第九章 二十五、その性質ゆえに
第九章 二十五、その性質ゆえに
錯乱したルネを、エラはその力で何とか眠らせる事に成功した。
「やった! やっぱり、今のおねえ様ならかかると思った!」
緊張のあまり、エラは肌着のままだというのに全身が汗で濡れていた。
「さぁエイシア、いつまでも不満そうな顔をしていないで。次の作戦を急いでよ」
エラはそう言いながら、クモ型の胴の中で、倒れたルネの頭を抱えて膝に乗せた。
エラは翼の機能を止めてはいないので、自身は冷気の影響を受けないが、大事な姉を凍るようなその床にただ寝かせてはおけなかったのだろう。
――(ちっ。分かっておる)
急かされたエイシアは、クモ型の出入り口から倒れたルネの額に前足を伸ばし、僅かに出した爪をそっと当てた。
その大きな赤い双眸を閉じ、大きく息を吐いて集中している。
「いい? エイシア。おねえ様を諭せるのはエイシアだけなの。頼んだわよ?」
エラは姉の頭を優しく撫でながら、エイシアには少し強く言った。
――(何度も聞いた。そう何度も確認せずとも分かっておるわ)
「それでもよ。チャンスはこの一度きりだもの。まずは意表を突いて。人の姿で現れるのもいいと思うの」
――(……その通りにしてやろう)
「それから、おねえ様は戦うことに関しては鋭いから、その辺のことでは煽らないで。絶対よ?」
――(それはすでに聞いただろう)
「私はこのまま、おねえ様の思考力を弱めてみるけど……その間に、おねえ様が抱える憎しみを吐き出させて。でないと、おねえ様は絶対に突っ走っちゃうから」
――(それも聞いた)
「それから……」
――(もう良かろう。どうしようもなければ排するしかない。それも覚悟しておけ)
「嫌! 絶対にそんなのいやだから! おねえ様のこと、お救いできるのはきっと今しかないの。それには、エイシアの協力が必要なの。だからお願い!」
――(ちっ。それも聞いた。我がぬかったりするものか)
**
エラとエイシアは、今日のこのタイミングが来ることを予見していた。
だからそれまでに、綿密な作戦を練っていたのだった。
ただそれは、ルネが心を乱して、何かしらの兵器を乱用するという事を予見していただけで、いつどこで何が起きるのかは分からなかった。
寸前になれば分かるというエイシアの言葉に賭け、そのタイミングをずっと待っていたのが、今日この日の、今だったという。
そのチャンスを逃さず、絶対に姉を救うのだと揺るがないエラと、手伝いのエイシア。
一人と一頭は、考えが合わないながらも、協力する。
特にエイシアにとっては、世界の調整という面倒な事をこなす為に、ルネの存在もエラの存在も、『どちらか欠けた方がより面倒になる』と予見しているからだった。
そして、そのどちらかといえば、今のエラに協力する方が話が通じやすい。
なぜなら、ルネの心の奥底には、誰にも手の施しようがないほどの、隠された憎しみが煮えたぎっているから。
それは、体を共有していたエラが先に気付いていた。
次に、何度か相対したエイシアが見抜いた。
ルネの、その攻撃の迷い無さは、何の訓練も受けていないはずの人間に出来るものではないから。
生き物を殺めるための攻撃というのは、どこかで心の天秤に『理由』を乗せている。
それは、生きるための糧にするからだとか、戦争だから仕方がないだとか……とにかく、本人が納得出来る事象が『殺す』と『理由』を釣り合わせている。
だが……ルネにはそれが無い。
ただ『敵だと認識した』というだけで、生き物を殺められる。
生き物が大きくなればなるほど、その罪悪感も大きくなりやすいにも関わらず、だ。
体を共有していたエラは、自身であればとても動けないような局面でも、迷わず自在に動ける姉の、その闇をずっと感じていた。
相対したエイシアは、攻撃の意図を微塵も出していない初見の時に、本気で斬りかかられた時に感じた。
エラもエイシアも一瞬は、ルネが軍人だったのではと思うほどだったが、どう見ても軍事訓練の経験を感じない。
ならば、その迷いのない殺意は、一体どこから呼び出しているのか。
それは――。
『心の底に焦げ付いた深い憎しみ』
そう、それこそが、ルネの持つ『理由』だった。
そしてその対象は、この星には居ない。
……元々が、穏やかで優しい性格だったのが、功を奏していたのだろう。
それが本来の対象にさえ向かう事はなく、他の誰かに向けられる事も無かった。
一つあるとすればそれは、自己犠牲的な習性を持つようになった原因であろう。
だから、無謀な戦闘でもその身を盾にしたし、明らかに実力不足であっても立ち向かった。
しかし、運よく身に着けていた翼や特別な剣のお陰で――もしくは、それを計算に入れて――命を失う事はなかった。
そして今は……しかしどういう訳か、その憎しみを前面に出し、世界中に向けて怒りを振り下ろそうとしている。
その国が敵になるかもしれないという、あくまで予想でしかない状況であるにも関わらず――。
そこに至ったのは、金属片に込められた想いが、ルネの心を大きく揺さぶったから。
それは小さなきっかけでありながら、これまでのルネの軌跡を作った大きな原因でもある。
それの名は、ダラス・ロアクローヴ。
彼の人生が、ルネの人生を大きく動かした。
因果の大元である彼の思念に触れ、だからこそ、ルネは錯乱に陥った。
生来の優しさゆえに、その思念に寄り添ってしまった。
焦げ付いた憎しみゆえに、その思念に触発されてしまった。
感情の爆発で、ルネは今、おそらくは初めて――憎しみに呑まれた。
……溜め込み、焦げた想いほど、その怒りは強い。
それを抑え込み、諭そうとしているのが、エラとエイシアの連携作戦だった。
そのルネを眠らせ、記憶の網の中に呼び込む事には成功した。
ただ、それは作戦の、ほんの始まりに過ぎない。
記憶の網の中に、ルネの焦げ付いた憎しみを吐き出させる必要がある。
しかし、それだけを切り離す事は、おそらく不可能。
なぜなら――生きた記憶は、断片にはならないから。




