第九章 二十三、怨嗟と滅裂と混濁と
第九章 二十三、怨嗟と滅裂と混濁と
銀髪赤目の少女は、着の身着のままに翼を着け、飛んでいる。
その翼には保護機能があり、装着した者を一定の状態に保つからこそ、少女は凍えずにこの空を飛んでいられる。
吹雪は勢いをさらに増し、視界はもはや無いに等しい。
ただ白く煙る極寒の世界に、荒風がその景色をさらに歪ませる。
風向きを頼ろうものなら、前が横にも後ろにもなり、一度でも振り返れば方角を失う。
――(エイシア! ちゃんとついてきてる?)
人魔や虎魔が用いる念話で、神獣として愛でられるようになった銀毛虎柄の巨大ネコに、少女は迷っていないかを問いかけた。
――(我を誰だと思っている。それより、もう少し右に角度を取れ。愚かな『世界の敵』は、森の中だ)
――(わ、わかってるわよ)
少女は、姉の窮地だと巨大ネコに告げられ、裸足のままで飛び出して今に至る。
だから、大切な義父にも告げていない。
『世界の敵になりかけている』
その言葉は少女にとって、可能であれば一生聞きたくないものだったから。
なぜなら、虎魔であるエイシアの存在理由は世界の調整であり、『世界の敵』が現れた際は速やかに排除するのが使命だから。
こともあろうに、姉がそれに、なりかけているというのだ。
――(絶対に、私が止めて見せるから!)
――(チャンスは一度しかないだろう。お前がしくじれば、即座に処理する)
――(そんなこと、させないってば!)
そのようなやり取りをしながらも、人魔と虎魔はありえない速度で、大雪を吹き飛ばしながら進んでいる。
吹き荒れる雪は人魔の前で霧散し、二メートルの積雪は虎魔にとって障害たりえなかった。
どちらの魔も念動を用い、尋常ならざる力を発揮しているから。
そして、人魔にいたっては古代の最高性能兵器である翼が、風雪さえ防いでいるためだった。
――(愚か者が見えたぞエラ。悠長に止まる時間さえ無いと思え)
――(……おねえ様の体なら怪我はしないわ!)
虎魔の悪態と命令は、目を掛けた愚か者が、本当に愚かな選択をしたせいで苛立っていたからだった。
少女もまた、姉に対して少し怒っていた。
いつも一人で抱え込み、決して人を頼らないその頑なさに。
「今日だけは優しくしないですからね! おねえ様!」
少女はそう叫ぶなり、雪に埋もれつつある巨大なクモ型兵器の残骸の中へと、ほぼ減速せずに突っ込んだ。
そして――衝突のほんの手前、直前でビタリと静止し、クモ型の中に居る姉に向かってまた叫んだ。
「おねえさまぁぁ! ――眠りなさい!」
それは、人魔が持つ魅了の力。
力をつけた今では、ただ魅入らせるだけではなく、眠らせて意識を奪うことさえ可能になっていた。
ただそれは、オートドールである姉にはずっと通用しなかった。
この場で通じるかどうかは、賭けに等しい。
でも、少女が魅了に失敗すれば、姉は虎魔に殺されてしまう。
――その姉が、声に反応して少女に振り向いた。
その手を高く突き上げ、今にも眼前の広い金属板に叩き付けんとする姿勢だったせいか、姉は体ごと少女に向き直った。
その手には、小さな金属片が見える。
姉が今、しようとしていた行動を完遂させてはならない。
そのためには、魅了をこの瞬間に、必ず成功させなくてはならない。
そう気負っていた少女だったが……。
――今まで見たこともないような、あまりにも憐れな忘我の瞳が、そこにはあった。
金髪青眼の絶世の美少女で、金色の女神とさえ呼ばれる自慢の姉。
誰にも優しくて、強く、そして真っ直ぐで責任感の強い、大好きな姉。
でも、今のその姿は――とても可哀想だった。
「……眠るのよ。おねえ様」
まるで、子か小さな妹を慰めるように、少女はやさしく言い付けた。
その結果……姉は振り向いた姿のまま体がよじれるように、どさりと重たい音を立てて崩れ落ちた。
――(通じたのか)
虎魔エイシアが、クモ型のそれごと切り裂こうと、爪を剥き出しにしながら少女に問うた。
――(言ったでしょう? おねえ様のこと、愛してるんだから)
少女は腰に手を当て、大きなため息をつきながら振り向き、そして虎魔に笑ってみせた。
――(意味が分からぬが)
エイシアはせっかく出した爪を引っ込め、興が逸れたような不服のある目を、少女に向けた。
****
……あれ? ここは、どこ?
