、何かをしようとしている。
ルネはほんの少しだけエラを見つめた。
そして、大切な妹のすることに、間違いなどないのだと小さく頷いた。
「あのね、おねえ様。その心の奥底にあるお怒りを……どうにか、切り離せませんか?」
「エラ……気付いていたのね」
核心を突かれ、ルネは一瞬たじろぎかけた。
だが、この一連の流れを汲み取って、どこか納得してもう一度、今度は大きく頷いた。
エラはそれを見て、まん丸の赤い瞳を輝かせる。
「それじゃあ、それはここに、そっと置いていきましょう。おねえ様なら、きっとそう言ってくれると思――」
「――でもね、エラ。そんなの出来ない……。これがあったからこそ、この怒りを原動力にしていたからこそ、私はここまで生きて来られたんだもの。どんなに辛いことがあっても、例えようがないほどの孤独と寂しさを感じていても。だから……悪いことばかりじゃなかったのよ? むしろこれが無かったら……この星に来る前に、命を絶っていたと思う」
「――おねえ様…………」
それを聞いたエラは、まん丸の瞳を曇らせて涙を浮かべた。
ただ、エイシアはそれを、冷たい視線でじっと見ている。
「切り離せぬだろうし、焦げ付いた憎悪が変わることもあるまい」
「やっぱりエイシアは、私のことが気に入らないのよね」
両者は冷ややかに視線を合わせるも、それは互いに諦めがついたかのような、どこかスッキリとした冷たさだった。
「世界を焼こうとするような愚か者を、我が許すと思うか?」
「……そうね。私があなたなら、同じように私を殺すと思う。仕方がないわね。だって私、やっぱりまだ、敵国をひとつだけでも焼き払いたいと思っているもの」
「やけに素直ではないか。話が早い」
それは死を受け入れた者と、死を与える者のみが理解し合える、特別な会話だった。
だから、エラにはとても受け入れられず、慌てて二人の間にパタパタと飛んだ。
「おねえ様を殺さないで!」
その小鳥の姿では、エイシアを制する事など出来はしない。
それに人魔の力は、記憶の網の中ではまだ十分に発揮できない。
エラはその身を、どうにか盾にする事しか出来ないのを、理解しての行動だった。
「そんな事をしても、我等はもう、互いに納得したのだ。邪魔をするな」
「エラ……ここではどうすることも出来ないし……現実であっても、私はたぶん、受け入れると思う。だって、やっぱり憎しみは消えないんだもの。原動力だった時は良かったけど、今は……手にした力で、悪だと思ったものをすり潰すまで気が済まない。きっと、今回は我慢したとしても、次の日には気が変わって、兵器を使うかもしれないもの」
そう言ったルネの鳥姿は、首から胸にかけて大きく、ざっくりと裂けた。
肉と骨、臓器までもが見える程に、深く深く、大きな古い傷痕。
「ひっ! お、おねえ様……なんて酷い……」
エラは一瞬、エイシアがやったのだと睨みつけた。
けれど、そのエイシア自身が驚いて目を丸くしているのを見て、そうではない事を知った。
「ああ……ここでは、こんな風になるんだ……ゴーストが傷付いているのを体で見ると、結構えげつないのね」
「それ程の致命傷を受けていてなお、生きていただと?」
エイシアは、素直にその驚きと感嘆をもらした。
「私も今知ったのよ。でも、苦しいわけよね。ずっと。治らないわけだ」
淡々と語るルネに、エラが声にならない悲鳴をあげた。
「あぁぁ……おねえ様……そんな、そんな傷を抱えたままで……今まで……」
それでいてなお、他者を護ろうとする姿が重なり、エラは言葉さえも失った。
そしてエイシアは、鋭く大きな爪を出して身を低くした。
「……その憎しみ、我は初めて理解を示そう。ルネよ……そんな身で、今までよくやったと褒めてやる。貴様には敬意を持って、死を与えよう」