さっきまで、スパイダーの胴の中で……衛星が起動したけど、殲滅兵器っぽいのを起動したみたいで、それで……。
どうなったんだっけ。
思い出せない。
なんとなく、ダラスの悲しい気持ちが入り込んできて……。
私も、悲しい気持ちになった。
ダラスの苦しみと怒りが流れ込んできて、私も苦しくて、そして怒りに震えた。
そうしたら、人から何もかもを奪う戦争を止めるための、最高の力が目の前にあったの。
争う人々を全て焼き払えば、戦争は止まるんじゃないかって、思うわよね?
――フフ。随分と勝手な考えかしら。
でも、私はなぜか、それでいいやと思った。
だって――肉親であっても、私から尊厳を奪ったじゃない。
人格を否定して、存在を否定して、ただ彼らのウサを晴らすために何もかもを否定された。
力のない子供のころからその理不尽に晒されて、私は辛かった。
あれも……肉親でさえも、奪う者だった。
――それって、憎しみが積もり続けても、おかしくないよね?
私の大切なものを、全部奪い取ったあげくに目の前で踏みにじるなんて。
人のすることじゃないもの。
――そう、人ではないの。
さっき私が、焼き払うための力を良しとした理由はそれ。
奪おうとするものは、人ではないのだから。
それにどうせ、やらなければ、こちらがいいようにやられてしまうもの。
多くの命を奪い続ける国同士の戦争もそう
それから、命を命と思わない非道な殺戮者もだし、人の大切な物を奪って人生を傷付けるのもそう。
命に等しい、人の尊厳を奪う者も同じ。
――だから、滅ぼせるなら滅ぼせばいい。
大丈夫。敵国に撃つだけらしいから。
生き延びた人々で、奪わずに生きていけばいい。
――そうでしょう?
**
――さっきの操作盤を探しているのに、どこにもない。
そもそもここは……スパイダーの胴の中じゃ……ない。
キラキラ、きらきらと光る星々が、手が届きそうなくらいのところできらめいている。
その中で……浮いているみたい。
ああ、違う、そうだ。
ここはエラに連れていってもらった、記憶の網だ。
――私…………どうしてここに来たんだっけ。
何か用事があったっけ。
エラが呼んでくれたのかな。
でも、私にはやりたいことがあったのに。
エラ? エラ? どこに居るの?
早くさっきの場所に私を帰して。
うん? 声が出てないのかも。
ああ、そうか、私はあちこちを切り取られた、ボロボロの鳥の姿だったっけ。
やっぱりそうだ。
子供のころの私みたいに、心はどこもボロボロで、それでもやり返さずにじっと耐えた精神の形そのものね。
――アハハハハ、可笑しい!
子供がやり返すなんてこと出来ないから、あの、人ではないもの達は私に酷いことをしたのよ!
これは教育だと嘘をついて。
親が全て正しいのだと、大嘘をついて。
あんな滑稽な、人の姿をしただけの下衆どもが、よくも私を……。
ああ。そんなことよりも早く、早くあの場所に戻って、力を振るわなくては。
敵を……敵国を焼かなくちゃ。
今こそ、やられる前にやらないと。
リリアナを護るのよ。
リリアナの居る、ファルミノを襲った罰だ。
私の大切な人達を、奪おうとした罪は重い――。
二度と出来ないように、焼き尽くしておかないと。
でないと、不安だもの。
逆に、二度と来ないと分かれば、ずっと安心だもの。
はぁ、戻り方が分からない。
可愛い小鳥姿の、エラを探さないとね。
急ぎたいけど……。
でも私じゃ、上手く飛べない。
だって、羽がもうないもの。
どんな形だったかさえ分からないくらいに、風切り羽がひとつもないわ。
――(眠るのよ。おねえ様)
エラ? どこに居るのよ。
早く私を、操作盤の前に帰して。
こんなところに、私を一人にしないでよ。
エラ? どこにいるの?
……ちょっと、心細い。
寂しいし、不安だよ。
エラ、早く出てきて。
敵を、倒さなきゃいけないのに。
こんなところでかくれんぼなんて、しないでよ。
エラ。
私にしか、できないの。
エラ。早くここから出して。
お願い……ここには長く居たくないの。
エラ。
エラってば――。




